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関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi 
[2016.08.10]

バレエ『ラ・バヤデール』を大胆に翻案し、舞踊と演劇の融合を試みた意欲的舞台

『ラ・バヤデール-幻の国』
金森穣:演出、平田オリザ:脚本、Noism:振付

平田オリザが脚本を書き、金森穣が演出し、Noismの振付による『ラ・バヤデール-幻の国』の神奈川公演を観た。Noismは本拠地の新潟公演はもちろんだが、神奈川、兵庫、愛知、静岡、鳥取と新作公演を全国展開している。新潟に拠点を置きながら、新作のたびごとのように公演地域を広げているのは大したものだ。これほどの展開を行なうことが出来る舞踊カンパニーは、日本ではほかにはない。

tokyo1608c_0068.jpg ムラカミ/貴島豪、看護婦/石原悠子
撮影:篠山紀信

『ラ・バヤデール-幻の国」は、カースト制度のような階級対立のある架空の国家を設定し、民族国家間の政治的対立を背景とした劇的舞踊として演出・振付けられている。
言うまでもなくマリウス・プティパによる19世紀の著名な古典バレエを下敷きにし、作品の全体像を現代的に理解し易くしていると思われる。主要部分の音楽もこのバレエのミンクスの曲を使用している。もともとバレエ曲は主役とコール・ドを想定してシンフォニックに編成されており、主として主要旋律を主役が踊り、背景に流れる旋律をコール・ド・バレエが踊ることが多い。この作品では主要旋律を主役が踊り、コール・ドは主役を引き立てる役割りを担いドラマティックな表現をつくろうとしている。そのため古典的と言えばそうだが、音楽とダンスが輻輳的な様相を見せることに重きをおこうとしていない、と感じられた。
ドラマとしては古典バレエの、ソロルを諦めろとガムザッテイに命じられたニキヤが短剣を抜いて斬りつけるシーンはない。こうした個人的なドラマよりも民族国家間の幻想と陰謀の犠牲者であろことを強調したかったのだろうか。
最初のシーンからアヘンを作る芥子の花を登場させて、アヘン中毒の幻影と幻の国----傀儡政権による支配の幻影を生んだのは、ある国の国民の幻想のなせることだといおうとしているのかにも見えた。

tokyo1608c_1450.jpg ミラン/井関佐和子 撮影:篠山紀信

記者会見の席上で平田オリザは、国家間の政治的対立、傀儡政権を作った過去を持つわれわれのことを語り、『ラ・バヤデール』の世界と同時にそうした政治的ドラマが「楽しめる」と語っていたと思う。その言葉に私は思わずドキッとした。あまりにも私の現実感とそぐわない言葉だったからである。もちろん平田のドラマを作った現実とは直接関係ないものであろうが、例えば「インパール作戦」とかソ連軍のシベリア突入とか、そこにはまさに筆舌に尽くしがたい地獄の現実があった。少なくともわれわれはそれを親の世代から事あるごとに聞かされて知っていたから、およそ「楽しむ」などという言葉とは、永遠にそぐいようもなかったわけである。つまりはそれは世代の違いが関わった印象ということであろう。
バレエ『ラ・バヤデール』の場合は、ラストシーンで神殿が崩壊して神がその実体を垣間見せる。それは回想的現実ではない。世界の終わりを示唆しているのである。

舞踊はその曲想を捉えて、金森穣らしい動きで構成されていた。ただ、セリフが多く舞踊的流れに水をさす部分があったのは残念である。
ミランを踊った井関佐和子もバートルを踊った中川賢も素晴らしい動きで奮闘していた。看護婦と謎の老女を踊った石原悠子は不気味な演技でドラマの展開を引っ張った。また、可動式の何本かの銀色の柱を使った装置は、うまく機能してそれぞれのシーンを表した。いつも空間構成は見事である。
舞踊と演劇の融合を目指した意欲的でチャレンジングな精神には、いささか感心させらた舞台だった。
( 2016年7月1日  KAAT神奈川芸術劇場)

tokyo1608c_1603.jpg 撮影:篠山紀信 tokyo1608c_1981.jpg 亡霊たち 撮影:篠山紀信
tokyo1608c_2310.jpg ミラン/井関佐和子、バートル/中川賢
撮影:篠山紀信
tokyo1608c_2465.jpg ミラン/井関佐和子、バートル/中川賢
撮影:篠山紀信