ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

From Tokyo <東京>: 最新の記事

From Tokyo <東京>: 月別アーカイブ

浦野 芳子 text by Yoshiko Urano 
[2012.05.10]

新国立劇場バレエ団のダンサーが平山素子作品を踊ったトリプル・ビル

演出・振付;平山素子『Ag+G』『Butterfly』『兵士の物語』
新国立劇場バレエ団

平山素子と言えば、新国立劇場のコンテンポラリー・ダンス・プログラムの常連的存在である。その平山素子振付作品だけで構成されたトリプル・ビル。しかも、出演するのは平山自身でも平山作品になじみの深いコンテンポラリー・ダンサーでもない。踊るのは全員、新国立劇場バレエ団のダンサーたちである。
デビット・ビントレーが芸術監督に就任して以来、新国立劇場バレエ団は、古典の枠にとらわれない新しいバレエ作品や、現代作品にも積極的に取り組むようになってきた。しかしこのような形で、新作を含めひとりの振付家の作品に向かい合うのは、カンパニーとしてもダンサーたちにとっても、過去にない経験だったと思う。古典だけでなく、現代作品をも踊りこなせる集団をめざし、同カンパニーが新しい海へと漕ぎ出すその出発を目の当たりにする、貴重な機会の目撃者となることができた。
平山素子は、幼いころからバレエを学び、後に現代舞踊と出会う。バレエは好きではあるが自分の表現の場はそこにはないと気付き、現代舞踊の道へと進んだと聞く。そうした経緯を持つためか、彼女は確かなテクニックを持ち、しかし既成の枠を超えた表現の幅、個性を持つ稀有なダンサーの一人であると言ってよいだろう。
クラシック・バレエを知った上で、現代舞踊を生きる平山が、バレエ・ダンサーたちに出会わせる新たな世界である。

tokyo1205f_1096.jpg 撮影:鹿摩隆司

◎『Ag+G』
今回の三作品の中で唯一の新作であり、新国立劇場バレエ団のダンサーたちによる初演となった。Agとは銀の元素記号、Gは重力を意味するGRAVITYの頭文字。その冷たい輝き、殺菌力、神秘性、魔除け、etc…銀の持つそうしたイメージ。そこに、ダンサーが常に立ち向かう重力と言う力を出会わせ、独自の世界を描き出した。
月面のような、しんと静まり返った宇宙的世界を思わせる光の砂漠の中に現れる、不思議な質感の生命体。そして、光の窓から侵入者のようにして現れるシルエットは、気味の悪い昆虫の様でありしかし、その長い四肢と繊細な動きはどこかはかなく美しい。冷たく、どこかもの悲しいバイオリンの音色は漆黒の孤独に包まれた光の砂漠の寂しさを際立たせるようで、そこで繰り広げられる不思議な生命体たちの物語を、此の世のモノではないどこか遠い世界の、無機質なものに感じさせる。
背中に爬虫類を思わせる突起の付いた、シルバーに輝くコスチューム、グリッターを効かせた肌の質感。ダンサーたちは、この見知らぬ星の不思議な生命体となりきり、独自のフォルム、ラインを創りだしていた。そして、タイトルが示す通り、重力から解き放たれているかのような身体の動きと、重く大地に引きずり込まれるかのような重力との拮抗を表す動きの対比が、絶妙なコントラストを描いていた。

平山素子ならではの動き、身体表現として注目したいのはやはり、浮揚感を表現するリフトである。身体が頂点に達した時の滞空時間の長さ、同時にそこに現れる伸び続ける曲線。このふたが出会うと、重力から解き放たれ自由に宙を遊んでいるかのような何とも言えない浮揚感、つまり“無重力”の表現が出現するのだ。しかし、こうした身体の動きは、“クラシック・バレエの型”の中で表現を行うことに慣れているダンサーたちにとって、身体的にも精神的にも、難易度が高いものに違いない。そうした作品に、若手ダンサーらが果敢に挑んでいるのを見るのは、バレエ団の未来を頼もしいものに感じさせた。
古典作品においても個性的なキャラクターを魅力的に演じてきた湯川麻美子は、この作品においても圧倒的な存在感と発信力を見せつけたと思う。ラストシーン、湯川と古川和則が、渾身のデュオを見せる。ふたつの命が激しくぶつかり合い、しかし融合することは無く、やがて湯川演じる生命体が光の砂漠を去っていく。取り残された古川を、孤独の砂漠がしんと包み込む…。
新たな時空へ向かうエネルギーと、過去に飲み込まれるエネルギー。それはある意味、(重力と言う)目に見えない力に縛られている、私たち人間すべてに共通する風景なのかもしれない。

tokyo1205f_0277.jpg 撮影:鹿摩隆司

◎『Butterfly』
この作品を平山素子が、自分以外の誰かに踊らせるという勇気にまず驚いた。『Butterfly』は2005年に平山素子と中川賢(現・Noism1)により初演された、珠玉の名作である。まさしくタイトルの通り、蝶のようにひらりと宙に浮く二つのいのちが出会い絡み合う刹那を描いた作品である。その物語は出会いや恋愛の高揚感や失望感を表現しているようでもあり、宙に浮いたり、地面にはかなくも落下する様は、幸福感の儚さを表すようでもある。身体性と言う面ではここでも、平山独自の“浮揚感の表現”が力を持ち表現に厚みをもたらす。繰り返されるリフトとジャンプの中で、ふたつの命がギリギリのエネルギーを持ってぶつかり合うさまに、出会いがもたらす情熱という化学変化、感情の刹那、そうした言葉にするのにはあまりあるものを言葉を超えて伝えうる舞踊の可能性を、鳥肌が立つほど感じたのが今も記憶に新しい。そして何より、平山と中川の演技が鮮烈かつ素晴らしかったのだ。落涙してしまうほどに。
ジィィィッ…と繰り返される機械音が、円くスポットライトの落とされた舞台に響く。まるで誘蛾灯のようなその世界に飛び込んでくる、Butterfly…。その光が死を誘うものだとも知らずに彼は、そこに飛び込んでくる。そして、美しい蝶を、その光の輪に誘い込む。美しいピアノのメロディが加わると、死を誘うその光の中で出会ったふたりは、そこから逃げることを選ばずに、ぎりぎりの命をぶつけ合う。
この名作に挑んだのは、本島美和/奥村康裕、丸尾孝子/宝満直也、の2カップルだ。
本島/奥村のButterfryは、今、自らが持てるエネルギーをすべてこの作品に注ぎ込んだ、全身全霊の表現だった。特に、本島のまっすぐな表現と、ある種硬さの残るラインが、良い意味での若さやもろさを表出させ、客席を素直に感動の渦に巻き込んでいた。
丸尾/宝満は、そうしたエネルギーをよりまるく、儚く表現していた。とくに、丸尾が表出させていた曲線は平山の意図する空中浮遊感にしっくりと馴染んで見えた。ジャンプして宙に浮く瞬間、振り返るタイミング、そうした繊細な部分で見せるラインには、出会いと別れの刹那が切実に表現されていたように思う。
二日間の公演で一番たくさんの拍手を浴びたのは、間違いなくこの作品だった。
なにしろ、本当に、ダンサーとしてのすべてを出し切らない限り形にならない、ぎりぎりの作品なのだ。両日とも、アンコールの拍手の中にいる彼らが、達成感の表情を浮かべ宙を見つめていたのが、何より感動的だった。

tokyo1205f_0330.jpg 撮影:鹿摩隆司

◎『兵士の物語』
こちらも再演である。初演は2010年の“ストラヴィンスキー・イブニング”。平山素子と言う個性的な振付家が、新国立劇場とのかかわり合いの中で、異色の作曲家であるストラヴィンスキーとの出会いに導かれ、誕生したのがこの作品だ。抽象的かつ難解なその作品世界において、ストーリーとしてのわかりやすさを追求している意味では、平山世界における異色でもある。
悪魔の誘惑で、大切なバイオリンをやすやすと手放してしまう兵士。その裏にある欲望、という人間の心の隙間を、ウィットたっぷりに表現するこの音楽劇を、言葉を一切用いずに身体で表現する。しかもストラヴィンスキーの音楽は、遊びの間も多いため、言葉に頼らず音楽の世界に身体を馴染ませその世界を伝えるというのは、ダンサーにとってかなりハードルが高い。
音楽をシナリオに、するすると愉快痛快に、観客を飽きさせることなく物語の世界に導く。その大切な役割を果たしたのは、山本隆之演じる悪魔と、その手下である三人の道化の存在だった。普段は“王子様”を演じることに慣れている山本が、背を丸め首を前につき出し、怪しげな悪魔を演じる。三人の道化は、いかにも親しげにコミカルに兵士に取り入る。端正なバレエの表現にはあり得ない、珍妙な動きを、言葉のように繰り出した彼らの表現力は、客席を大いに楽しませストーリーへと引き込んだ。
そして兵士は、見栄っ張りだが実は心の弱い、ある意味純朴な青年である。その迷いや戸惑い、強がりが、立ち居振る舞いからある種の親しみを帯びて伝わってくるのも、今回のキャスティングの妙であった。初日を演じた福田圭吾の兵士は、バレエダンサーらしいどこか端正な表情を残しているのだがそれがかえって、舞踊作品としてのクオリティを引き締めていたように思う。音楽ともぴたりと呼応するのが見ていてとても心地よかった。二日目の八幡顕光の兵士は、もう、出てきた瞬間から“いかにもだめな兵士さん”。キャラクターを見事に自分のモノにした彼の存在感が、作品を映画のような面白さに変えた。大柄な厚地康雄が演じたプリンセスの妙な色気も、軽妙な笑いを誘う。こうして、ひとりひとりの存在感が際立つことで、単純なストーリーが深みを増していた。
何より、生の音楽演奏と、ダンサーたちの身体が呼応し合うのを観て、感じるのは、舞台芸術だからこそ味わえる贅沢だろう。ダンスファン、音楽ファン、どちらにとっても意味のある時間であり作品であったと、言えるのではないだろうか。
こうした試みが、国立の舞踊カンパニーにおいて実践されたということも実に有意義。芸術が、古典を踏襲することに終わらず、現代から未来へと継承されていくその過程には、こうした果敢なチャレンジの繰り返しが、きっと必要なのである。
(2012年4月21日、22日 新国立劇場 中劇場)