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ウラジーミル・マラーホフという舞踊家の強靭なスピリットが描いた、美しいマラーホフ版『白鳥の湖』

ワールドレポート/東京

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

『白鳥の湖』ウラジーミル・マラーホフ:芸術監督・演出・振付

ウラジーミル・マラーホフ版『白鳥の湖』全4幕を観た。オデット/オディール 上野水香、ジークフリート王子 厚地康雄、ロットバルト 遅沢佑介、道化 二山治雄、パ・ド・トロワ 水井駿介(ベンノ役)久富礼子 吉川茉帆 他の出演。物語の大筋はロシアの従来版と大きく変えていないが、細やかな配慮により丁寧な演出・振付が施されており、古典的に整えられたヴァージョンである。

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二山治雄 Photo by Koujiro Yoshikawa

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水井駿介、久富礼子、古川茉帆、厚地康雄
Photo by Koujiro Yoshikawa

第1幕は、まず、淡いグリーンの衣裳の女性ダンサー8人と道化が踊り華やかに開幕する。道化が王子を舞台に招き、王子やパ・ド・トロワの踊り手、道化が踊り、女性8人と白い衣裳の8人の男性ダンサーが舞台に大きく広がる。王妃が登場して誕生祝いの弓を渡す。そしてパ・ド・トロワに王子も加わって活気のある踊り。王妃は、ジークフリートに結婚して王亡き後の王国を治めるように命じ、やがて念を押して立ち去る。自由で気ままに振る舞っていた王子は、経験したことのない責任を引き受けなければならないことを想い、孤独に襲われる。王子の気持ちを配慮したベンノを中心に、道化が気持ちを引きたて、8人の男性ダンサーがその心にシンパシィを表して踊る。
ワルツに配された男性8人と女性8人のダンサーを有効に使い、シーンのエッジを際立たせるのではなく、変化を美しく見せる無駄のない滑らかな振付で、フォーメーションも綺麗にまとまっていた。コール・ド・バレエの細かい動きにまで振付家の意図が行き届いているので、全体が整い観客と気持ちが繋がった。王子の気持ちを慮る演出には、マラーホフならではの優しさが顕れていたし、芸術監督補佐のイルギス・ガリムーリン、バレエ・ミストレスの成澤淑榮のモスクワ・クラシカル・バレエ団でともに踊ったスタッフの協力が良い結果をもたらしたに違いない。ベンノ役の水井が全体の要となってしっかりと王子の立場をフォローしており、闊達な道化を踊った二山とともに好演だった。他のヴァージョンでは、家庭教師役が若い女性と戯れて、老いと若さのコントラストを見せる演出もあるが、ここではそうした余興的なシーンはなく、家庭教師(保坂アントン慶)はその役割に徹していた。

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遅沢佑介 Photo by Koujiro Yoshikawa

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Photo by Koujiro Yoshikawa

ウラジーミル・マラーホフは1968年生まれでウクライナ出身。幼い頃からバレエに夢中になり、ボリショイ・バレエ・アカデミーに在学中から日本公演に参加し、すでに人気を集めていた。マラーホフの舞台姿はまさに少女漫画が描く王子様がこの世に現れたかのような優美なスタイルと優しい表情、そして名教師ピョートル・ペーストフ仕込みの優れたテクニック――とりわけ、猫のようにサイレントで着地するジャンプは大変に魅力的だった。当時、彼が出演した劇場では、出待ちの少女たちの黄色い声が飛び交っていたのをよく覚えている。マラーホフ・ファンはモスクワ・バレエ・アカデミーを卒業したら、当然、ボリショイ・バレエに入団するものと信じていた。ところがマラーホフは、ロシア国立モスクワ・クラシカル・バレエ団に入団したのである。当時の私は、スターリン時代を経たロシアの複雑な歴史などに無知であったし、日本でどんなに人気があってもバレエ大国ロシアでは認めてもらえないのか、あるいはモスクワ・クラシカル・バレエ団がカサトキナ/ワシリヨーフを芸術監督として、独特の創作バレエを発表していたのでそのクリエイティヴな活動に共感して入団したのか、などと推測した。また、当時、グリゴローヴィッチが芸術監督として君臨していたボリショイ・バレエは、古典名作バレエを上演していたが、『スパルタクス』や『イワン雷帝』あるいは『黄金時代』と言ったスペクタキュラーな大作によってその特徴を現していたから、マラーホフのダンサーとしての資質が生かされるかどうかは分からない、などとも思った。

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厚地康雄 Photo by Koujiro Yoshikawa

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上野水香 Photo by Koujiro Yoshikawa

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上野水香、厚地康雄
Photo by Koujiro Yoshikawa

マラーホフ版『白鳥の湖』の3幕では、ロシア、ポーランド、ナポリ、スペイン、ハンガリーの各国からそれぞれ姫君が招かれ、各国の代表的な踊りが披露される。しかし、ジークフリート王子の心は2幕で永遠の愛を誓ったオデットにあり、各国の美しい姫君たちの中から花嫁候補が選ばれることはない。そして、道化と色とりどりの衣裳を着けた可愛いらしい小道化たちが踊ると、けたたましいいファンファーレ鳴り、魔術によりオデットそっくりとなった黒いドレスのオディールがロットバルトに伴われ、黒鳥4羽を従えて現れる。花嫁候補たちに囲まれてオデットに強く想いを寄せていたジークフリートは、蠱惑的なオディールと踊り、ロットバルトに幻惑されてたぶらかされてしまう。すると、心配のあまりその場に駆けつけていたオデットの姿が窓に写り、シークフリートは欺かれたことに気づく。
この3幕の展開は、実にスムーズで余計な所作や極端な劇的強調もなく、緩急自在でテンポが良く、全てがあたかもシークフリート王子の脳裡に映った情景ででもあるかのように進行していた。
4幕は6羽の黒鳥を加えたメリハリの効いたフォーメーションが美しい。シークフリートが欺かれ、絶望の淵に立たされたオデットは、白鳥に変えられた侍女たちとともに嘆き悲しむ。ジークフリートは全身全霊を込めて許しを乞い、自身がたぶらかされた失敗にも怯むことなく、死を賭して敢然とロットバルトに立ち向かい、ついに打ち倒す。そして、ジークフリートとオデットは重なり合って死を迎えるのである。4幕のラストシーンの上野のオデットと厚地のジークフリートの踊りは、このドラマの情感のすべてが凝縮されて劇的に表れており、素晴らしく、感動的なエンディングだった。

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上野水香、厚地康雄 Photo by Koujiro Yoshikawa

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Photo by Koujiro Yoshikawa

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Photoby Koujiro Yoshikawa

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上野水香、厚地康雄 Photo by Koujiro Yoshikawa

1991年8月、超大国だった旧ソ連邦は崩壊し、クレムリンには新たにロシア共和国の国旗が掲げられた。マラーホフの故国ウクライナも独立した国家として国際連合に参加する。そしてこの年の12月、ウラジーミル・マラーホフはロサンゼルスの舞台で『くるみ割り人形』を踊った後、「僕はもうモスクワには戻らない」と最愛の母に電話した。
以後、マラーホフはマリシア・ハイデを始めとする優れた舞踊家たちと出会って、類いまれなダンサーの資質を賞賛され、ウイーン国立歌劇場バレエ団、シュツットガルト・バレエ団、アメリカン・バレエ・シアター、カナダ国立バレエ団ほかで踊り、日本でも世界バレエフェスティバルに出演したほか、たびたび公演を行った。2001年には、10年前にロシアから離れて以来初めて、母国の舞台であるマリインスキー国際バレエ・フェスティバルでアルブレヒトを踊った。この舞台では、ジゼルの墓前で激しく悔いるアルブレヒトに、母国を去ったことの赦しを乞うマラーホフ自身の心が映り、会場を飲み込むかのような感動の波が生まれた。私もこの舞台を観て、胸を熱く突き上げるものを感じたことが今も忘れられない。
そして、2002年にはベルリン国立歌劇場バレエ団の芸術監督に就任し、『カラヴァッジオ』(マウロ・ビゴンゼッティ 振付)『チャイコフスキー』(ボリス・エイフマン 振付)他の名演や多くの振付作品、『ラ・ペリ』の復刻などの実績を残した。2014年にはベルリン国立歌劇場バレエ団芸術監督を退任したのちは、戦禍に見舞われた故国ウクライナやキューバ、東欧の国々あるいは淡路島などのあまり恵まれているとは言えない地域のバレエ活動に、労を厭わず積極的な協力を行っている。今回、アトリエヨシノの主催により上演されたマラーホフ版『白鳥の湖』も、その一貫として2017年にクロアチア国立バレエ団に振付けられたものである。
ウラジーミル・マラーホフのバレエ芸術への深い深い愛は、当初は、ロシア・バレエのエスタブリッシュメントに受け入れられなかったかもしれないが、国家が崩壊するという激動の中でも、脈々と営まれて発展し続け、世界の観客に感動を与えてきた。今回のマラーホフ版『白鳥の湖』のラストシーンの感動は、彼の人生を抜きにしては語ることはできない。ジークフリート王子には、バレエへの深い愛を貫いたマラーホフ自身のスピリットが、深く美しく反映しているからである。
(2025年2月8日 神奈川県民ホール)

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Photo by Koujiro Yoshikawa

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Photo by Koujiro Yoshikawa

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ウラジーミル・マラーホフ Photo by Koujiro Yoshikawa 全ての写真:ⓒAtelier YOSHINO

オンデマンド配信決定!『白鳥の湖』(ウラジーミル・マラーホフ:振付)

配信期間:2025年5月3日(土)00時00分~5月16日(金)23時59分
料金:2,500円(税込)
配信:ストリーミングプラス(Streaming+)
https://eplus.jp/sf/detail/2549830002
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