間もなくコベント・ガーデンで上演される新国立劇場バレエ団の吉田都:演出、アラスター・マリオット:改訂振付の『ジゼル』
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ワールドレポート/東京
関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi
新国立劇場バレエ団
『ジゼル』ジャン・コラリ、ジュール・ペロー、マリウス・プティパ:振付、吉田都:演出、アラスター・マリオット:ステージング・改訂振付
新国立劇場バレエ団の吉田都:演出、アラスター・マリオット:改訂振付による『ジゼル』(ジゼル/柴山紗帆・アルブレヒト/速水渉悟)の再演を観た。この『ジゼル』は2022年10月に新国立劇場バレエ団により初演され、今年4月に再演された。そして7月には吉田都芸術監督が、かつて英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルとして踊ったコヴェント・ガーデンの舞台で上演されることが決まっている。無論、上演するのは、吉田都率いる新国立劇場バレエ団であり、すでにこのロンドン公演の主要キャストも発表されている。
吉田都が師と仰ぐピーター・ライトが、プティパの振付(コラリ、ペローの原振付に基づく)に追加振付、演出した『ジゼル』(1961・87)は、英国ロイヤル・バレエ団のレパートリーとなっている。ロンドンの観客は、当然このライト版『ジゼル』に親しんでおり、来年2月にも上演予定がある。新国立劇場バレエ団の吉田・マリオット版『ジゼル』を彼らがどのように観るか、興味を惹かれるところだ。
この機会に、今年4月に再演された吉田・マリオット版『ジゼル』をピーター・ライト版を援用しつつ紹介してみたい。
私は近年では、吉田・マリオット版は小野絢子・奥村康祐主演の初演に続いて、今回再演の柴山紗帆・速水渉悟で、ライト版はスターダンサーズ・バレエ団公演で2回(西原友衣菜/浅田良和、渡辺恭子/林田翔平)観ている。(主役2名以外の主要キャストは今回観た新国立劇場バレエ団の再演のものを記している)
柴山紗帆、速水渉悟 撮影:長谷川清徳
1幕について。
吉田・マリオット版は中世のドイツの村を舞台にしており、幕開きは、木々が立ち並ぶ山間の村。広場を隔ててジゼルの家と貴族のアルブレヒトが村人ロイスとして使っている家が向かい合っている。この日は村人たちが楽しみにしている葡萄の収穫祭が行われる。祭りの準備だろうか、広場では人々がそれぞれの仕事に忙しく立ち働き、たゆまない日々の生活が営まれている村の全体像が見える。美術を担当したディック・バードは、葡萄を絞る器具なども登場させて、この村に(人々が生きる証としての)産業があることを示したと言う。
また、このヴァージョンの特徴のひとつは、村の葡萄の収穫祭の余興として踊られることの多いペザントのパ・ド・ドゥの演出だ。
村に立ち寄ったクールランド公爵(中家正博)の狩猟の一行に加わっていた富豪の娘バチルド(関晶帆)は、かいがいしく接待する村娘ジゼルに注目。彼女に婚約者がいることを知り、自身も婚約中だったことから、お祝いとして豪華な首飾りを贈る。ジゼルはたいそう喜び、その御礼として村人たち(五月女遥、森本亮介)が、クールランド公爵の一行にパ・ド・ドゥを披露する。バチルドとジゼルは、同じ男性を婚約者としているとは夢にも思わず、にこやかに対面するが、結婚前の女性としてこれ以上ない悲劇的な出会いだった。観客はその経緯を知っており、悲劇の振幅は一段と深く観客に響く。多くのヴァージョンでは、デェヴェルテスマンとして楽しまれる踊りを、ドラマティックな背景により緊張が高まる演出としている。そしてパ・ド・ドゥの振付には悲劇の予兆を表すような工夫もあった。
吉田・マリオット版は物語の設定を揺るがせにせず、中世という妖精や呪いなどの神秘的な事象が信じられていた時代背景を重視している。
アルブレヒトは村人に身をやつしているが、公国の王子であり、今は伯父のクールランド公爵の仲介により、富豪の娘のバチルドと婚約している。この狩猟の催しは、バチルドを宮廷に披露するために行われているなど、具体的設定により、それぞれの登場人物が状況に応じた演技をし、表現を作っている。(ちなみに、初演の台本ではバチルドはクールランド公爵の娘。ここではアルブレヒトのバチルドとの婚約は自ら望んだものではないことを示唆している)
また、ジゼルの母ベルタ(関優奈)は葡萄園を経営しており、この日は収穫祭が行われ、酒神バッカスに扮した子役が登場し、ジゼルが女王に選ばれる。ベルタはこの村の中心的存在で信心深く、この村に伝わるウィリの伝説(恋人に裏切られて亡くなった未婚の女性の霊が墓地で男たちを死に至るまで踊り続けさせる)を固く信じており、踊りに夢中だが身体の弱いジゼルはウィリになってしまうのではないか、と恐れている。そしてまるで冥界からの使者ででもあるかのように、恐ろしいウィリの伝説をマイムでジゼルや若者たちに伝える。
五月女遥、森本亮介 撮影:長谷川清徳
柴山紗帆 撮影:長谷川清徳
一方、ライト版の幕開きは、村の朝。貴族のアルブレヒトがジゼルの家の前に現れ、村人風の服装に整える情景。続いて、ヒラリオンがベルタと親しく挨拶し、猟の獲物を進呈し、二人仲良く腕を組んで水汲みに向かうといったひとこまが描かれる。ジゼルとアルブレヒトの関係、また、ヒラリオンはジゼルの一家に好意的でベルタもそれを喜んでいることなどが、巧みにスケッチされる。
そしてライト版では葡萄の豊穣を祝う収穫祭の踊りは、ジゼルが女王に選ばれた後、ペザントのパ・ド・ドゥとして踊りはじめられてヴァリエーションが踊られ、男性3人女性3人のパ・ド・シスへと発展し、やがては村人全員が参加しているかのような華やかな踊りとなる(編曲はジョセフ・ホロヴィッツ)。それぞれの踊りがリズミカルに構成されて、村の最も重要な収穫の祭りが立体的に表現される。村全体の豊穣を祝う精神が謳い上げられ、同じ精神性を共有して深く結ばれていることを、舞踊によって表す優れたシーンである。
1幕では、吉田・マリオット版は、中世という時代背景に生きたジゼルという一人の女性の運命的なドラマに焦点を置いている。そしてジゼルや村人たちが懸命に生きている「生の世界」とその背後には、暗い闇の「死の世界」が存在していることを暗示する。
ライト版は、村という共に生きる共同体の中にジゼルの悲劇を捉えているおり、一人の女性の悲劇であるが、同時に村全体の悲劇でもある、と描こうとしていると感じられた。
2幕について。
吉田・マリオット版の2幕の美術と照明(リック・フィッシャー)は素晴らしい。ヒラリオンもアルブレヒトも『ラ・バヤデール』の「影の王国」ように、ジグザグに冥界と思しき月の光りに照らされた恐ろしい窪地に降りてくる。上方にはいくつかの墓の十字架が不規則に立っている。ウィリたちが活発に動き回る月の光りに中でアルブレヒトは、ジゼルの墓の新しい十字架に深い悔恨を胸に心底から許しを乞う。ウィリたちは、ミルタ(山本涼杏)の指揮のもと呪術に操られているかのように踊り、不実な男たちを追い詰める。ジゼルの墓に詣でたヒラリオンが犠牲となる・・。
柴山紗帆のジゼルは、現実世界のしがらみから自由になり、純白のロマンティック・チュチュそのもののような美しい霊となって、アルブレヒトを変わらず深く愛した。速水渉悟のアルブレヒトは心の深奥に沈み全霊を顕にし、誠実な愛を訴えた。やがて、自ら降りた冥界で死よりも苦しい体験に沈んだが、ジゼルの霊の愛によって、ついには現実の世に蘇ったのである。微かな朝の光りは幻想的なウィリたちの影を遥かな鐘の音とともに静める。未だ明けやらぬ闇の中に、死と蘇生のドラマの結末があった。
柴山紗帆、速水渉悟 撮影:長谷川清徳
山本涼杏 撮影:長谷川清徳
ライト版はエンディングは少し異なる。
アルブレヒトはジゼルの墓に跪いて、幻想の中でジゼルと踊る。厳格なミルタに追い詰められるが、見えざるジゼルの真実の愛に救われる。そして幻想から帰還したアルブレヒトの目の前には、ジゼルとともに踊ったかけがえのない時を彩った一輪の花が落ちていた。胸を突かれるエンディングだ。幻想は現実であり、現実は幻想であることが表されていた。
そして蛇足の私見を加えば、ジゼルは無意識のうちにアルブレヒトが貴族であり結婚することができない人物である、と知っていた。しかしジゼルの理性はそのことを懸命に否定していた。(初演の台本には、ジゼルは、アルブレヒトが自分よりも美しい貴婦人を愛している夢をみた、と彼に伝える場面がある)しかし、ヒラリオンの告発によって、ジゼルの辛うじて保っていた精神の均衡が破壊され、死に至った。とすれば、やはり、幻想は現実であり、現実は幻想である、と言えるのではないか。
(2025年4月12日 新国立劇場 オペラパレス)
渡邊拓朗 撮影:長谷川清徳
速水渉悟 撮影:長谷川清徳
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