ピアノの調べとバレエ、そして朗読が絡み合い、ドラマの大きなうねりを生み出した『イノック・アーデン』
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ワールドレポート/東京
香月 圭 text by Kei Kazuki
『イノック・アーデン』
ウィル・タケット:演出・振付
ウィル・タケット演出・振付の『イノック・アーデン』を観た。朗読は田代万里生と中嶋朋子、そして東京バレエ団の秋山瑛と生方隆之介、南江祐生が物語の登場人物を舞踊で演じ、ピアノ演奏を櫻澤弘子が務めた。
タケットの演出では、朗読者の二人が会話を交わしているように感じられ、演劇性が高められていた。朗読を聞いて、観客はストーリーの情景を想像し始める。さらに、ピアノ音楽によって登場人物の感情が示されるとともに、舞台となる海辺の村で聞こえてくるような波音や風のざわめき、季節の移ろいなどが描写され、物語の世界へ引き込まれる。さらに3人のダンサーたちの美しい踊りによって、登場人物の感情が繊細に揺れ動く様や彼らの人間関係が観客の前にはっきりと示される。このように、朗読と音楽、バレエが有機的に絡み合い、ドラマを増幅する効果を生み出していた。俳優、ダンサー、ピアニストは舞台上で互いに刺激を受け合い、物語の世界により深く没入しているような印象をもった。
新国立劇場 小劇場という小さな舞台でダンサーたちを至近距離で観るのも稀なことだと思われ、彼らの表情や優美な踊りの向こうに、登場人物の人生が立ち現れた。
英国ロイヤル・バレエでダンサー、そして振付家としても活躍したタケットの振付は、派手なテクニックを誇示するのではなく、視線の方向から腕の動き、優雅な上半身の動きとともに、下半身の細やかなステップなども用いて、丁寧に物語を紡いでいく。秋山、生方、南江はいずれもタケットの作品に初挑戦ながら、シェイクスピアを生んだ演劇王国イギリスらしい、深い陰影をのぞかせる表現に果敢に取り組んだ成果が表れていた。
左より、生方隆之介、南江祐生、秋山瑛、田代万里生
撮影:井野敦晴
左より、秋山瑛、中嶋朋子 撮影:井野敦晴
『イノック・アーデンは』英国の桂冠詩人アルフレッド・テニスンが1864年に著した物語詩にリヒャルト・シュトラウスが1890年に作曲した、ピアノと語り手による音楽劇が基盤となっている。このオリジナルスコアに、タケットと音楽監修のアンディ・マッセイは、シュトラウスが同時期に作曲した新しい楽曲も付け加えた。
開演前には潮騒の音が流れており、物語の舞台となる海辺の村へと観客を誘う。舞台上部に張られた2枚の布には、布が揺れ動く映像が投影されている。この映像は場面ごとに切り替わり、渦巻く波の俯瞰映像、雲、雨粒がついた窓、枝葉、西欧の田舎の家、イノックが航海した地図などが映し出されていく。舞台装置としてほかに挙げられるのは、ベンチとなる可動式の台だけで、ミニマムなしつらえだった。ニナ・ダンによる美術・映像デザイン、映像は栗山聡之。余談だが、舞台『千と千尋の神隠し』で栗山が担当した映像を含む舞台美術が、英国演劇のローレンス・オリヴィエ賞に2025年度最優秀美術デザイン賞にノミネートされている。
原田宗典が朗読用に翻訳したテキストは、日本語のリズムが耳に心地よく感じられる。田代はよく通る声で朗々とナレーションやセリフを読み上げ、中嶋はダンサーや観客に語りかけるように詩を読み上げた。
3人のダンサーは船乗りの息子、イノック・アーデン(南江)と粉屋の息子フィリップ・レイ(生方)、そしてヒロインのアニー・リー(秋山)を演じた。田代は主にイノックとフィリップのセリフを担当し、中島はアニーのほか、アニーの子どもたちや、噂をする村人、そして、イノックの晩年の世話をするミリアム婆さんなどにも扮する。二人の俳優はダンサーたちと同様に舞台を動き、ときにはダンサーにも触れて演技もする。
秋山瑛、南江祐生 撮影:井野敦晴
左より、田代万里生、秋山瑛、生方隆之介 撮影:井野敦晴
ヴィクトリア時代のイギリスの海辺のとある村を舞台に、イノックとフィリップ、そして美しい少女のアニー・リー(秋山)の3人が翻弄される激動の人生ドラマが描かれる。自分の感情に素直なイノックと比べて、フィリップは引っ込み思案で、アニーへの思いを伝えることができない。イノックはフィリップの目の前でアニーを独占し、彼に一切彼女を触れさせないでデュエットを踊り続ける。傍らでは、フィリップが二人を見ながらくやしそうにしている。
結局、アニーへの好意を彼女に伝えたイノックにアニーも惹かれ、二人は結婚する。恋に破れたフィリップは絶望の底へと落ちていく。フィリップ役の生方は、表情は抑制を効かせているが、スピーディな回転など強さを感じさせる踊りで、内面には熱いものを秘めた青年であることを印象づけた。
イノックとアニーは子宝に恵まれ、イノックは漁師として成功する。秋山の表情は安らかで、赤子を抱く様は慈愛に満ちている。ある日、イノックは船で大怪我を負ってしまい、次第に生活は困窮していく。イノックは家族のために大金を稼ごうと、東方へ向かう商船に乗り込んだ。しかし、いくら待ってもイノックは帰ってこない。
アニーの苦境を心配したフィリップが彼女を助け、子どもたちも彼になついていく。そして二人は10年以上経った後に結婚し、子どもも授かる。イノックの帰還を信じるが故に、アニーはフィリップのアプローチになかなか応えようとしない。フィリップに手を引かれて踊っていても、頭の片隅ではイノックを決して裏切るわけにはいかない、という思いから顔を彼から背けている。
一方、イノックの乗った船は難破して無人島に漂着したのだった。長い年月が過ぎ、近くを通りかかった船に助けられ、ようやく生まれ故郷に戻ったが、イノックはアニーがフィリップと再婚したことを知る...。イノックを演じた南江は、年老いて病に倒れ、アニーと子どもたちに会いたいが、フィリップと暮らしている彼らに会うべきではないという思いの狭間に揺れる、彼の晩年を好演した。田代がイノックの終盤のセリフを力強く詠み上げる一方、南江は床に横たわり、イノックの命の火が少しずつ消え入るように動きを弱めていった。
原作者のテニスンが生きた19世紀イギリスのヴィクトリア朝時代は、自分の愛情や欲望を貫くために友だちを裏切ってはならない、また神はすべてを見通す目である、という道徳観が支配的だった。自身の幸福を自由に希求することができる現代では、家族や友人に対する責任・義務をどの程度考慮すべきなのか、とあらためて考えさせられた作品だった。
(2025年3月9日 新国立劇場 小劇場)
左より、生方隆之介、秋山瑛、中嶋朋子、田代万里生
撮影:井野敦晴
左より、生方隆之介、秋山瑛、南江祐生、中嶋朋子、田代万里生
撮影:井野敦晴
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