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新作『アルルの女』/『ボレロ』を金森穣が語る「生と死を象徴的にお見せする、力強いプログラム」、Noism0+Noism1 2025年夏

ワールドレポート/東京

インタビュー=香月 圭

Noism0+Noism1は2025年夏に新作『アルルの女』/『ボレロ』を上演する。演出振付は芸術総監督の金森穣。『アルルの女』では、アルフォンス・ドーデの短編小説を原作とする戯曲から着想した普遍的な人間ドラマが描かれる。音楽はジョルジュ・ビゼーが戯曲上演のために作曲した劇付随音楽および組曲版を使用。同時上演は「りゅーとぴあジルベスター・コンサート 2023」「SaLaD音楽祭 2024」で生のオーケストラと共演を重ねてきた『ボレロ』。創作中の金森穣に話を聞いた。なお、金森はバレエ界に寄与、貢献したとして第42回橘秋子賞を受賞した。

――この夏公演では、ビゼーによる『アルルの女』とラヴェルの『ボレロ』が上演されます。今年はビゼーの没後150周年、そしてラヴェル生誕150年という記念の年ですが、このようなクラシック界のメモリアル・イヤーを意識して企画されたのでしょうか。

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撮影:篠山紀信

金森 作品を創るうえで、音楽的なリサーチは常日頃からしているのですが、ビゼーについて調べていたときに、『アルルの女』の初演が劇付随音楽(劇に付けられた合唱付きの音楽)であったということを初めて知りました。全曲演奏を収録したCDが発売されているということで、さっそく聞いてみたのですが、私を含め、よく知られている組曲の世界観とは若干違うと感じました。そこで劇付随の音楽を用いて、未だかつて見たことのない『アルルの女』が創作できるのではないか、というインスピレーションを得て、そこから原作を買い求めました。もちろん、あらすじは知っていましたが、読み込んでみると、当たり前なのですが原作というものは、奥が深く、登場人物もさらにたくさんいるのです。『カルメン』のときもそうでしたが、バレエ化の際に原作のどこを抽出して舞踊化するのかは、振付家によって違います。原作を紐解くことによって、私自身によるオリジナルの『アルルの女』を創ることができる、という思いを抱きました。楽曲構成についても、独自の展開ができると思いました。『アルルの女』をぜひ創りたい、と思っていたところ、今年はちょうど、ビゼーの没後150年という節目の年だということを知り、これはちょうどいい、ということで創作を決めました。
『アルルの女』は、約60分の作品になります。同時に小品も上演できないか、と考えたときに『アルルの女』に通底する、死の気配に対比するものとして『ボレロ』から想起される生の歓喜、すなわち、生きる喜びや魂の叫びといったものを同時上演とすることで、生と死を象徴的にお客様にお見せできるのではないかと思い、このプログラムにしました。今年、ラヴェルの没後とビゼーの生誕がそれぞれ150年という年にあたるのはシンボリックなことではあるのですが、後付けの事項なのです。

――2014年に劇的舞踊『カルメン』を創作されていますが、終盤に『アルルの女』のファランドールが使われていますね。ビゼーの音楽のどんな点が魅力だと思いますか。

金森 『カルメン』や『アルルの女』の舞台となった南ヨーロッパ地中海沿岸では、照りつける太陽の下で祝祭感や高揚感を感じる一方、死がさっと差し込んでくるために、生をどれだけ謳歌するか、といった独特な精神文化があると思います。ビゼーはこのような南欧文化圏のメンタリティを非常によく表現している作曲家だと思います。もちろん、私自身はビゼーの音楽で『カルメン』と今回の『アルルの女』しか創っていないので、網羅的に語ることはできないのですが、ビゼーの音楽的な魅力は、やはり代表作であるこの二つの作品にあるのではと思います。また、一度聞いたら忘れないような旋律が多いのも、ビゼーの特色ではないでしょうか。

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『アルルの女』リハーサル
撮影:遠藤龍

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『アルルの女』リハーサル
撮影:遠藤龍

――今回の『アルルの女』は劇的舞踊『カルメン』とは全く異なる作風なのでしょうか。

金森 そうですね、『アルルの女』のほうが抽象度は少し高いですね。私の作品の中では、今回銘打っていないものの「劇的舞踊」の系譜に近いですが、劇的舞踊のように先に台本を書いて振付するのではなく、音楽からのインスピレーションによって振付をし、それを劇として構成していく今回のような作品は、「舞踊による音楽劇」という感じですね。

――アルフォンス・ドーデの原作小説は、アルルの近くの村で実際に起こった事件をもとにして書かれているそうで、戯曲では母親の過保護が息子の自立を妨げている様子が描かれています。この戯曲では、成長するにつれて亡くなった夫に似てくる息子に対して、母親は夫が戻ってきたかのように感じてときめいてしまう、というようなドキッとさせるセリフもありました。過保護な親というのは19世紀のフランスでも存在したのですね。

金森 私も原作を読んで、まず、その点が強烈に印象に残りました。いわゆる共依存の問題ですね。私自身は欧州で10年間活動しましたが、スペイン人やフランス人など南ヨーロッパの人たちは母親から溺愛されていて、彼女たちが息子に自分の恋人のように接している姿を、結構目の当たりにしてきました(笑)。それは時代を問わず、ずっと続いてきたことなのだろうと思います。母親と息子が強く結びついた異性の親子関係に潜む人間の精神の脆さにドーデが着目しているのは、面白いと思います。時代が進み、社会生活や生活環境が変わり、家族構成が変化していくことによって、その脆さや過剰さが、より日常的に顕在化してきています。さらに、家族と呼ばれるものの枠を超えて、共同体やさらには民族や国家レベルでも同様の問題が起こっています。
私たち人間は「自分たち」といった囲いをつくりがちですが、人間の精神が生み出す「自分の領域」とはあくまでも妄想であり、他者にとっては、その囲いや領域は受け入れられないものにもなり得ます。そうした問題は極めて現代的であるし、たとえ19世紀に書かれた物語であれ、21世紀という現代において発表するのであれば、そういった今日的な問題を表現したいと私自身も思います。この物語からその部分を素直に抽出していけば、極めて普遍的な問題提起ができるのではないか、と考えました。

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『アルルの女』リハーサル
撮影:遠藤龍

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『アルルの女』リハーサル
撮影:遠藤龍

――ドーデの原作では、青年フレデリに「ばか」と呼ばれる弟ジャネがいますが、母親は兄フレデリばかり可愛がっています。しかし、ジャネは兄や、彼を心配する母親の気持ち、兄を慕う女性ヴィヴェットの気持ちなど、家庭や周囲の人間関係を把握しており、彼らが織りなすドラマを外側から眺めています。

金森 先ほど申し上げた「囲い」と呼ばれる、人間の精神が作る敵と味方の問題や「私の家族」「私たち」「民族」など、そういった括りとは無縁なところに、ジャネという存在がいて、その存在が原作に書き込まれているという点は、非常に重要だと思います。ジャネは19世紀に書かれたために「ばか」という役名になっていますが、周りの人間は彼よりは知能が高く、深い洞察ができる人たちであるにもかかわらず、いがみ合い、相互理解が進まないといった、複雑な人間のドラマを繰り広げています。ジャネは一歩引いたところから、笑顔でその様子を見続けているのですが、その存在自体がある種の救いともなっています。結局、全てを見ていたのはジャネであり、とらえ方によっては、彼が書いた物語である、と言えるかもしれません。

――金森さんが創作された『アルルの女』の構想を教えてください。

金森 私のオリジナル台本では、南ヨーロッパ地中海沿岸辺りの架空の村が舞台になりますが、主人公の青年フレデリの祖父だけは日本人という設定で、舞台となる南欧の村に流れ着き、現地の人と恋に落ちて娘と孫に恵まれているという設定です。私たち日本人にとって異文化である、フランスを中心とする地中海側の南ヨーロッパの精神文化を身体化することを目指しているのではなく、ビゼーによる『アルルの女』の劇付随音楽と組曲版を聴いた日本人舞踊家である私自身が、そこから想起した物語を舞踊化しています。

――『アルルの女』といえば、バレエではローラン・プティの作品が有名ですね。こちらは原作にはない、フレデリとヴィヴェットの結婚式の場面から始まり、登場人物はこの二人と、式に招かれた男女の村人だけで、母親や弟、召使などは登場しません。アルルの女に心を奪われてしまったフレデリがどうしても彼女に対してあきらめきれない思いがあり、式の最中から初夜までの、彼の心理的な葛藤が描かれます。

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金森 作品構成については、ローラン・プティのものよりは原作に近いと思います。私の版では、青年フレデリのほかに彼の祖父と母、そして弟のジャネの4人家族、そして婚約者となるヴィヴェットを含めて合計5人の登場人物たちが織り成すドラマとなります。プティ版のようにフレデリとヴィヴェットに焦点を当てるのではなく、フレデリの家族の関係性で物語が展開していきます。キーパーソンとなるのが母親なので、全ての中心になっています。未だかつて見たことのない『アルルの女』になるでしょう。

――金森さんの版で、アルルの女は登場しますか。

金森 アルルの女は不在で、私の版では、彼女は幻想として登場するのみです。原作でも彼女は登場しません。要するに、登場しないことが肝要で、フレデリが実際はどんな人に出会ったのか、わからないということです。フレデリが彼女のことを話し、周囲の人たちがいろんなことを言うけれども、家族はアルルの女に会ったことがないのです。それは、もしかしたらフレデリの妄想かもしれないし、フレデリの孤独な精神が生み出した幻想かもしれません。アルルの女というのはあくまでも一つの象徴に過ぎず、そうしたものに依存しないと自己を保てない人間の精神の脆さ、といったものに興味を惹かれます。「家族」という囲いの外にある「アルルの女」に手を伸ばそうとした若者をめぐって波乱が起きる人間ドラマをお届けできればと思います。

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『アルルの女』リハーサル
撮影:遠藤龍

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『アルルの女』リハーサル
撮影:遠藤龍

――今夏公演では、『ボレロ』も上演されます。作曲したラヴェルの設定はセビリアのとある酒場で、一人の踊り子が足慣らしをしていて、やがて興が乗ってきます。周囲の客も、次第に踊りに惹かれ、最後には一緒に踊り出すという展開です。また、ベジャールは、海水浴から上がってきた女性ダンサー、ディスカ・シフォニスの姿に男性ダンサーたちの欲望の視線が突き刺さったのを見て、構想したといわれます。2023年大晦日の「りゅーとぴあジルベスター・コンサート」や2024年9月の「SaLaD音楽祭」でオーケストラの生演奏とともに披露された金森さんの『ボレロ』では、修道院の設定ですが、最初は上着のフードでダンサーたちの頭が隠れています。この修行僧のような姿は金森さんの作品に散見されますが、どのようなイメージで創作されましたか。

金森 17歳でベジャールのもとへ学びに行き『ボレロ』を聞いて以来、いずれ私も自分なりの『ボレロ』を創りたいという思いは、ずっと持ち続けていました。これまでも映像舞踊版など、いろいろ実験的なことはしていたのですが、師の作品の影響が強すぎて手応えがなかなかつかめずにいました。しかし、2023年大晦日にりゅーとぴあでのジルベスター・コンサートでオーケストラと『ボレロ』で共演というお話をいただいたときに、このタイミングでなら何かできるかもしれないと思い、音を聴き込んでリサーチを重ね、舞踊作品としての完成を目指してラヴェルの音楽と完全に向き合う日々を送りました。イダ・ルビンシュタインのオリジナル版であろうが、恩師ベジャールのものであろうが、強烈なエロスに引き寄せられる群集の姿が描かれており、人間がもつ性欲というか生への欲望、エロスがテーマになっていると思います。
自分の根源的な美意識として『Fratres』などで見られるような、禁欲的な修行僧のようなイメージがあるので、その世界観を『ボレロ』に落とし込んで、修道士たちが生贄として捧げる女性の「生」の叫びや、エロスとしての「生」みたいなものに引き寄せられ、禁欲の鎖を解き放って皆で生き切る、という展開になっています。平時の状態から、さらに抑圧された禁欲のレベルまで下げたほうが、その欲望の高みまで上り詰める距離が長くなりますね。
ベジャールの版ではメロディ役がいて、リズム隊がメロディを飲み込む展開となっていますが、私の版はそれとは異なり、中央で踊っている生贄の影響によって、周りの修道士たちも生贄になっていきます。全員が横に広がっていて、真ん中に全員が落ちるパターンではなくて、中心から横に生のエネルギーがボワーッと派生していき、全員で最後まで生き切るというエンディングです。この構成にすることで、私自身の『ボレロ』が創れると確信しました。実は、ラヴェルの音楽も、そのようになっているのです。同じ旋律が様々な楽器に派生して大きく広がっていき、最後は大きなオーケストレーションになるという、その音楽的構造を可視化するような構成を考えたと言っていいでしょう。

――今回の劇場演出版について教えてください。

金森 後ろにオーケストラがおらず、舞台空間をもう少し自由に使えるので、舞台版ならではの演出を構想中です。音楽と舞踊家たちの踊り、そして舞台で展開する出来事が客席により一層大きく届くようになるのでは、と期待しています。

――恩師ベジャールに対して、どのような思いを込めて創作しましたか。

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金森 先日、牧阿佐美バレヱ団のために『Tryptique~1人の青年の成長、その記憶、そして夢』という新作を創ったときも、恩師が30代のときに振付家デビューで使った音楽(芥川也寸志作曲「弦楽のための三楽章」〈トリプティーク〉)を用いたのですが、恩師が使った同じ音楽を用いて自分なりの芸術性を打ち出すことが、彼らへの最大限の敬意だろうと思います。自分も一人の芸術家として、いつまでも師を崇めているだけでは超えられないので、自分自身の芸術性をもって、そこに勝負しに行かなければならない。『ボレロ』に関しても「これならいける」と思ったので、新たに創作したのです。

――留学先のベジャールの学校ルードラでは『ボレロ』が教材に使われたことはありましたか。

金森 なかったですね。自分が辞めて、(井関)佐和子たちがルードラに行った頃に、バレエ団が何年かぶりにレパートリーに戻し始めたのではないかと思います。 私が留学した頃は、ベジャールさんが存命で、(ジョルジュ・)ドンさんが体調を崩されて、間もなく亡くなられたという、ベジャールさんご自身にとっても激動の時期でした。あの流れの中で、誰も『ボレロ』を再演しようとは思いませんからね。

――『ボレロ』の副題「天が落ちるその前に」について解説をお願いします。

金森 閉塞した時代である今は、皆先行き不安で、未来のことを考えて憂鬱にならない人は、世界中どこを探してもいないと思われます。そんな不安のなかでも我々は生きており、生きていくという過程において、いかに生きるかが問われるのです。『アルルの女』では、「死」がテーマになっていて、様々な「死」が表現されますが、それを通して「自分はいかに生きていくか」ということを皆様に問いかけたいと思います。逆に『ボレロ』では、全員が最後まで生き切るところまでいくのです。「天が落ちる前に生き切る」という舞踊家たちのエネルギーを届けたいと思います。 この閉塞した時代の中で「今、この瞬間を生き切る」という舞踊芸術の本質こそが、我々にできる最大限の表現です。このエネルギーをこの時代にこそ、我々が届けなければいけないと確信しておりますので、それをぜひ受け取っていただきたく、劇場にお越しいただければと思います。

――最後に、この夏公演の2作品への抱負をお聞かせください。

金森 生と死がこれだけ強烈に表現される、二つの作品を同時に上演するイブニングも、なかなかないことだと思われます。力強いプログラムになると思いますので、ご期待ください。

Noism0+Noism1
『アルルの女』/『ボレロ』

演出振付:金森穣

[新潟]
2025年6月27日(金)19:00
6月28日(土)17:00
6月29日(日)15:00
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館〈劇場〉

[埼玉]
2025年7月11日(金)19:00
7月12日(土)17:00
7月13日(日)15:00
彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉

◆Noism0+Noism1『アルルの女』 /『ボレロ』特設サイト
https://noism.jp/noism0-noism1larlesienne-bolero/

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