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三光 洋 Text by Hiroshi Sanko 
[2009.08.10]

ピナ・バウシュ逝去を悼むパリの反響と追悼公演

LE DECES DE PINA BAUSCH
ピナ・バウシュ逝去
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6月30日にブッパタールの病院でピナ・バウシュが亡くなった。享年68歳。1940年7月27日、刃物作りで知られるドイツのゾーリンゲンで生まれている。6月に南米チリでの滞在から触発された無題の新作を発表したばかりだった。

7月1日の「フィガロ」、2日付け(夕刊紙のため1日午後発売)の「ルモンド」とフランスを代表する日刊紙は追悼記事を掲載した。
「ルモンド」を例にとると、一面のLe Mondeという誌名の題字下にピナのカラー写真が入り、「コンテンポラリーダンスを革新したピナ・バウシュが亡くなった」という見出しが付いている。本文は二頁にわたって大きなポートレートに加え、1975年の『春の祭典』、1978年の『カフェ・ミュラー』、1982年の『カーネーション』(Nelken)、2008年の『スイート・マンボ』の舞台写真が故人の足跡を垣間見せている。本文はロジータ・ボイワソー記者の追悼記事に加え、演出家のジョルジュ・ラヴォーダンのインタヴュー、ベルリン特派員からの「ドイツは壮大な創造者、予見者の死に涙を流している」と題された現地レポートから構成されている。

ピナ・バウシュが打ち立てたタンツテアター(Tanztheater)は文字通りダンスと演劇とが一体になっている。「ダンスは技術やすでに道筋を付けられてしまったあとを辿るのとは別のものでなければならない。ダンスは出発点である。言葉で表現できることもあるし、身体を通じて表現できることもある。しかし、人間はどうしていいのか、自分が何をしているのか、全くわからなくなって途方に暮れる瞬間がある。その時に、あらゆる虚栄心から解き放たれた理性によって動き始めるのがダンスだ。観客にはできないことをダンサーにはできる、ということを示すためにではない。言葉、イメージ、ムーブマン(動き)、雰囲気を一体にして、前から人間の中にあったなにものかを感じさせる非常に厳密な知識がダンスだ。」2007年にアルシュ書店から刊行された『ピナ・バウシュがあなたに呼びかける』に収録されたこの言葉からは、彼女の舞台がそのまま浮かんでくる。

ドイツには首都のベルリン、南の中心都市ミュンヘンといった芸術都市がある。しかし、ピナが選んだのは生地のゾーリンゲンに近い鉄鋼業の町である。無味乾燥な工業都市で、ひたすら自分と生活を共にする世界の国々から集まってきたダンサーたちと新しい舞台を作るのが彼女のあり方だった。それとともに、1989年発表のシチリアを舞台にした『パレルモ、パレルモ』からはほぼ隔年に、滞在地の生活情景をその土地の音楽に乗せた作品を発表してきた。工房としてのヴッパタールという辺境に引き籠る一方で、異文化にも開かれるという二重性が他の振付家にはないピナの世界の素地にある。
作品を作っていくプロセスも独自だった。自分の構想をダンサーに指示していくのではなかったからだ。「他人にわなをかけてごらんなさい」とか、「怖いという気持ちを追い払うための遊びを考えてみて」といった問いをかけた。一人一人のダンサーが自分の記憶や体験を思い起こしながら表現を探りあてていく。それが形となって出てくるのをピナはひたすら待った。こうして現われてきた、本来はお互いにつながりのない要素がいくつも重ね合わされて、本番になると一貫した世界となっていた。

しかし、タンツテアターが最初からすんなりと観客や批評家から受け入れられたわけではない。ピナが観客から罵倒され、ダンサーには腐ったトマトを投げつけられていた70年代にその才能を見抜いて毎年招聘したのは、パリ市立劇場のジェラール・ヴィオレット前総監督だった。1979年からパリ市立劇場はヴッバタールに次ぐ第2の拠点としてほぼ毎年ピナ・バウシュの作品を上演し、その数は30を越えた。同劇場は、今年の11月11日から28日まで、ピナ・バウシュに関連する記録映像を上映し、特別展示会を開くとともに、『満月』(Vollmund)と『マズルカ・フオゴ』Mazurka Fuogoの二作品を追悼上演する。
「ピナはすべての舞台芸術家に影響を与えたが、彼女の後継者は一人もいない」というヴィオレットの言葉には30年間にわたって一人の振付家を見守ってきた劇場人ならではの重みがある。
いずれにせよ、次のヴッパタール・タンツテアターの公演に足を運んでも、いつも客席から見守っていたすらりとした細見の女性の姿を見ることはない。