マチュー・ガニオが渾身のオネーギンを踊って、21年間務めたエトワールにアデューを告げたガルニエ宮の舞台
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ワールドレポート/パリ
三光 洋 Text by Hiroshi Sanko
Ballet de l'Opera national de Paris パリ・オペラ座バレエ団
"Onéguine" John CRANKO
『オネーギン』 ジョン・クランコ:振付
2009年にパリ・オペラ座バレエ団のレパートリーに入ったジョン・クランコ振付の『オネーギン』が2月8日から3月4日まで、ガルニエ宮で全18回上演された。
この作品はマニュエル・ルグリが引退公演のために選び、オペラ座バレエ団のレパートリーに入った。その時には、マチアス・エイマンとイザベル・シアラヴォラがエトワールにダブル昇進している。シアラヴォラが得意のタチアナ役で引退してから今年でちょうど10年になる。
マチュー・ガニオ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
今回はオネーギンとタチアナにマチュー・ガニオとリュドミラ・パリエロ、ユゴー・マルシャンとドロテ・ジルベール、ジェレミー・ルー=ケールとアマンディーヌ・アルビッソン、ジェルマン・ルーヴェとセウン・パク、フロラン・メラックとオニール八菜の六組が踊った。
この中で最も強烈な印象を残したのは当然のことながら、3月1日のマチュー・ガニオのアデュー公演だった。1984年3月16日生まれのマチュー・ガニオはスジェだった2004年5月20日に『ドン・キホーテ』のバジルを踊って弱冠20歳でエトワールに任命された。以来、21年間の長きにわたってオペラ座の看板ダンサーとして国内外で圧倒的な人気を集めた。ジョン・クランコ振付の『オネーギン』は2011年から踊ってきた役だ。
当日ガルニエ宮に入ると、普段よりも着飾った人が多く、元エトワールたちの姿も散見され、華やいだ雰囲気から特別な夕べであることが感じられた。幕が上がって第1幕第1場が始まり、ユルゲン・ローズの装置によるラーリナ家の庭が現れた。ロシアの田舎らしい、広々とした庭でラーリナ夫人、乳母、オリガが訪問客を待っている。マルク・モローのはつらつとした詩人レンスキーに続いて、舞台左手奥からゆったりとマチュー・ガニオが庭に入ってきた。「舞台に入場する」というのではなく、ぶらりと友人に誘われて隣家に入ってきた、という感じだ。友人の詩人レンスキーが許婚者(若く陽気なオリガをレオノール・ボーラックが好演)に会うのが待ち遠しいのに対して、主人公は時間を持て余しているために、暇をつぶしにやって来たのだから二人の振る舞いは自ずと対照的になる。
アデュー公演ではしばしば、当該ダンサーが最初に現れると拍手が湧く場合が多いが、今回はいつもとは全く違っていて、客席は逆にシーンと静まり返り、マチュー・ガニオの姿を注視していた。
鏡台の前にはマチューのパートナーをしばしば務めてきたリュドミラ・パリエロが座っていた。マチューがそこに静かに近づいて挨拶し、出会いのパ・ド・ドゥとなると、観客はすぐに二人の感情のドラマの中へと引き込まれた。
ペテルブルクという社交の都から一時、田舎に戻ってきた恋に疲れたダンディと夢想に揺られて孤独に暮らしてきた乙女。この心持ちのずれをマチューとリュドミラは、それぞれの身体によって十全に視覚化してくれた。ちょっとした視線、わずかに首が傾けられた顔の表情、指や手の微かな動き、身ごなしといった細部に人物の心情を映しだす、という点で二人の表現の方向がピッタリと合っていた。マチューの描くオネーギン像は一見したところでは他のダンサーほど冷たくなく、ヒロインや周囲の人々に対しても礼儀正しい。しかし、それと同時に相手の感情に対しては無頓着で、タチアナがどんなに初めての恋に心を焦がしていても心を動かされない、という蕩児の側面もきちんとわざとらしさなしに感じさせることで、よりニュアンスに富んだ人物になっていた。
マチュー・ガニオ リュドミラ・パリエロ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
レオノール・ボーラック
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ リュドミラ・パリエロ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
第1幕第2場、タチアナの寝室でヒロインの夢に鏡の向こうから現れた彼女の希望が生んだオネーギンと、夜が明けてからの現実のオネーギンとの対比がマチュー・ガニオの演技には明瞭に出ていた。それとともに、夢と現実とのあまりの乖離に気付かされたヒロインの絶望と諦めは、リュドミラ・パリエロの全身から感じられた。手紙が破られた瞬間に、自分の夢が粉々に砕けたことを知った絶望の表情から、母親の姿を求めて広間を彷徨し、やがて母にうながされた最初は全く目に入っていなかったグレミン将軍と何度も踊るうちに、将軍の優しさがもたらす落ち着きに次第に身を委ねていくところは、振付家の意図をこれ以上もないほどに実現していた。タチアナがグレミン将軍の求婚を受け入れるところは直接的には場面となっていないが、この舞踏会の後半に彼女が恋を諦めていく過程が織り込まれていることに、当夜のダンサーによって改めて気付かされた。
第2幕の決闘を経た第3幕第1場になって、二人がペテルブルクのグレミン将軍宅の舞踏会という上流社交会で再会する場面でも、マチュー・ガニオはタチアナの変貌ぶりにまず驚き、目を離せなくなり、徐々に自分の気持ちに気づいていくオネーギンを誰の目にも手に取るようにわかる演技で体現していた。
主役たちの密度の濃い演技は周囲のコール・ド・バレエやセミ・ソリストたちにも緊迫感を与え、舞台に破格の高揚感をもたらしていた。最後、グレミン将軍夫人となったタチアナの寝室をオネーギンが訪れる場面でドラマは頂点に達した。リュドミラはヒロインの心がいまだに変わっていないこと、しかし、自分とオネーギンの名誉のためには感情は犠牲にしなければならないことを身体の全てを賭けて演じ切った。このヒロインを前にしたマチューは、「幸福は目の前にあった」にも関わらず、その時に自分が気づくことができなかったことにようやく目を開かれたオネーギンの絶望と悔恨を、タチアナへの切々とした懇願ににじませた。その果てに、彼女の真率なかけがえのない愛情に触れて、自分の過去にいたたまれなくなったことが駆け去る姿に文字通り体現されていた。
マチュー・ガニオ リュドミラ・パリエロ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ リュドミラ・パリエロ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ リュドミラ・パリエロ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・コンタ リュドミラ・パリエロ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
これ以外に見ることができたのは2月17日のフロラン・メラックとオニール八菜と、2月24日のジェルマン・ルーヴェとセウン・パクの組み合わせだった。
オニール八菜はオペラ座と平行して同じ『オネーギン』を上演している英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル(2022年から)、リース・クラークとの共演が予定されていた。リハーサルも行われたものの、折あしくクラークの近親に不幸があり、パートナーが変わってしまった。このため、当初3回予定されていたうちの2月10日はマチューとリュドミラが代わりに踊った。
オニール八菜は、前半の一人読書にふけり夢みがちな田舎の乙女と、後半の上流社交会の花形となった華やぎを明快に描き分け、説得力のあるヒロインを演じていた。テクニックの秀逸さは改めていうまでもないが、それ以上にまなざしや表情に工夫が凝らされていた。第2幕第1場のラーリナ家での自分の名の祝いの舞踏会で、オネーギンに出した手紙の返事を待ち受ける期待が一気に崩れ去り、絶望の底に落ちていくところの表情の顕著な変化はその好例だった。フロラン・メラックは主人公にふさわしい美貌の持ち主で技術もある。それだけに、もう一歩、人物造型、感情表現に踏み込むことが期待される。ロクサーヌ・ストヤノフも底抜けに明るくやや気まぐれな妹オリガによく合い、姉のタチアナとのコントラストもはっきり出ていた。
将来を期待されているコリフェのミロ・アヴェックがレンスキーを踊ったのも注目された。初の大役とあってやや硬さが見られたものの、若々しい踊りは直情的な詩人によく合っていた。
ロクサーヌ・ストヤノフ オニール八菜
© Marie Helena Buckley/ Opéra national de Paris
オニール八菜 フロラン・メラック
© Marie Helena Buckley/ Opéra national de Paris
オニール八菜 フロラン・メラック
© Marie Helena Buckley/ Opéra national de Paris
ミロ・アヴェック ロクサーヌ・ストヤノフ
© Marie Helena Buckley/ Opéra national de Paris
ロクサーヌ・ストヤノフ
© Marie Helena Buckley/ Opéra national de Paris
オニール八菜 フロラン・メラック
© Marie Helena Buckley/ Opéra national de Paris
一方、ジェルマン・ルーヴェとセウン・パクの組み合わせでは、まずジェルマン・ルーヴェが最近さらに細くなった長身を活かし、タチアナをはじめとする田舎の人々を冷笑するキザな都会人を演じ、観客を魅了した。前半はタチアナ役のセウン・パクと視線が交錯しないことによって、二人の感情が完全にすれ違ってしまっていることがよく伝わってきた。タチアナの寝室に鏡を超えて現れたところでは、最初はやや冷たく、やがて彼女が望む相愛の男性らしい優しさのある微笑を浮かべて、ヒロインの夢が高揚していく様子を青い照明に包まれながら演じていた。演技派のパブロ・ルガサのレンスキーと愛くるしいナイス・デュボスクのオリガも役にぴたりとはまっていた。
いずれにせよ、マチュー・ガニオの引退によりオペラ座バレエ団の一つの時代が終わってしまった印象は否めない。タチアナ役を務めたリュドミラ・パリエロも間も無く舞台を去る。『オネーギン』のレンスキー役(オリガはミリアム・ウールド=ブラーム)で忘れられない演技を見せてくれたマチアス・エイマンも数年前から舞台から遠ざかり、今のところ復帰の目処は立っていない。
ジェルマン・ルーヴェ、ユゴー・マルシャン、ポール・マルク、オニール 八菜、セウン・パクといった中堅とギヨーム・ジョップやカドリーユのシャール・ワグマン(まもなく来日する予定)、ミロ・アヴェック(コリフェ)、ベルギー出身で初めてプルミエール・ダンスールとなったトマ・ドッキールといった若手の成長に観客の期待はかかっている。
(2025年2月17日、24日 3月1日 ガルニエ宮)
マチュー・ガニオ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
マチュー・ガニオ
© Julien Benhamou/ Opéra national de Paris
セウン・パク ジェルマン・ルーヴェ
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
セウン・パク アレクサンドル・ガス
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
セウン・パク
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
ナイス・デュボスク
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
セウン・パク ジェルマン・ルーヴェ
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
セウン・パク ジェルマン・ルーヴェ
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
パブロ・ルガサ ジェルマン・ルーヴェ
© Agathe Poupeney/ Opéra national de Paris
Onéguine『オネーギン』
音楽:チャイコフスキー
編曲:クルト・ハインツ・シュトルツェ
振付・演出:ジョン・クランコ(1965年初演、パリ・オペラ座バレエ団2009年レパートリー入り)
装置・衣装:ユルゲン・ローズ
照明:スティーン・ビヤルケ
パリ・オペラ座バレエ団
ヴェロ・ペーン指揮:パリ・オペラ座管弦楽団
配役(2月17日/2月24日/3月1日)
エフゲネイ・オネーギン:フロラン・メラック/ジェルマン・ルーヴェ/マチュー・ガニオ
タチアナ:オニール 八菜/セウン・パク/リュドミラ・パリエロ
レンスキー:ミロ・アヴェック/パブロ・ルガサ/マルク・モロー
オリガ:クサーヌ・ストヤノフ/ナイス・デュボスク/レオノール・ボーラック
ラリーナ夫人:ローレーヌ・レヴィ
乳母:アナスタジア・ガロン/サラ・バルテーズ/サラ・バルテーズ
グレミン将軍:ジェレミー・ルー=ケール/アレクサンドル・ガス/マチュー・コンタ
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