ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

From Paris <パリ>: 最新の記事

From Paris <パリ>: 月別アーカイブ

斎藤 珠里 text by Julie Saito 
[2008.05.12]

THEATRE du CHATELET  シャトレ劇場 BALLET de HAMBURG

JOHN NEUMEIER : DER TOD in VENEDIG ハンブルク・バレエ団 ジョン・ノイマイヤー振付:『ヴェニスに死す』

 シャトレ座で行われているFestival de Danse (ダンス・フェスティバル)の一環として4月16~20日、ハンブルク・バレエ団の『ヴェニスに死す』が上演された。
 2幕10場の『ヴェニスに死す』は2003年12月に初演された作品。原作は20世紀を代表するノーベル賞作家トーマス・マンの中編小説で、ヴィスコン ティの映画化でも有名だが、副題に「ジョン・ノイマイヤーの死の舞踏」とつけられている。来日公演でも話題を呼んだプリンシパル・ダンサーたちによるゴー ルデンキャストで、4月18日の舞台を観た。

作品情報、キャスティングなどは、以下のとおり。
振付/演出/照明デザイン:ジョン・ノイマイヤー
音楽:バッハ、ワグナー
グスタフ・フォン・アッシェンバッハと振付家:ロイド・リギンス
タジオの母:ジョエル・ブーローニュ
フリードリヒ大王:イヴァン・ウルバン
タジオ:エドヴァン・レヴァゾフ

原作のストーリー
 舞台は20世紀初頭。創作に疲れた著名な芸術家グスタフ・フォン・アッシェンバッハはイタリア・ヴェニスを旅行中に、偶然同じホテルに滞在していた美少 年タジオに恋をする。そんな中、ヨーロッパを恐怖に陥れていたコレラの危険がヴェニスにも迫り、多くの旅行客が逃げ出してゆくが、タジオの魅力の虜になっ てしまったアッシェンバッハは留まり、タジオ少年と家族が旅立つ日に一人、浜辺で死を迎える。

ノイマイヤーの解釈
 15歳でマンの小説を英訳で読んだノイマイヤーは、ずっと前からこの物語をバレエで表現したいと構想を温めていたという。ヴィスコンティの映画では、主 人公アッシェンバッハは作曲家(モデルはグスタフ・マーラー)として登場するが、ノイマイヤーは自らをモデルにしたと思われる振付家に設定。第1場では、 「栄光と創造」と題したプロシアのフリードリヒ大王をテーマとするバレエを創作中だが、インスピレーションが沸いてこない。ここで使われる音楽は、バッハ の「フーガの技法」だ。
 この冒頭の部分にはノイマイヤー独自の読み替えが見られるが、その後の流れは、振付家が作品づくりに消耗し(第2場)、ヴェニスを訪れ(第3場)、美少 年タジオとの言葉を交わすことない出会い(第4場)、コレラの蔓延(第8場、「死の舞踏」)、「愛の死」(第10場)と、原作の展開を忠実に辿っている。 老醜を隠そうと、アッシェンバッハが床屋で念入りに化粧する場面(第7場)も長々と演じられた。

『ヴェニスに死す』 『ヴェニスに死す』


 ノイマイヤーは「ヴィスコンティの映画は、確かに映像は素晴らしいが、映像間のバランスはマーラーの音楽(交響曲代5番の緩徐楽章「アダージェット」) によってしか与えられていない」と批判する。美少年タジオについても、魂を病んだ芸術家の妄想の産物だと解釈する。これを音によって表現するために、秩序 を表わすバッハと、陶酔を象徴するワグナーを交互に用いることによって、現実と夢を行き来するような感覚を観客に与えようとしたという。従って、振付家が フリードリヒ大王を主題とするバレエを創作する場面ではバッハが、美少年と二人の場面ではワグナーが流れる。

『ヴェニスに死す』 『ヴェニスに死す』


 ワグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『タンホイザー』が官能の表現として効果があることは改めて感じさせられたが、多用する嫌いがあり、肝心のクライ マックスで感動が盛り上がらない。リスト編曲ピアノ版『イゾルデの死』が流れる中、タジオの腕に抱かれてアッシェンバッハが息絶える場面には、甘いセンチ メンタリスムが色濃く、愛の果てにある深い淵は全く見えてこない。一人の宿泊客もいなくなった海岸で、肘掛け椅子から崩れ落ちた芸術家の死体が始末される ヴィスコンティの映像が、今も目に焼きついているのと対象的だった。

 ノイマイヤーは照明デザインも担当。三色の異なる青を用いて地中海を表現したり、天井から下げられた白い幕にナメクジ形の黒い線を描かせてコレラを象徴 したりするなど、細部で工夫を重ねていた。しかし、芸術家アッシェンバッハの朽ちてゆく様、青白い美少年タジオ・・・といった小説の要である退廃的な美学 はのぞいてこない。それは皮肉にも、あまりにも均整の取れた肉体と健全な精神をもつダンサーによる表現の限界だったのかもしれない。

『ヴェニスに死す』

  アッシェンバッハを踊ったロイド・リギンスはアメリカ人。『ヴェニスに死す』ではブノワ賞も受賞した実力派ダンサーだが、タジオに出会ってからの内面的 崩壊が表現しきれない。喜びや悲しみといった直接的な感情は見えても、ニュアンスに乏しい。一方、タジオ役を演じた白ロシア出身イヴァン・ウルバンは長身 金髪で美しい肉体の持ち主だが、どうみても健康体そのもの。たとえばベジャールにインスピレーションを与えたジョルジュ・ドンを髣髴とさせるような、老芸 術家を狂わせるだけのオーラが感じられなかったのは残念だった。
 群舞のレベルも高く、どのソリストをとっても申し分のない力量を備えたバレエ団であることは間違いない。しかし、マンの原作とヴィスコンティの映画から 何とかして離れようとノイマイヤーは用意周到に臨んだにも関わらず、舞踊という表現媒体による新解釈を提示するには至らず、きれいな舞台ではあったもの の、原作やヴィスコンティの映画に感じた、創造にたずさわる芸術家の果てのない孤独が胸に迫ることはなかった。
 退廃の美学を表現するのにバレエが適さない、とは思わない。最近では、ローラン・プティが振付けた『失われた時と求めて』(パリ・オペラ座)、『スペー ドの女王』(ボリショイバレエ)はともに、身体表現の枠を広げて見せてくれた。あまりにも知性が勝ったノイマイヤーの弱点、なのだろうか。
(2008年4月18日、パリ、シャトレ劇場)