ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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唐津 絵理 text by Eri Karatsu  
[2008.01.10]
From Nagoya -名古屋-

「踊りに行くぜ!!」と「コンテンポラリーな公演」

地方ではまだまだ上演される機会の少ないコンテンポラリーダンス。今月はこのコンテンポラリーと題したいくつかの公演を東海地方で一時期に集中して観る機会があった。それによって、現代のダンス界の多様な問題、例えば、世界と日本、東京と地方、モダンダンスあるいは現代舞踊とバレエなどなど、ある種の今日のダンス界の混乱的状況を再確認し、今日までのダンスの歴史的背景についても「知っておくこと」の重要性を感じることになった。
 現在行われている「コンテンポラリー」的なダンス活動の起源を知るということは、舞踊家にとっても、また観るものにとっても意味のあることだと思う。そこで、地域との関わりの深い2つの公演を取り上げながら、その背景にもふれてみたい。

 ひとつ目の公演は、今日の日本のコンテンポラリーダンスのネットワークを作り、コンテンポラリーダンス界を牽引してきているNPO法人ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワークが、地域の人々(劇場やNPOやアーティスト)とタッグを組んで継続的に開催している「踊りに行くぜ!!」。
 8回目となった今回の巡回公演では、全国21箇所を回り、計41組のアーティストが出演する規模の公演へと拡大している。「踊りに行くぜ!!」初開催となった多治見公演では、地元のカンパニーを含む5作品が上演された。多治見市文化会館は数年前からダンス事業に力を入れはじめた公立文化施設であるが、当日チケットは売り切れとなるほどの盛況ぶりだった。

 舞台上に客席を組んでの最初の作品は、白井麻子振付・出演による『1にんげん』。「もし地球でにんげんはたったひとりだったら・・。」という仮説を元に、日常ではあたり前の様々な動きに疑問を突きつけながら、歩くこと、踊ることなど、自己と向き合って創作された作品だ。首輪をはめられた赤のドレス姿の幕開けが印象的。犬のような4つんばいの格好から、一歩ずつ歩きはじめる過程は、人間の一生あるいは古代の類人猿からの進化の過程を連想させる。関節を鋭角的に操り、ひとつひとつの動きを選び出して、注意深く踏み出して踊る姿は、そこに居る「にんげん」の在りようを示唆しているようで興味深かった。

『1にんげん』

  続く、『ME, MYSELF AND I』は、楠原竜也による自己紹介ダンス。伊藤キム、白井剛、岩淵多喜子など、日本のコンテンポラリーダンスを牽引する振付家の作品に出演しているが、ソロ作品ではコミカルで、可愛らしさ満載の楽しいダンスを展開。小道具やマイム的な動き、セリフなどの複数の表現形態を多用しながらも、そこに即興的な動きを組み込み、ライヴ感のあるヴィヴィッドなパフォーマンスを見せてくれた。

『ME, MYSELF AND I』

『thinking』は、地元多治見を拠点としたかやの木芸術舞踊学園による作品。かやの木芸術舞踊学園は、戦前より児童の心身の育成を目的に活動をしている「児童舞踊」の継承・発展に力を入れている団体だ。日本の現代舞踊の父といわれる石井漠の義理の妹の小浪は、児童舞踊を全国の教育者に普及することで、よく知られた存在でもある。中でもかやの木芸術舞踊学園は、洋舞コンクールで連続受賞する名門。ここでは学園の指導者でもある振付家の木原創が、幼い頃から訓練を重ねた身体言語技法や特有の表現力をもったダンサーを配して、列車の中で繰り広げられるある一夜の夢の世界を描き出した。

『thinking』

 高野美和子振付による『匿名トリップ』は、伊東歌織、河村篤則、高野美和子によるアンサンブル。顔を隠しながらの人形ぶり、肢体にウィッグを巻きつけながらのエロティックなパフォーマンスなど、エログロ的なアンダーグラウンドな世界が広がる。そこに現れるのは、ちょっとアニメちっくな動きたち。輪郭のくっきりと浮かびあがるような明瞭な動きが律動的にあるいは、反動的な作用で巻き戻され、また回転していく。テレビ的なデジタルな世界とアナログ的な生々しい感覚。現代の身体がおかれた感覚そのままが、目の前に広がっているかのようなヒリヒリとした生の実感を伴う作品であった。

『匿名トリップ』

 ラストはベテラン岩淵多喜子の振付による『Be』。プロと呼ぶに相応しいダンサーの太田ゆかりと大塚啓一との共同振付作品だ。物理的な距離と男女の精神的な距離を、身体の物理学的な重力や、スピード感のある質の高い動きで見せる。自身の存在と、他者との共存という人間にとっての根源的な題材を、身体の力学を利用することで、ダンスの特性を十分に生かしながらも、重くなりすぎることなく、抽象度の高い美しいダンス作品に昇華することに成功している。

『Be』

 今回、多治見公演に参加した地元以外のアーティストは、すべて東京在住、そして英国でダンスを学んだ経験があるという共通点をもつ。ロンドンのラバン・センターは、現代舞踊の礎を気づいたルドルフ・フォン・ラバンの舞踊哲学に基づいた確固としたダンスのシステムを継承し、現代のダンス(バレエを含む)まで大きな影響を与えてきた。今回の作品のラインナップには、一度システムに身を預けたダンサー特有の身体的下地が見て取れた。ともすると「何でもありの」、あるいは、お笑い芸的なダンスだと拡大解釈されがちな(それが、ダンスの観客層を拡大しているという指摘もある)コンテンポラリーダンスの中で、あるひとつのシステムにのりながらも自らの意思でそこから脱却しつつある、彼らのようなダンサーこそが、次世代を作っていていってくれるのだろうな、と感じることのできた公演であった。
(11月11日 多治見市文化会館)

 そしてもうひとつは、「バレエ・モダンダンス コンテンポラリーな公演」と題したプログラム。この公演の主催者・名古屋洋舞家協会自らが、「コンテンポラリーな公演」と、少々曖昧なタイトルを銘打っているところがユニークだ。
 さらに、モダンダンスとバレエの両ジャンルの舞踊家たちが、ジャンルを超えて「洋舞家協議会」を設立しているということも稀有なことらしい。バレエとモダンダンスは、その起源からして対立関係にあるわけで、その両者が一緒に作品を創作しようとしているというところに、日本特有の、特に名古屋特有の事情があるように思う。もちろんそれは、地域の特性として敬意を払われるべきことだろう。この公演では、モダンダンスとバレエの男性振付家によるコンテンポラリーな2つのダンス作品が上演された。

 最初の作品は、愛知在住の振付家・近江貞実振付の『Harvest』。北欧民謡から着想を得たということで、舞台奥に広がる雄大な農園や、素朴な乙女たちが容易に浮かんでくるイメージ豊かな作品だ。エスニックな音楽にのって、次々と抽象的な動きが連なりながら、場面はオムニバス形式で展開していく。田舎のたおやかな時間の流れとそれに呼応する音楽、そこから会場へと拡散していくダンス。空間一帯が目に耳に心地よい。島崎徹などのコンテンポラリー作品に慣れた近江のダンサーたちはもちろんのこと、佐々智恵子バレエ団の宮原あゆみや小幡令子バレエ団の小幡紀子など、オーディションで参加したバレエダンサーの健闘も記したい。
『Harvest』の題材が北欧民謡ということにも起因するのだろうが、作品自体はコンテンポラリーというよりは、キリアンの1970年代後半頃の作品を髣髴とするような雰囲気だ。どちらかというと、バレエとモダンダンスの融合されたモダンバレエ作品といった方が適切なのではないかと思う。最終的には、良いダンスかそうでないダンスかということが重要なのであって、何と呼ぶかはほとんど問題ではないかと思うけれど。いずれにしても、コンテンポラリーが苦手とされるこの地域の観客にも十分に楽しめる美しい作品に仕上がっていた。

 そしてもう一作は、神奈川在住の中村しんじ振付による『ひるえかにもどこ』。中村しんじは、この11月に他界したモーリス・べジャールのダンス学校ベルギー国立舞踊学校ムードラの出身だ。現在は、「ナチュラル・ダンス・テアトル」を主宰し、「舞踊演劇」を目指しているという。この作品では、現代舞踊中部支部で活動しているモダンダンサーを中心に川口節子バレエ団のバレエダンサーなども加わり、バラエティ豊かな出演者となった。
『ひるえかにもどこ』は、さかさまに読むと「こどもにかえるひ」。桑嶋麻帆扮する幼い少女の登場から、舞台は昭和初期にタイムトリップする。目の前に広がる懐かしい数々の日本の昔の風景、私たち昭和生まれのものの記憶の奥底に眠った数十年前の甘酸っぱい感覚が蘇る。可動式の3つの障子を効果的に移動させたり、映像を駆使して、過去と現在を自在に操る中村の演出は見事。さらにストリートパフォーマンスなども含めて、古今東西の様々な舞踊言語を多用することによって、時空を交錯する様を、極めて効果的に作品に織り込んでいる。
 何度も再演されている作品らしく、複雑な構成ながら、極めて緻密に計算された演出が光った。コンテンポラリーダンスという記号化されつつある名を超えて、中村自身が目指している「舞踊演劇」という言葉どおり、ストーリー展開が明確であるという要素も加わって、わかりやすさを求める名古屋の観客にも大変好評だったようだ。
(11月17日 名古屋市芸術創造センター)