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アフロビートを生んだフェラ・クティの生涯を描いたミュージカル『フェラ!』

SHAWN "JAY-Z" CARTER WILL SMITH & PINKETT “ FELA!”
ビル・T ジョーンズ振付、ブロードウェイ・ミュージカル『フェラ』
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ナイジェリアのフェラ・アニクラポ・クティ(1938-1997、日本での通称はフェラ・クティ) の生涯を描いたブロードウェイ・ミュージカル『フェラ!』を観に行きました。この作品は2010年に、ミュージカルで一番大切と言ってもいい3部門(ベスト・コレオグラフィ/ビル・T・ジョンズ、ベスト・コスチューム/マリア・ドラギシ、ベスト・サウンド・デザイン/ロバート・カポロウィッツ)でトニー賞を受賞しました。そのせいもあって、ニューヨークでは注目されて連日超満員でした。

フェラ・クティはアフロビートを生んだ世界的に評価が高いミュージシャンとして、生前から日本でも人気がありました。レゲエのボブ・マーリーと並び評されるほどの歴史的なミュージシャンです。(フェラとボブはロンドン時代に知り合い、友人同士でした)
フェラはトランペット、ヴォーカル、ピアノの技術を誇るマルチ・ミュージシャンで、ブラック・プレジデントという別名でも呼ばれていました。特にクラブで人気があり、再評価された90年代に彼の音楽が広まりました。私自身もスペインでのDJ時代に、フェラの音楽を選曲してプレイしていました。今でも人々の心をゆさぶり続ける素晴らしい音楽です。

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彼の音楽はすべて、10分、15分、またはそれ以上と、とても長いという特徴があり、力強くて躍動的なアフロビートが延々と続くので、それを大音量で聴くと人々は思わず自然に身体が動いてトリップしていきます。比較的上流家庭出身のフェラは1958年にロンドンに留学して音楽を学んでいて、70年代に作ったアフロビートの新しいスタイルの音楽は、伝統的なアフリカのリズムに彼のセンスで複雑なリズムを加え洗練された、ジャズをベースとした独創的なリズムです。彼のバンドは40人、50人以上の大所帯で、リズムセクションやコーラスが分厚く、いつもステージの上は大勢のメンバーであふれ返っている迫力のあるものでした。

『フェラ!』の芸術監督と振付はビル・T・ジョーンズ、脚本はジム・ルイス、ビル・T・ジョーンズ、スティーブン・ヘンデル、音楽と歌詞はフェラ・アニクラポ・クティ自身のものです。ビル・T・ジョーンズは、ニューヨークをベースに活動し続けています。私は、彼の活動や作品をニューヨークでチェックしてきて、このミュージカルの成功とトニー賞受賞をリアルタイムで見守ることができたので、感慨深いです。 
最初はこのミュージカルはオフ・ブロードウェイで上演されていたそうですが、好評でオン・ブロードウェイに進出しました。プレビュー初日は2009年10月19日、初日は2009年11月23日でした。最終日は2011年1月2日です。

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舞台は照明にブラックライトも取り入れていて妖艶で、出演者たちがまとっている衣装が素晴らしく格好よかったです。どれも黒人の肌に良く似合う極彩色を使っていて、アフリカの民族衣装も取り入れながらもデザインは現代的にアレンジされていました。
音楽は10人編成のジャズバンドです。一人で何役も楽器を変えて演奏しているメンバーが何人もいました。ダンサーたちも大勢出演していて、ビル・T・ジョーンズの振付はとても黒人色が強くてよかったです。
ストーリーはフェラの人生を追ったもので、若い頃にロンドンに留学して音楽を学んだ様子や、アフロビートを生み出した時の様子、人生での大きな事件をつないでいました。母親のフンミラヨのエピソードも描かれていました。

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主役のSahn Ngaujahは顔や背格好の雰囲気がもともとフェラ・クティにそっくりで、声も似ていました。フェラ本人そのものになり切っていました。フェラが話すときや歌うときの、ナイジェリアなまりが強い英語の発音まで、フェラにそっくりでした。
フェラ・クティはミュージシャンでありながら、祖国ナイジェリア政府と政治の批判や反体制のメッセージを歌詞にのせて歌い、社会運動をし続けました。命をかけて戦っている魂の叫びの音楽です。そのため、フェラは生涯にわたってナイジェリアの警察に何度も逮捕され、投獄されています。フェラの母親はナショナリズム運動家のフンミラヨ・アニクラポ・クティなので、その血を引いていたのでしょう。

舞台は始まる前から幕は開いていて、バンドが音合わせも兼ねて生演奏をし続けていました。
舞台が始まると、アフリカ原住民のような格好をしたダンサーたちが大勢でてきて、お尻をフリフリし続けるアフリカン・ダンスをしました。メイクもアフリカ原住民のように顔に模様を入れていました。そしてフェラ役の主役男性が生で英語で歌い、サックスも吹いていました。(このサックスは吹いている演技だけで、実際のサックス演奏は舞台後方にいるミュージシャンが代わりに吹いていました。しかし客席からパッと見た感じは、まるでフェラがサックスを吹いているように見えていました。後ろのミュージシャンにはスポットライトが当たっていなくて暗闇で、客席からあまり見えないようになっていました)

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「今日はこのシュラインでの最後の演奏だ」とフェラが言い、再び演奏が始まりました。男性のパーカッショニストが足にジンベ(アフリカの太鼓)をはさんでたたきながら、歩いて出てきました。シュラインとは、フェラが活動の拠点として演奏していた会場の呼び名です。この作品は全体がフェラのコンサートの生演奏をしているという設定です。

冒頭のシーンは、フェラに対する弾圧が進み、そのシュラインでの最後の演奏のシーンから始まりました。それからだんだんフェラの人生を、順を追って回想していくというストーリーでした。ロンドンにホーン(サックスなど)やジャズを勉強したいと思い留学した様子から始まり、影響を受けたアメリカの偉大な黒人たちがでてきたり、度重なる弾圧を受けた様子が次々に展開していきました。
音楽は有名なフェラの曲がふんだんに演奏されていて、なつかしかったです。「エキスペンシブ・シット」が演奏された後、ダンサーたちは次々にみんな客席にでてきて進み、少し歌って踊りました。有名な曲「I. T. T.」(インターナショナル・シーフ・シーフ)を演奏して歌って、そう書かれたプラカードを女性ダンサーが持って歩いていました。第一幕はそこで終わりました。

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休憩後、第二幕では舞台上のスクリーンにフェラの生前の映像が映されました。演奏が再び始まり、フェラと女性2人で歌い、客席の人々にも一緒に歌うように呼びかけて、客席も一体になって、フェラと合わせて歌っていました。フェラは“ラララー”と歌いながら客席の通路を練り歩きました。
女性たちが大勢出てきてフェラが一人ずつ紹介し、「彼らは全員、私の苗字を使っている。」と言うと、客席は笑いました。フェラは一夫多妻制のアフリカ人で妻が27名いたことで有名なのです。そして「私は簡単な男ではない」とフェラは言いました。
その和気あいあいとした幸せなシーンの最中、突然、銃声のような音がバンバンと鳴り響き、真っ暗になり、ブラックライトが照らされ、レーザー光線も使われていて、みんなは逃げまくりました。兵士たちが大勢家に入ってきて、フェラの家族たちは痛めつけられて、襲撃されていました。
これはフェラの最も有名なアルバム「カラクタ・ショウ」(1976年)が生まれたきっかけになった、カラクタ襲撃事件(1974年11月)のシーンです。政治の批判をし続けていたフェラは公権力に目を付けられて、1974年に警察に2週間拘置されました。その場所がカラクタ監房だったことから、自宅の周囲を4mの有刺鉄線で囲んで、カラクタ共和国と名付けて、同じ志を持つ若者たちを集めてそこで暮らしていました。そして国家との対立が悪化していきました。軍隊の3台のトラックが来てカラクタ共和国を襲撃し、フェラは大怪我をして、カラクタ共和国の人々は暴行されてしまいました。建物は焼けて消失しました。この軍隊による襲撃がきっかけで、他の代表的なアルバム「ゾンビ」(1976年)も生まれました。
舞台では襲撃のシーンとともに、名曲「ゾンビ」も演奏されました。

フェラはそういった政府による弾圧に屈せずにその度に立ち上がり、反体制の批判をし続けました。とうとう1977年2月に1000人の軍隊によってカラクタ共和国は包囲され、襲撃を受けました。母のフンミラヨ(当時77歳)は2階から突き落とされ、それが原因となり亡くなりました。
そのときの様子も舞台上で再現されていました。

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一番盛り上がったといっていいシーンは、白い民族衣装をまとった正装の母フンミラヨが階段の上にいて、母の足元に同じく真っ白の服のフェラがいて、母の声量のある力強い歌が生でずっと続いたところです。「息子よ・・・」と呼びかけていました。これは母の亡霊だったようで、母は階段上で歌い続けたまま、横に消え去りました。この母役のPatti LaBelleの歌の迫力はすごかったです。大拍手でした。
そして母の遺体を入れた棺が運ばれてきました。続いて、大勢がたくさんの小さめの棺を持って出てきました。この襲撃のときに犠牲になったカラクタ共和国の住人たちの棺なのでしょう。
すごく激しい曲になり、ダンサーたちは今まで出一番激しいダンスを踊り続けました。これがフィナーレで、出演者たちは次第に客席の通路をみんな練り歩いて、次々に客席の人々と握手をした後、また舞台上に登り、歌い踊り続けました。
そして、スクリーン上に、「フェラは1997年8月2日に永眠しました。・・・」などと文字が流れていきました。
感動的な終わり方で、客席は大感激してみんな立ち上がっていました。私もできることならあと何回かまた観に行きたいと思いました。とても評判が良かった作品なので、また再上演されることでしょう。
(2010年9月26日夜 ユージン・オニール・シアター)

Photos:(C)Monique Carboni
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私は出版の仕事のため一時帰国中です。1月15日に明窓出版主催で恒例の、「著者を囲むお茶会」を開催していただきます。よかったらお越しくださいませ。読者の皆様とお話ができる良い機会をいただき、感謝しています。