ボストン・コンサバトリー・アット・バークリーで教えながら踊り、6月にはソロコンサートも開催します

ワールドレポート/ニューヨーク

ブルーシャ 西村 Text by BRUIXA NISHIMURA

福田純一(ボストン・コンサバトリー・アット・バークリー准教授)インタビュー

Q:以前、2003年に当時、ニューヨークでプロのダンサーだった福田さんのインタビュー記を書かせていただきました。一昨年、私たちの共通のアメリカ人友人から、「福田さんは大学のプロフェッサー(教授)になった」と聞いて、ご活躍がとても嬉しいです。日本人でアメリカの大学のダンス学部の教授になった方は今まであまり聞いたことがなく、とても狭き門ですね。フルタイムの教授にはなかなかなれないです。
ダンサーとして活動後に、どのようにしてアメリカの大学教授になることが出来たのか教えてくださいますか。

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© Michael Winters

福田:はい。僕のケースでよければ、詳しくお話して構わないです。皆様に、この情報がお役に立てれば嬉しいです。

Q:ダンサーの引退後の進路を考えるヒントを読者に提供できればと思います。

福田:僕は現在、大学(ボストン・コンサバトリー・アット・バークリー)でフルタイムの給料で雇われている、アシスタント・プロフェッサー(assistant professor)です。日本でいえば大学の准教授にあたると思います。

Q:では、そのまま勤め続けて5年くらいすれば、いずれはプロフェッサーになりますね。

福田:はい、そうでしょうね。

Q:お知り合いになった当初から、福田さんは迫力と存在感がありましたし、ダンサーでは終わらない方だろうなとずっと感じていました。
福田さんの経歴と、どのようにアメリカへ来てプロのダンサーになっていったのか、教えていただけますか。

福田:もともと僕は山口県生まれで、子供の頃からスポーツをしていて、小学校からずっとサッカーをやってきて、小学校高学年から中学の時は野球を真剣にやっていました。
父親の転勤で愛知県に引っ越して、高校は進学校に進んだので、野球を辞めました。ずっと子供の頃からスポーツで身体を動かしてきたので、野球を辞めた後はヒップ・ホップのダンスに興味がわいてやっていました。当時、閉店後の商店街などで、夜になると商店街のガラスは鏡のように映るので、そういうところをダンス・スタジオの鏡のように見立ててカセットテープのデッキをかついでいって、音楽を鳴らして、ヒップ・ホップの練習をしている人々がたくさんいました。ちょうどそういうのが流行っていた頃です。そういうストリートでヒップ・ホップの練習をしている人達を見て仲間に入れてもらったりして、僕もヒップ・ホップをやり始めました。
僕が高校生の当時は、TRFやマライア・キャリーのバック・ダンサーたちのグループのエリート・フォース(Elite Force:世界を代表するHIPHOPチーム)が流行っていて、憧れていました。当時、TRFやエリート・フォースは時々、名古屋にも来ていたので観に行っていました。
そういうふうに僕は高校ではヒップ・ホップをやっていたので、高校3年生の時に交換留学プログラムに応募してアメリカのデトロイトの高校へ合格して、高校最後の1年間、留学しました。もともと、高校の知り合いが、僕より1年先にアメリカに交換留学していてその話を聞いていたので、僕も留学してみたいなと思いました。

Q:アメリカで特に黒人の多い地域のデトロイトの高校を選んだのは、ヒップ・ホップをやりたかったからですか。

福田:ヒップ・ホップをもっと本場で極めたかったので、わざわざデトロイトの高校を選んで留学しました。当時デトロイトでは、僕はそのような現地のストリートでヒップ・ホップのダンスをやっている人々や、他のダンスをやっている人々を見学させていただいて、仲間に入れてもらったりしていました。デトロイトでは僕はヒップ・ホップとブレイク・ダンスをやっていました。

Q:デトロイトの高校は、黒人が多かったですか。

福田:高校はほとんど黒人ばかりでした。アジア人はほとんどいなかったから直毛だとかえって目立つので、黒人たちに溶け込んで目立たないようにするために僕も同じように髪をドレッドにして高校に通っていました。

Q:治安が良くないデトロイトでは、どのように生活しながら学校へ通っていましたか。

福田:交換留学では、ホストファミリーの家に滞在していました。そのホストファミリーの知り合いの大学の先生がダンスを教えていたので、ダンスをやっていた僕に紹介してくださいました。その先生はジャズ・ダンスなどを教えていました。その先生が教えている大学のクラスを、僕も聴講生として受講させてもらえることになりました。高校生でしたが、大学の聴講生として、ダンスとバレエのクラスを受講しました。
当時その先生から、「大学でダンスを専攻できますよ。あなたはダンスの才能があるから、やってみたらどう?」とすすめられました。僕は大学でダンス専攻があることを知らなかったのですが、教えてもらってそういうダンスで大学進学の道があると知り、ダンスのオーディション・テープを作って準備して、大学受験して、合格しました。

Q:オーディション・テープは、ビデオですか。

福田:はい、ビデオです。でも合格した後、アメリカのビザを取るのがすごく大変でした。
交換留学でデトロイトに10ヶ月間滞在してから、いったん日本に帰国しました。日本でアメリカのビザをJ1ビザからF1ビザに変える手続きをしなければなりませんでした。F1ビザが許可されるまで3ヶ月くらいかかりました。アメリカのビザを取るのはすごく時間がかかって、なかなかアメリカへ戻れなかったのです。

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© Shannel Resto

Q:進学した大学について教えてくださいますか。

福田:大学は、ペンシルバニア州ピッツバーグにある、ポイントパーク大学(ポイントパーク・カレッジ)に入学しました。現在はポイントパーク・ユニバーシティー(Point Park University)になっています。そこには1年間くらい在籍して通いました。そこに在学中に、もうちょっと良い大学に行きたいと思い、ボストン・コンサバトリーのオーディションを受けて全額奨学金を与えられて合格したので、大学2年生からそこに編入しました。2年生から3年半在籍して、卒業しました。

Q:専攻はダンスですか。

福田:ええ、専攻はダンスです。大学では、いろんな種類のダンスを学びました。バレエは必須で、モダン、ジャズ、コンテンポラリー、タップ、振付、コンディション、ヨガ、ピラティス、ストレッチなどです。

Q:福田さんが大学卒業後に、ニューヨークに引っ越してプロのダンサーをやり始めた初期の頃に、取材させていただきましたね。

福田:そうですね。大学卒業後、2002年にエリオット・フェルド芸術監督のバレエ・テック(Ballet Tech New York)のダンス・カンパニーにフルタイムのダンサーとしてオーディションに合格して、ニューヨークに引っ越してダンサーになりました。同時期にニューヨークでイガール・ペリー(元・ジュリアード音楽院舞踏科教授、ペリダンスセンター芸術監督)のカンパニー(ペリダンス・コンテンポラリー・ダンス・カンパニー:Peridance Contemporary Dance Company)のオーディションにも合格して、在籍していました。バレエ・テックには1年くらい在籍していました。
その後、西海岸に拠点を移して、2003年の夏からサンフランシスコのオークランド・バレエ団(Oakland Ballet Company)に入団しました。これはクラシック・バレエでした。ここには3ヶ月間くらい在籍しました。2003年から2004年のシーズンに、サンフランシスコのスミューイン・バレエ(Smuin Contemporary Ballet:元サンフランシスコ・バレエ芸術監督マイケル・スミューイン創設)にソリストとして1年間くらい在籍しました。その後再び、ニューヨークに拠点を移して、2004年から、ブグリシ・ダンス・シアター(Buglisi Dance Theatre:振付家ジャクリン・ブグリシ(マーサ・グラハム・ダンスカンパニーの元・プリンシパル))、再びイガール・ペリーのペリダンス・アンサンブルに在籍して、プリンシパル・ダンサーとして、ワシントンDCに引っ越した2011年まで活動を続けました。ブグリシ・ダンス・シアターでは、ジョイス・シアター(モダンダンスの殿堂)で定期公演に毎年出演して、イタリアやイスラエルへの海外公演にも参加しました。ワシントンDCに引っ越してからも、ニューヨークのブグリシ・ダンス・シアターとペリダンス・アンサンブルでは、時々ゲスト・ダンサーとして踊り続けていましたし、ニューヨークのラー・ルボビッチ・カンパニー(Lar Lubovitch Dance Company)でも踊っていました。2007年からは、ニューヨーク・バロックダンス・カンパニーにもずっと在籍していて、プリンシパル・ダンサーとして今でも出演し続けています。

Q:今も現役ダンサーですか。

福田:今でも現役ダンサーとして踊り続けています。ニューヨーク・バロックダンス・カンパニーには今でも所属していて、時々ダンサーとして出演しています。他にもゲスト・ダンサーとして呼ばれて出演したり、自分のプロジェクトで振付して出演したりしています。

Q:45歳で現役ダンサーを続けていらっしゃるのは、すごいですね。今でも毎日、ダンサーとしての肉体を保つために、バレエなどの練習を続けていらっしゃるのですか。

福田:現役ダンサーとしての肉体を保つためにも、今もバレエなどの練習を続けています。授業でも教えていますし、今でも毎日、身体を動かしています。
妻の仕事の都合で、2010年夏頃にワシントンDCに引越しました。ここには2年くらい住んでいました。
ニューヨークから引越した後も、ダンスを続けていました。ワシントンDCで、クリストファー・K・モーガン&アーティスツ(Christopher K. Morgan & Artists)というコンテンポラリー・ダンス・カンパニーに所属してダンスをやっていました。そして、ワシントンDCのシティ・ダンスで、講師としてクラスを教えていました。

Q:教育者としても活動なさっていたのですね。

福田:教育者としての活動も、ニューヨークにいた時からすでに始めていました。ペリダンスでも時々クラスを教えていました。2011年に、ボストンの近くの、ニューハンプシャー州ポーツマスに引っ越しました。ポーツマス条約のポーツマスです。ボストンから1時間くらいのところです。そして、コンサバトリーで高校生のクラスの講師をしていて、バレエとダンスを教えていました。

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© IOBHAN BEASLEY

Q:ボストンで大学院に通っていたのですか。

福田:大学院は、オンラインで受講するところで学びました。2017年から2019年まで2年間です。フロリダ州のジャクソンビル大学(Jacksonville University)の大学院で、振付専攻です。取得した学位は修士で、MFA in Choreographyです。振付専門の大学院で学びたかったのですが、アメリカ国内で探したらほとんどなくて、この大学院なら振付を専攻できることを知り、自分で調べて選びました。そして普段はオンラインで授業を受けて、夏に2ヶ月間の実技の授業を受講しに行きました。
僕が選んだのは、この大学院のラテン・アメリカ・プログラムでしたので、夏に2ヶ月間、プエルトリコのサンホアンで実技の講座を受けました。ここはビーチがすぐ近くにあって、最高の環境で学べました。毎日、実技の講座で汗をかいた後に、すぐ裏のビーチに行って海水浴をしてリフレッシュできました。南米なのでフルーツや食事も美味しかったですし、毎日楽しかったです。とても充実した毎日を過ごせました。
学費は半分くらい免除してもらえて、特待生のような立場で学べました。

Q:大学院は、振付専攻ですと、実技が中心なのですか。

福田:いいえ、大学院はアカデミックなので、学問ですから、ほとんどは大量に英文の本を読んで、英文で論文をたくさん書いて提出しなければなりませんでした。振付の実技もありますが、全体の授業の割合は少ないです。

Q:振付専攻といっても学問として振付を研究するのですね。論文もたくさん書かなければならないのですね。全て英語で論文も書かれて、その頃は、英語力は身についていたのですね。

福田:はい。英語力はかなり身についていましたが、英語のネイティブのアメリカ人に比べたらどうしても日本人は英文の本を読むスピードが遅いので、ハンディはありました。

Q:努力家ですね。大学院生の間も、ボストンで教える仕事は続けていらっしゃいましたか。

福田:大学院にいる間に、2年生の時に、僕の母校のボストン・コンサバトリーで「振付しませんか?」とオファーをいただいて、そこで振付をし始めました。それがきっかけで、ボストン・コンサバトリーでクラスを教え始めました。

Q:ボストン・コンサバトリーで、フルタイムで雇われて助教授になったのは、いつからですか。

福田:2021年1月からです。母校のボストン・コンサバトリーは、現在はバークリーと提携して統合され、バークリーの傘下の大学になりました。ボストン・コンサバトリー・アット・バークリーという学校名に変わりました。

Q:では、福田さんはバークリーの准教授なのですね。

福田:はい、そうです。バレエとコンテンポラリーの実技のクラスを教えています。週5日勤務で、朝8時30分からクラスを教えていて、終わるのが遅い日は夜7時まで教えています。毎朝授業が始まるのが早いので、前日も早く寝て休むようにしていて、早寝早起きの生活をしています。土日は休みですが、振付やリハーサルなどの予定が詰まっていることも多いです。
大学で仕事している時は、ほとんど食べることができません。昼食を取るとどうしても眠くなるので、食べるにしてもせいぜいプロテインバーをかじる程度にしています。そのため、仕事が終わってから、夜にがっつり食事をしています。

Q:大学院を卒業後も、地元でダンスは続けていましたか。

福田:卒業後もダンスは続けていて、ボストンのバレエ団に入って踊ったり、振付もやっていました。
10年前くらいから、プロジェクト・ベースで自分自身のカンパニーも主宰していました。この活動はコロナ前に実っていて、上演する機会もありました。私のソロ・コンサートを、今年6月に、ボストンで上演する予定です。

Q:最後にDance Cubeの読者へメッセージをくださいますか。

福田:今やれる事を自分なりにこなして行き、諦める前にまずは挑戦していく姿勢を忘れないように僕は心がけています。これを読んだ皆様が、芸術にさらに興味を抱いていただけることを願います。
(2024年1月~2月、電話によるインタビュー)

福田純一
1978年7月4日山口県生れ。現在、ボストン・コンサバトリー・アット・バークリー准教授

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