ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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唐津 絵理 text by Eri Karatsu 
[2008.11.10]
From Nagoya -名古屋-

大駱駝艦・壺中天公演『2001年壺中の旅』

 1989年に津島市天王川公園で開催されて以来19年ぶりとなる大駱駝艦による愛知公演が開催された。カンパニー主宰の麿赤兒は、近年若手の育成に力を注いでいるが、今回は若手によって創作された26作品の中から、傑作との呼び名が高い向雲太郎振付による『2001年壺中の旅』が上演された。中堅の作品とはいえ、肉体に潜むエロティシズム、そして想像力のダイナミズムといった麿の舞踏の精神を、現代的な感性で新たに提示する作品だ。2001年の初演から海外を含め、度重なる再演を経ているだけに作品の強度も印象的だった。

『2001年壺中の旅』は、卓袱台の下から壷の中へと入り込んだ向の演じる主人公と家族たちが、異界を旅した挙げ句に、再び茶の間に戻るまでの物語だ。壷の中は、自己の体内でもあり、魂の暗部でもあり、宇宙のブラックボックスでもあり、そして生命の源泉でもある。輪廻転生という言葉が浮かんだ。家族のシンボルは、そのまま生命のメタファーに重なっていくかのようだ。
 激しく紙吹雪降りしきる舞台上に、全身白塗りの男たちが勢いよく動き始めるプロローグから、ヴァラエティに富んだ7つの場面がテンポよく展開していく。白塗り、剃り込まれた頭という一見画一的な肉体を担った男たちは、「家族の肖像」にて、生命の誕生を暗示させるセクシュアルな動作を行ったかと思うと、「三途の河の船着場」では、死後の世界の門番らしき男が、男たちの股間に挟んだソーセージを切り刻み、この世での男たちの生き様を裁いていく。そのエロティックかつ悲痛な光景に、観客席からは笑いとも悲鳴ともとれる声が上がる。それまでタブーとされていたエロスに正面から立ち向かった暗黒舞踏であるが、一面陰湿さを伴うこれらの表現を、乾いた笑いに転換しているところがこの作品の持ち味だ。
 男たちが一列に連なり、煙を出しながら汽車ポッポと進んでいく「暴走機関車」では、途中から歯車が狂ったかのように、人々は崩れ、踊り狂いはじめる。腰を低く落とし、屈曲した身体は、捻じれ、痙攣し、あたかもそれぞれが汽車の部品だったかのように崩れ落ちる。そして続く「思ひ出~パリは燃えているか?」では、「ケ・セラ・セラ」の音楽に合わせて揺ら揺らと立ち上がり、肉体という器を揺すぶってはほくそえむ。その肉体は男にも女にも、そして胎児にもなる両性具有の肉体だ。
 
 向は、家族という身近な題材、卓袱台というすでに風化しつつある日本文化からお愉しみと狂気を追い求め、生死を超えた普遍的な命題へと辿りついた。面白おかしく生きたとしても、みな所詮、壷の中の出来事。現実から逃れてたどり着いた壷の中。しかし結局人生そのものが壷の中なのだと、この舞踏ファンタジーは語っているようにも思えた。
 35年に亘る活動で大駱駝鑑の天賦典式をさらに継続しつつも、若手にチャンスを与えることで、新しい想像力を十二分に発揮させ、次世代の舞踏家と新たな作品を生み出している麿赤兒。世界中で自ら舞踏家と名乗るダンサーたちに上演されることで「Butoh」の意味さえ漠然としてきた感のあるこの21世紀にあって、舞踏のさらなる飛躍を感じさせてくれる舞台であった。
(2008年9月25日 愛知県芸術劇場小ホール)