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アンジェラ・加瀬 text by Angela Kase 
[2014.02.10]

猿橋賢がタイトル・ロール・デビューしたウェイン・イーグリング版『くるみ割り人形』

English National Ballet イングリッシュ・ナショナル・バレエ
"Nutcracker" Choreographed by Wayne Eagling
『くるみ割り人形』ウェイン・イーグリング:振付

イングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)は、11月20〜23日までリバプールで前芸術監督ウェイン・イーグリング振付『くるみ割り人形』をリバイバル上演。その後12月11日〜1月5日までロンドン・コロシアム劇場で同作品の再演を行った。
舞台をドイツからビクトリア時代のロンドンに移し、凍ったテムズ川でスケートをする人々が冒頭を彩るイーグリング版『くるみ割り人形』は、ロイヤル・バレエ、バーミンガム・ロイヤル・バレエが上演するピーター・ライト版のような格調の高さや深淵さこそ持たないが、親しみやすいことや家族で観に行っても家計にやさしいチケット代も相まって、イギリスの庶民に人気の作品だ。
イギリスのバレエ・ファンにとって、今回のリバイバルの最大の話題は、ロイヤル・バレエから移籍したアリーナ・コジョカルがクララを主演することであった。

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イーグリング版『くるみ割り人形』には、金平糖の精が登場しない。クララと弟のフリッツ役は、作品の冒頭と最後をバレエ学校の生徒である少年少女が踊るが、クララは1幕半ばの「ネズミの王様とくるみ割り人形の戦い」の場面直前に子役から主演バレリーナに入れ替わり、2幕終盤の金平糖の精のソロやグラン・パ・ド・ドゥもクララが踊る。よってロイヤル・バレエが上演するピーター・ライト版の場合、主演男女は金平糖の精と王子として2幕にのみ登場し、10分弱のグラン・パ・ド・ドゥを踊るのみだが、イーグリング版では、1幕途中から2幕の終わりまで長時間主演バレリーナを観る楽しみがある。
コジョカルといえば、ロイヤル・バレエ入団直後にライト版『くるみ割り人形』のクララを踊り、好評を博しDVDにもなったほど。その彼女がイーグリング版で再び当たり役を踊るのだからファンは公演当日を指折り数えて楽しみにしていた。
コジョカル自身も最初の公演地であるリバプールからワディム・ムンタギロフを相手に初挑戦となるイーグリング版を踊り、ロンドン公演に備えた。

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筆者はスケジュールの関係でコジョカル主演日を観ることが叶わなかったが、リバプールで初日前夜に行われたコジョカルとムンタギロフによるドレス・リハーサルを撮影している。今月号では日本のコジョカル・ファンの読者のため、当夜撮影したコジョカルの舞台写真と掲載すると共に、ゲネプロの様子をご紹介したい。

1幕の途中、白い衣装で舞台に登場したコジョカルは少女そのもの。ネズミの大群に囲まれて怯える姿が子供らしく、ネズミの王様と戦い傷ついたくるみ割り人形を思いやる姿がたいへんいじらしかった。子役のクララやコジョカルを優しく見つめ、包みこむムンタギロフとは、豊かな芸術性や観客に与える好感度の高さが同じで、古典バレエの夢物語を踊って似合いのペアである。2幕のグラン・パ・ド・ドゥでは、パートナーリングが巧みなムンタギロフの腕の中で安定した素晴らしいパフォーマンスを見せ、ロイヤル・バレエ時代に数々の怪我をし、手術やその後のリハビリなどに苦しんだバレリーナであることを微塵も感じさせなかった。
私がイギリスで舞台写真を撮り始めた90年代半ばは、ロイヤル・バレエにボリショイからイレク・ムハメドフが移籍して来た直後で、ヴィヴィアナ・デュランテやダーシー・バッセルと共に数々のパートナーシップを紡いでいた。貴公子ダンサーとしては日本でも人気が高かったジョナサン・コープやブルース・サンソムが在籍しており、スチュワート・キャシディや、後にバレエ・ボーイズとなるウィリアム・トレヴィットやマイケル・ナン、アダム・クーパーなどイギリス出身のスター・ダンサーが多数活躍していたロイヤル・バレエは、近年最大の黄金時代ともいえる時期である。その頃のムハメドフやサンソムが主役のドレス・リハーサルなどは、実際のパフォーマンスに匹敵する内容で、ロイヤル・オペラ・ハウスに集った友の会のメンバーを感服させ、ある時はまた大いに涙させた。
11月19日夜のコジョカルによる『くるみ割り人形』のドレス・リハーサルも、かつてのムハメドフやサンソムのゲネプロと同じたいへんレベルの高いもので、当夜エンパイア劇場に集まった少数の関係者を感動させた。

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イーグリング版『くるみ割り人形』でも、日本人ダンサーは多数主要な役を踊って活躍している。シニア・プリンシパルの高橋絵里奈はイーグリング版のイギリス初演時から主役のクララを踊っているし、昨年冬は加瀬栞(ソリスト)がクララ・デビュー。
今年はコール・ド・バレエの猿橋賢がくるみ割り人形役でデビュー。12月24日午後のデビュー公演を鑑賞した。
当日はファースト・ソリストのアデーラ・ラミレスとジェイムス・フォーバットが男女主役を踊った他、ドロッセルマイヤーとネズミの王様をそれぞれジュニア・ソリストのマックス・ウェルトウェルとダニエル・クラウスが踊が踊った。ラミレスとクラウスはスペイン生まれ、フォーバットとウェストウェルはイギリス人である。
ラミレスはロンドン・シティ・バレエ、ウィーン国立バレエを経て、ENBに入団して今年で15シーズン目。大きな瞳が印象的な美人バレリーナである。フォーバットはロイヤル・バレエ・スクールを卒業後2005年にバレエ団に入団。美しい容姿と節度のあるステージ・マナーがイギリス的な貴公子ダンサーだ。夢見る少女が似合いのラミレスとハンサムで優美なフォーバットは絵になるペアで、当日コロシアム劇場に集まった家族連れをロマンティックなひと時に誘った。
猿橋賢は滋賀県出身。バレエ団の付属校であるイングリッシュ・ナショナル・バレエ・スクール(ENBS)に留学、2010年にはローザンヌ・コンクールに出場し、ファイナリストに選出されている。卒業後バレエ団に入団し3シーズン目。長身に長い手足という恵まれたプロポーションとステージ・マナーの良さで入団以来目を引く存在で、タマラ・ロホ芸術監督就任以降も『眠れる森の美女』の青い鳥や『エチュード』の中心男性ダンサー、『海賊』のランケンデムなど抜擢が続いており、昨年はバレエ団の「注目すべき新人ダンサー賞(Emerging Dancer Competition) 」にノミネートされている。
海外公演以外はロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで公演を行うロイヤル・バレエに対して、ENBは国内中都市へのツアーとロンドン公演を繰り返すたいへん忙しいバレエ団で、公演の他にもバレエ団友の会向けのイベントも多いため、団員は心身ともにタフでないと務まらない。

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猿橋のくるみ割り人形役デビューについては、事前にクララ役のラミレスとコロシアム劇場の舞台を使ってリハーサルする時間が取れず、ぶっつけ本番となったという。くるみ割り人形役は大きなマスクを着けながらネズミの王様と戦い、跳躍、旋回の大技を披露し、またクララ役のバレリーナと共に踊る場面も多い。マスクのために視界が狭く、周りが良く見えないハンデもある。事前リハーサルなしでデビューとは、猿橋にとってたいへんなプレッシャーであったはずだが、それを物ともしない堂々たるタイトル・ロール・デビューであった。
当日は2幕のスペインの踊りに加瀬栞やフェルナンド・ブッファラが出演、ロシアの踊りはヨナ・アコスタ踊った。
今シーズン、イギリスのバレエ・ファンは、ENBの2大バレリーナであるロホとコジョカル主演舞台の鑑賞に忙しいが、24日の猿橋デビューに駆けつけ、アデーラ・ラミレスやジェイムス・フォーバット、猿橋賢といったダンサーの主演公演もまたたいへん魅力的であることがわかったのではないか。

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ENBはロホが芸術監督に就任して以来、古典から現代作品までレパートリーの幅が広がり、ロホとコジョカルの存在がバレリーナたちを、ル・リッシュやゴールディングといった男性ゲストの訪れや、若手No1のムンタギロフの存在が、バレエ団の若手男性ダンサーを大いに刺激・鼓舞している。今シーズン『海賊』と『くるみ割り人形』という全幕作品の国内ツアーとロンドン公演を終え、群舞を含め団員たちはみんな確かな成長を遂げたはずである。
ENBの次の課題は、4月の第1次世界大戦にちなんだ新作にどれだけの観客を動員できるかである。ロホ芸術監督やバレエ団広報部の腕の見せどころだ。
イギリスのバレエ界は、今後当分ロイヤル・バレエ、バーミンガム・ロイヤル・バレエ、ENB、リーズを本拠地に『華麗なるギャッツビー』や『真夏の夜の夢』など芸術監督で振付家でもあるデイヴィッド・ニクソンの高い美意識に彩られた作品で国内外の観客を魅了し続けるノーザン・バレエの4団体それぞれが、同じように話題を提供し、しのぎを削る時代が続きそうだ。関係者やファンにとっては忙しいが興味深い時代の幕開けである。
(2013年12月24日昼 コロシアム劇場。11月19日リバプールで撮影)

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 Photos/Angela Kase(すべて)