オリガ・スミルノワの『ジゼル in cinema』(オランダ国立バレエ団公演)が3月8日より、全国で順次公開される

ワールドレポート/その他

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

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オリガ・スミルノワは、2011年にサンクトペテルブルクのワガノワ記念バレエ・アカデミーを首席で卒業した。そして、多くの舞踊史上の優れたバレエダンサーが選択するマリインスキー・バレエではなく、モスクワのボリショイ・バレエに入団している。その理由についてスミルノワは、当時ボリショイ・バレエの芸術監督に就任したばかりだった、セルゲイ・フィーリンのアーティステックな方針に共感したからだ、と後日、インタビューで語っている。確かにそうだったろうが、そこにはマリインスキー劇場がプーチン大統領の支持を表明しているワレリー・ゲルギエフを総裁に戴いている、ということも彼女の脳裡にあったのではないだろうか、と私は推測してしまう。最近、ボリショイ劇場の総裁はウクラナとの戦争に反対の態度をとったこともあって更迭され、ゲルギエフがマリインスキー劇場と総裁を兼任することになった、という報道も耳にした。
オリガ・スミルノワは、2022年2月、ウクライナへの「特別軍事作戦」が実行に移されてまもなく、戦争反対を表明してロシアを出て、オランダ国立バレエ団に入団した。
スミルノワはボリショイ・バレエではプリンシパルとして活躍していたし、2017年の日本公演ではプリンシパルとして『白鳥の湖』に主演した。また、同じ年に開催された「ルグリ ガラ~運命のバレエダンサー~」では、クリストフ・マイヨーがボリショイ・バレエに振付けた『じゃじゃ馬馴らし』のビアンカをオリジナル・キャストとして踊り、ほかに『グラン・パ・クラシック』『ファラオの娘』『ジェルズ』の「ダイヤモンド」にも出演し好評を博している。そうしたオリガ・スミルノワの踊りを観てきたが、その舞台には自由に表現を作ることの喜びが溢れており、それは彼女の身体の深奥に信念として深く刻み込まれていると感じられた。
今回、映画館で上映される「オリガ・スミルノワのジゼル in cinema」を観ていっそうその感を強くし、同時にその表現力の深まりには胸をうたれる想いだった。

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1幕のスミルノワのジゼルは、身体全体を大きく伸びやかに使って、純真な村娘ジゼルの含羞を秘めた恋を鮮やかに表した。そしてその幕の終盤では、無心に信じきっていたアルブレヒトの裏切りという不条理な現実に直面し、自身の存在感が崩壊するという衝撃に襲われる。そして彼女のか弱い身体は、ついに死に到ってしまう。この狂乱のシーンの迫真の演技は、言葉では表すことができないほど圧倒的なもので、スクリーンに魅入られて息をするのも忘れるほどだった。2017年の日本公演で観たスミルノワの美しいバランスは忘れ難いものだったし、黒鳥がジークフリートを籠絡する魔力的な表現も素晴らしかった。そこにはバリーナが魅惑的な形を描く美しさがあった。しかし、この狂乱のシーンではスミルノワはおそらく振付通りに動き、何か特別の動きを見せたわけではないと思われるが、奈落へと落ちていくような言いようのない絶望感が舞台全体を覆い尽くした。そしてそのジゼルの激しい内面の動きに、身体を突き動かれたような衝撃を感じた。
スミルノワは祖国を去る際に「ロシアを恥じることになるとは思っていなかった」と語ったと言うが、ロシアをアルブレヒトと言い換えれば、それはそのままジゼルの心になるだろう。また、ウクライナ侵攻を非難してロシアを離れた人たちの不審な死がいくつか報じられたこともあり、ボリショイ・バレエのプリマだった彼女の心に言い知れない死の恐怖が影を落としていたとしても不思議はない。
スミルノワはジゼルの狂乱のシーンを、過酷な現実からの送られてくる目に見えぬ恐怖の波にさらされたことにより、彼女の演技の陰翳を一段と深い感動的なものとしている。そしてそこには、今日の世界の現実を生きることの意味が示唆されているのではないか、と私は思う。

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2幕になると、「光と影の魔術師」と称えられたレンブラントの国のバレエらしく、死の国を表す黒い森のシルエットと妙なる月の光の輝きがクールなハーモニーを奏でているセットが現れた。そしてミルタとウィリたちは〈生きても死しても魂は踊る〉と唄っているかのようなアダンの音楽と美しく共振した。コール・ド・バレエはやや大柄なダンサーたちで構成されていたが、緩やかな月の光の中にロマンチック・チュチュをたゆらせて踊り、死後の人たちの想いが浮かび上がり魅入られた。
自身の墓から姿を現したスミルノワのジゼルは、恋する人に裏切られたことも大好きな母ベルトのことも病気のこともヒラリオンに強く愛されたことも、現世の因縁はすべてきれいさっぱり洗い流して、ただただアルブレヒトを愛する魂となって踊った。この幕で見せたスミルノワのアラベスクは、その純粋さ故に、この上もなく美しかったのである。
そして「スミルノワのジゼル」の愛を表する〈花〉は、1幕の恋占いのひな菊に始まり、2幕ではアルブレヒトの深い悔恨の情を表すボリュームのある百合の花となり、さらにはジゼルの手から溢れ落ちる無償の愛の花となって、ラストシーンではアルブレヒトの手に贈られた一輪の花として「愛の永遠」へとその象徴性を高め、観客の胸にも刻印されたのである。

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アルブレヒトを踊ったのは、やはり、プリンシパルとして踊っていたボリショイ・バレエから離れたイタリア出身のジャコポ・テッシ。新演出と振付はラシェル・ボーシャンとリカルド・ブスタマンテだった。1幕では子どもや踊りを見つめる村人たちを登場させ、ジゼルの母とヒラリオンの日常的な交友を描くなど、共同体としての村を意識的に表現する細やかな工夫が心掛けられていた。

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『オリガ・スミルノワのジゼル in cinema』2023年10月オランダ国立歌劇場で収録

3月8日(金)より Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次公開
配給:ALFAZBET 配給・宣伝協力:dbi inc. © Pathe Live
HP:https://alfazbetmovie.com/olgagisellejp/

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