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アンジェラ・加瀬 text by Angela Kase 
[2010.09.10]

"ロケット・マン" ワシリエフが大技を決めた歴史的『スパルタクス』の舞台に興奮!

Bolshoi Ballet's London Season ボリショイ・バレエ団 ロンドン・シーズン
Grigorovich:Spartacus.  Petipa,Cecchetti,Vikharev:Coppelia.  Balanchine:Serenade / Grigorovich:Giselle.  Fokine,Vikharev:Petrushka / Ratmansky:Russian Seasons / Petipa, Burlaka:Grand Pas from Paquita.
Petipa,Ratmansky,Burlaka:Le Corsaire.  Petipa,Gorsky, A.Fadeychev:Don Quixote
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7月19日から8月8日までボリショイ・バレエ団が3年ぶりのロンドン公演を行った。
ユーリ・ブルラカ芸術監督就任後、初めての英国公演である。

『スパルタクス』、プティパ・チケッティ版を元にセルゲイ・ヴィハレフが振付リバイバルした新『コッペリア』、バランシンの『セレナーデ』とグレゴローヴィッチ版『ジゼル』、『ぺトルーシュカ』「ロシアン・シーズン」『パキータ』による「バレエ小品集」、『海賊』と『ドン・キホーテ』の6演目を持っての大掛かりな引越し公演であった。

ラトマンスキーが芸術監督を務めた04年〜07年、ボリショイ・バレエ団は頻繁にイギリス公演を行った。
04年夏にロイヤル・オペラ・ハウスで3週間に渡るロンドン公演を行った他、初来英から50周年にあたる06年の春にはイギリス4都市をツアーした後、夏にコベントガーデンで3週間公演、その翌年の07年にはロンドン・コロシアム劇場で3週間公演した。
イギリスのバレエ・ファンはそのたびに『スパルタクス』や『ドン・キホーテ』といったボリショイの18番と『白鳥の湖』『ジゼル』『バヤデルカ』といった古典バレエ名作の数々、ポクリタールの斬新な『ロミオとジュリエット』、ラコットの『ファラオの娘』、ポーソーホフの『シンデレラ』、ラトマンスキーの『明るい小川』や『海賊』といった話題の全幕作品を鑑賞する幸せに預かった。
そしてステパネンコ、ルンキナ、ザハロワ、アレクサンドロワ、フィーリン、クレフツォフ、ウヴァーロフ、ベロゴロフツェフ、ツィスカリーゼらスターの活躍に酔いしれ、ペレトーキンやマルハシャンツといった名キャラクター・ダンサーのパフォーマンスを堪能し、コバヒゼやオシポワ、クリサノワ、スクフォルツォフ、ヴォルチコフ、ワシリエフといった次世代のスターになるであろう踊り手のフレッシュな演舞に心躍らせたものである。

カナダや北欧でダンサーとして活躍したラトマンスキーの芸術監督就任は、ボリショイ・バレエ団に非常に欧米的でビジネスライクな新風を吹き込んだ。04年のロンドン公演の幕開け作品『ドン・キホーテ』のゲネプロでは、アレクサンドロワとフィーリン、ザハロワとウヴァーロフの2組とソリストから群舞にいたるすべての踊り手に、きちんと衣装を着けさせ、メイクアップをほどこし、本公演とまったく変わらない状態でリハーサルさせ、コベントガーデンに集まった舞台写真家とプレス写真家を驚かせたし、英語が堪能で通訳を必要としない彼はまた、夏のロンドン公演期間中に記者会見を開いては、イギリスのバレエ関係者に秋からの新シーズンに初演予定の新作について語ったり、次のロンドン公演の時期についてアピールすることも忘れなかった。

今回3年ぶりのロンドン公演を取材・撮影して、時代の移り変わりと、芸術監督が変わることによるバレエ団の態勢の違いを強く意識した。
「女性バレリーナの充実」で知られるマリインスキーに対して、「トップ男性陣のラインナップの素晴らしさ」で世界の頂点に君臨し続けたボリショイ・バレエ団。だが今回のロンドン公演には、現役を引退したフィーリン、クレフツォフの姿はなく、長年の膝の故障に苦しむベロゴロフツェフ、シーズンの終わりに引退を決意していたウヴァーロフの名前もまたなかった。

当初『スパルタクス』と『ジゼル』『ドン・キホーテ』の初日と、ロンドン公演の千秋楽を締めくくるはずであった世紀の舞姫ザハロワも、直前に全公演から降板。アレクサンドロワも『スパルタクス』のエギナと『コッペリア』の初日から降板し、シプリーナも結局来英せず、配役に大判狂わせが起こった。

そして5月の北京公演でプリンシパル指名されたブルラカ時代の寵児であるオシポワ、ワシリエフが6演目のうち4演目の初日をつとめ、最終日の『ドン・キホーテ』でも共演することになったのである。
ロンドン公演初日間近のテレビ番組では『スパルタクス』主演目前のイワン・ワシリエフが「ロケット・マン(ロケットのように高く飛び上がった後なかなか地上に降りてこない男)」として紹介され、ジャンプや旋回技の超絶技巧を披露。
公演開始後のゲネプロでは、6演目中5演目にワシリエフかオシポワが登場。写真家たちは徹底的にこの2人を撮らされたし、初日に招待される著名な舞台批評家たちは、ワシリエフかオシポワを繰り返し見せられたことから、英5大新聞および庶民が愛読するタブロイド紙のアート欄や芸能欄には、2人の記事と写真があふれる結果となった。

Yuri Grigorovich:Spartacus
ユーリ・グリゴローヴィッチ振付『スパルタクス』


ユーリ・グレゴローヴィッチ振付の不朽の名作にして、ボリショイ・バレエを代表する全幕作品『スパルタクス』はタイトル・ロールを踊る男性舞踊手の確保がマストなのだが、時代の推移と共に今ではそれが非常に難しくなっている。優れた踊り手が国に守られ様々な特権を謳歌したソビエト時代の終焉に伴い、ロシアでは踊り手を志す若者、特に男子が激減しているからだ。

3年前のロンドン公演で『スパルタクス』のタイトル・ロールを踊ったのはキューバ出身で、ロイヤル・バレエのゲスト・プリンシパルであるカルロス・アコスタと、05年のモスクワ・バレエ・コンクールでグランプリ受賞後、ボリショイに移籍していたデニス・マトヴィエンコ。2人ともボリショイ・バレエ・アカデミーやバレエ団で研鑽を積んだ踊り手ではなかった。
だがそれぞれが役に似合いで大奮闘し、忘れえぬ舞台を見せてくれたものだが、初日直前に行われたゲネプロでは、当時34歳で、過去に何度も膝を痛めているアコスタが、夜の舞台のために力を温存しようとジャンプを殆どはしょって集まった写真家をがっかりさせたものである。

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今年ロンドンでこの一大叙事詩の主役をつとめるのは、イワン・ワシリエフとパーヴェル・ドミトリチェンコ。それぞれ20代の若者たちだ。
7月19日の午後、ゲネプロ撮影に向かう私には「21歳のワシリエフはゲネプロから200パーセントの力で挑んでくるだろう」という確信があった。だがダンス技術だけでは表現しきれない、悲劇の剣闘士スパルタクスの心のひだを入団4年目のワシリエフがどこまで表現できるのか、また若いワシリエフが、片手リフトに代表されるこの大作の難解なパートナーリングをすべてクリアできるのだろうか。
それらの問いには答えを出せずにいた。

今年のボリショイ・バレエのゲネプロ撮影は、基本的に各作品のファースト・キャストを1幕のみ撮影できるというもの。
午後2時、20名の写真家の前に、その夜の初日を踊るワシリエフと翌日の主演者ドミトリチェンコが姿を現した。ワシリエフは大きな跳躍の数々を披露すべくウォームアップに余念がなかった。
一方、旋回技に強いドミトリチェンコは、2幕の剣を持ってのグラン・フェッテをの大技を繰り返し披露した後、舞台袖に消えた。
想像通りゲネプロにも200パーセントの力で挑んだイワン・ワシリエフのアーティストとしての成長と演技面の充実には目を見張るばかりであった。コベント・ガーデンの舞台に、小柄で少年の面影を残した3年前のワシリエフの姿はなかった。撮影を終えた私の目には、スター性とカリスマに満ちた一人の偉大な踊り手の演舞の残像しか残っていなかったのだから。

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今年5月、北京公演で『ドン・キホーテ』を踊り終えた直後のプリンシパル昇進を「早すぎる」と非難した者も多かったと聞くが、踊り手として満を持してのトップ就任である。
夜の舞台は「後世に残る一大事件になる」と確信した私は、はやる鼓動を抑えながら機材を置き、着替えるために一度帰宅し、再度コベント・ガーデンへの急いだ。

そしてそんな私の期待通り、その夜「事件」は起こったのである。
コベント・ガーデンに集った英5大新聞の批評家と満場の観客は、ワシリエフ演ずるスパルタクスの超絶技巧のダンス技術に目を見張り、豊かな演技力に酔いしれ、彼のカリスマの前にひれ伏したのだ。

1幕が終わり幕が降りた時、若手に辛辣で、かつ冷静なことで知られるイギリスのバレエ関係者や観客が、これまで見た事がないほど熱狂し、彼らの熱い歓声はロイヤル・オペラ・ハウスに響き渡った。
口々にブラボーを叫ぶ観客の誰もが、歴代のスパルタクス中、最も若く、初演のウラジミール・ワシリエフ以来、最も見るものの心を熱くする踊り手の出現に我を忘れたのである。
跳躍の大技の数々、グラン・フェッテやピルエット、シェネに代表される旋回技、片手で妻フリーギアをリフトし、舞台を渡ってみせるクライマックスでも新プリンシパル、イワン・ワシリエフに一切破綻はなかった。

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ムハメドフのような闘う鬼でもなく、クレフツォフのような勧善懲悪劇のヒーローでもなく、ベロゴロフツェフ演じる孤高の英雄でもない。
ワシリエフ演ずるスパルタクスは、若さとあり余るエネルギーを持ちながらも、自由を剥奪された我が身を呪い、愛する妻や共に奴隷となった仲間たちを想い憂う民衆のヒーローだ。
ワシリエフは20代初めとは思えない包容力で反乱軍を率い、妻であるフリーギアを演ずるニーナ・カプツォーワとのパートナーシプも似合いで心に残った。

アレクサンダー・ヴォルチコフは、品格高いクラッススを踊り、通常は酒色の饗宴の場でも、跳躍の大技を立て続けに披露する場面でも一貫してクールなのだが今年は、ワシリエフの演舞に相当触発された様子で、特に2度目の公演であった21日は、相当な熱の入りようで、スパルタクスと反乱軍に包囲され負けを喫した後の怒りの演技に鬼気迫るものがあった。

エギナはマリア・アラシュ。
ここ10年ほどロンドン公演では必ずこの役を踊るベテランである。品性にすぐれクール・ビューティーぶりを前面に押し出すアラシュの高級娼婦エギナは、ヴォルチコフ扮するクラッススに良く似合う。
ボリショイ・バレ団3年ぶりのロンドン公演初日は、近い将来舞踊史に「稀代のスパルタクス・ダンサー」として、その名を刻まれるであろうイワン・ワシリエフの奮闘で大変な盛り上がりを見せた。

バレエ団側は当日ゲネプロと初日の主役をつとめ、翌々日にもタイトル・ロールを踊る予定のワシリエフを一刻も早く休ませようと、カーテン・コールも早めに切り上げようとしていたのだが、熱狂した観客がそれを許さなかった。
観客の手拍子によって何度目かのカーテンコールに現れたワシリエフとヴォルチコフは、はじめスパルタクスとクラッススさながらに、それぞれ肩をいからせ睨み合っていたのだが、直後に頬をよせ合い熱い抱擁を交わして互いの健闘を称え、スタンディング・オベーションの観客に盛んな歓声を贈られていた。

ミハイロフスキー・バレエ団とそれに続くカルロス・アコスタのグループ公演と日程が重り、初日を除きチケットが完売になっていなかったボリショイ・バレエ団3年ぶりのロンドン公演は、初日の新聞評が出た直後にワシリエフ主演日の『スパルタクス』が完売し、この夏最も入手困難なバレエ・チケットとなったのである。
(2010年7月19日、21日、31日昼 ロイヤル・オペラ・ハウス 19日の最終ドレス・リハーサルを撮影)

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撮影:Angela Kase
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