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アンジェラ・加瀬 text by Angela Kase 
[2008.08.11]

ミハイロフスキー・バレエ団、初のロンドン公演 『スパルタクス』

 7月22日から27日まで、ファルフ・ルジマトフ芸術監督率いるミハイロフスキー・バレエ団が、初めてのロンドン公演を行った。

 演目はゲオルギー・コフトンが同バレエ団のために、今年新たに振付けた『スパルタクス』、同バレエ団の指導にあたっているニキータ・ドルグーシン が昨年1884年の初演版に基づいて改定したドルグーシン版『ジゼル』、そして『騎兵隊の休止』『パキータ』と共に、バレエ団のスターたちがディベルティ スメントを踊る「バレエ小品集」の3プログラムを持っての来英であった。

 7月22日、ロンドン・デビュー初日の新『スパルタクス』を観る。
主演ダンサーはタイトル・ロールをデニス・マトヴィエンコ、恋人のヴァーレリアをイリーナ・ペレン、スパルタクスの敵役クラッススをマラト・シュミウノフ、クラッススの愛妾で高級娼婦サビーナをアナスタシア・マトヴィエンコがつとめた。

撮影/アンジェラ・加瀬

 ルジマートフは来英直前のインタビューでこのバレエについて尋ねられ「ミハイロフスキー版とボリショイ版とでは全く違います。ゲオルギー・コフト ンは長いこと『スパルタクス』の振付について関心を抱いており、今年私のバレエ団のために新たに振付けてくれたのです」と語っている。

 実際初日に招待されたわれわれ英バレエ関係者も、見慣れているボリショイ・バレエのグレゴローヴィッチ版とコフトン版との相違に大いに驚いたものである。

 グレゴローヴィッチ版の登場人物が、剣闘士(剣奴=グラディエーター)スパルタクスと敵役のクラッスス、スパルタクスの妻フリーギアとクラッスス の愛妾の高級娼婦エギナという、それぞれ非常に対照的な男女各2人に焦点をあてるのに対して、コフトン版は剣奴スパルタクスと女奴隷の恋人ヴァレーリア、 スパルタクスの親友で凄腕グラディエーターのクリクサス、ローマ軍総司令官のポンペイウス、ポンペイウスの昔なじみの愛妾で高級娼婦のエライダ、ローマ軍 の大将にして帝国一の金持ちクラッススとクラッススの愛妾で高級娼婦のサビーナと登場人物も多様である。

 またソビエト時代の68年に制作されたグレゴローヴィッチ版と、現在バブルを謳歌する資本主義国となった40年後のロシアで、今年4月に世界初演されたコフトン版では、バレエに投入された費用や技術も大いに異なる。

 グレゴローヴィッチ版も、美的な衣装と多数の男性ダンサーが活躍する勇壮な舞台で、今見ても古代ローマの栄華とそこでくり広げられる人間ドラマを表現するには十分である。
だがコフトン版には、現ミハイロフスキー・バレエが誇る潤沢な資金を投じて制作した、ボリショイ版を大いに上回る絢爛豪華な衣装と舞台装置がある。

 巨額の予算はまた数多くの歌い手を舞台に登場させることも可能にした。冒頭、ローマ軍総司令官を戦に送り出す場面では、戦争に赴くポンペイウス と、奴隷であるスパルタクスと親友クリクサスを馬に見立てて、彼らに引かせた車にのって華々しく登場するクラッススをはじめとする踊り手と歌手ら200余 名が舞台に登場。歌い手たちは、直後に有名なハチャトリアンの音楽を合唱するほか、剣闘士たちの闘いの場面や反乱軍の討ち入りの場面では、特別音響効果が 使われ、観客を古代ローマの円形闘技場の中央や、クラッススの館の中にいるかのような臨場感で包むのであった。

撮影/アンジェラ・加瀬

 2つの版はストーリーも一部異なり、グレゴローヴィッチ版でスパルタクスの妻であるフリーギアは、コフトン版ではヴァレーリアという名で、スパルタクスらが収容されている奴隷収容所の檻近くに連れてこられた女奴隷の一人で、スパルタクスと恋におちるという設定。

 またグレゴローヴィッチ版のスパルタクスが一人で反乱軍を率いて闘うのに対して、コフトン版のスパルタクスは、親友でやはり優れた剣の使い手クリクサスと反乱軍を率いる。

 ところが、途中でクリクサスがクラッススに捕らえられ、かねてより憧れていた美女のサビーナ(クラッススの愛妾)に命を助けられ誘惑されたことか ら、恋に溺れ反乱軍を逸脱。ポンペイウスやクラッスス、サビーナの罠に堕ちたとも知らずに、サビーナ配下の高級娼婦を多数反乱軍の夜営に手引きし、兵士た ちを骨抜きするきっかけを作ってしまう。

 その後、かつての仲間たちを多数殺害され、実は自分がローマ軍や悪女サビーナに利用されていただけであったことを悟ったクリクサスは、スパルタクスの手にかかって死ぬことを望むが、逡巡する友を前に自らスパルタクスの剣で命を絶ってしまう。

 友を失い、今や率いる兵士も僅かになったスパルタクスは再び囚われの身になるよりも自由の民としての名誉ある死を望みローマ軍に最後の闘いを挑む、という内容。

 振付についていうと、グレゴローヴィッチ版では、スパルタクスとフリーギアの愛のパ・ド・ドゥで、主役男性ダンサーがバレリーナを腕1本でリフト し舞台を渡るアクロバティックな振付で有名だが、コフトン版は1幕第3場のクラッススの館での宴で披露されるクラッススと愛妾サビーナのパ・ド・ドゥ、ス パルタクスが反乱軍を率いて闘い初勝利を得た後の1幕第6場で踊られるスパルタクスと恋人ヴァレーリアのパ・ド・ドゥ、2幕第7場でサビーナと彼女に誘惑 されるクリクサスが踊るパ・ド・ドゥなどに、アクロバティックな振付やリフトが多用され、観客がダンサーたちの身体能力と訓練の賜物である煌びやかな技巧 を楽しめる構成になっている。

撮影/アンジェラ・加瀬

 カレン・ドルグリアン指揮のミハイロフスキー・オーケストラによるハチャトリアンのスコアの大音声の演奏と合唱団によるコーラス、多数のソリスト が踊るアクロバティックな振付、血で血を洗う血生臭い戦闘シーンと、十字架に磔にされたスパルタクスと死んでいった反乱軍の累々とした亡骸。

 何事も控え目で上品が好みの英国のバレエ関係者やバレエ・ファンは、初日の1幕を大きな驚きとともに鑑賞。幕間で「これはバレエなの?それとも一体サーカスなの?」と口走る一般観客もいたほどである。

 サンクトペテルブルクで今年の4月27日に世界初演された初演版では、生きた虎が登場し、クラッススの館の酒宴の余興として剣闘士たちが戦わされ る場面には、クリクサスやスパルタクスたち男性グラディエーターの闘いと共に、女剣闘士たちの闘いもあったというが、今回のロンドン公演ではそれらは省か れている。

 英バレエ批評家は、自分たちの嗜好に合わないこの作品をこぞって批判したが、私自身はコフトン振付のミハイロフスキー版『スパルタクス』を非常に高く評価している数少ない一人である。

  観客は、バレエ団の優れた踊り手たちによる演舞にプラスして、コフトン版ステージングの企画、および舞台設定や装置により、人馬(ひとうま)としてクラッ ススの車を引かされる使役と剣闘士としての訓練、仲間を殺すか自分が命を奪われるかという闘い以外は、家畜のように檻に囲われているスパルタクスを観るこ とで、人間性を剥奪され、支配者階級の玩具として扱われる奴隷たちの苦悩を大いに理解し、感情移入することが出来る。

 アクロバティックで「けれん」に満ちた振付は、剣闘士という野生的な人間たちに宿る破天荒な力や、古代ローマの栄華と繁栄に溺れる人々を舞踊で表 現するのに非常に似合いのスタイルでであったし、クリクサスやポンペイウス、エライダといった多彩な登場人物も、人間の心の闇に巣食う悪欲や陰謀、スパル タクス率いる反乱軍の興亡を鮮やかに描くのに適切であった。

 自由を渇望しての蜂起後、初勝利に酔うクリクサスと剣闘士たちによる野性味あふれる舞踊は、ハチャトリアンのスコアの一部が持つ(現代人のわれわ れの中では往々にして眠っている)人間の本能を根底から揺さぶるパワーや、洗練と対極にある土着的な魅力を余すことなく視覚化して見事であったし、彼らに クラッススの館で貴族や歌い手たちによって踊られる上品なバレエとは別のスタイルを踊らせることで、貴族と奴隷という身分の違いと、それぞれの階級の人間 が持つ魅力や個性をきちんと描くことに成功している。

 英批評家は、この作品を「品がない」「野蛮だ」と批判するが、美食と性に溺れ、奴隷同士を闘わせ殺し合うことを酒宴の余興として、飛び散る血しぶきに興奮した古代ローマの支配階級を、彼らはどう上品に描けば納得するというのであろうか。

 またこのバレエは、マトヴィエンコ夫妻入団後大いにパワーアップしたバレエ団と、数々の魅力あふれるソリストをロンドンの観客に紹介するのにうってつけの作品であった。
現在同バレエ団の踊り手として唯一タイトル・ロールを踊るデニス・マトヴィエンコは、昨年の夏ボリショイ・バレエ団ロンドン公演で、カルロス・アコスタと共にグレゴローヴィッチ版『スパルタクス』を主演。
肉体美と身体能力で話題となりながらも、剣奴の苦悩を体現できなかったアコスタとは対照的に、演技で観客の心を揺さぶり涙させたものだが、版が違うとここまで違って見えるのか? というほど今年のマトヴィエンコ=スパルタクスは異なっていた。

 ボリショイ・バレエとグレゴローヴィッチ版を踊り成功して自信をつけ、妻と共に移籍したバレエ団で今年、今度は自分をフィーチャーしたコフトン版『スパルタクス』に主演したマトヴィエンコは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのダンサーである。
ワイルドな個性と得意とする回転技を奮い、人間性を剥奪され檻につながれる奴隷の苦悩を演じて見せた他、反乱軍の蜂起や闘いの場面では、戦鬼と化したかのような存在感を見せ、非常に印象に残った。

 妻アナスタシア・マトヴィエンコは、柔軟な四肢と優れた身体能力と優れた容姿でクラッススの愛妾サビーナを好演。クラッススを演じたマラト・シュミウノフと共に、アクロバティックなパ・ド・ドゥも難なくクリアしてみせた。

 シュミウノフは、長身と「けれん」を生かし、傍らに美女をはべらせる帝国一の金持ちで支配階級というクラッススという人物を、おおらかに表現し持ち前のスター性で輝かせた。

 凄腕グラディエーターのクリクサスは、蜂起にさいして、一人の剣闘士の首をかき切って死に至らせるような残忍さを見せる役でもあるが、初日にこの役を踊ったデニス・モロゾフは剥き出しの闘志でグラディエーター・シーンに優れた技を奮った。

撮影/アンジェラ・加瀬

 2日目にコフトン版『スパルタクス』のタイトル・ロールを踊ったのはエイフマン・バレエのアレクサンダー・タルコであった。

 エイフマン・バレエは10年ほど前に来英公演を行い、作品・ダンサー共に高く評価されながら、なぜかそれ以来ロンドンを訪れることがなくなったた め、関係者もファンも最近の同バレエ団のダンサーについては、ほとんど何の情報も持たない。またタルコについては、今回のロンドン公演のプログラム上にも 紹介がなかった。

 私自身、初日にヴァレーリアを踊ったイリーナ・ペレンが、セカンド・キャストではクラッススの愛妾サビーナを踊るというので観に行ったが、正直誰 がスパルタクスを踊るのすらわからず、どんな舞台を見せられるのか、かなりの不安を抱いていた。だが、幕が上がると、すぐさまこの心配が全くの杞憂である ことが明らかになったのである。

 タルコは、ハリウッド映画『スパルタカス』を主演したカーク・ダグラスを思わせる渋い風貌の踊り手で、細身ながら鋼のように引き締まった肉体と柔 軟な四肢の持ち主。深いプリエからくりだす高い跳躍や開脚ジャンプで高々と宙に舞ったが、何よりも英国の観客好みの非常な演技派ダンサーで、登場直後より 観客の心つかんだ。
立ち姿は自由を渇望する剣闘士たちの首領としての包容力と人間的魅力に満ちており、この作品が持つ人間ドラマを非常に味わい深く演じて物みせたのである。

  またクリクサスを踊ったアンドレイ・マスロボエフは、大きな体躯がグラディエーター役に似合いで、演技も繊細かつ巧み。憧れの美女サビーナにアピールしよ うと剣闘場で果敢に闘い勝利者となる場面や、ローマ軍の罠とも知らずサビーナとの恋愛に溺れるシーン、自らの愚かさが反乱軍を壊滅状態にし多くの仲間を殺 されたことを知り苦悩する様、最後スパルタクスの手で殺してほしいと懇願し、その後自ら死を選ぶ最後まで、クリクサスという大役を巧みに演じ踊って強い印 象を残した

 黒髪に浅黒い肌、渋い風貌のタルコと、長い金髪をなびかせる美丈夫マスロボエフは視覚的に絵になると共に、それぞれの魅力と演技でスパルタクスと クリクサスの間にある深い友愛を描いてみせたため、この2人の友情と離反に焦点あてたコフトン版『スパルタクス』は初日以上にパワー・アップしたのであっ た。

 女性たちも負けてはいなかった。同日のヴァレーリア役は、今年ルジマトフに請われこの役のためにバレエ団に移籍したヴェラ・アブーゾワ。移籍まで 16年エイフマン・バレエのスター・バレリーナをつとめた長身・美貌のドラマティック・ダンサーである。最後の闘いに赴くスパルタクスと愛を確かめ合う場 面で、愛する男の胸を何度もこぶしで打って嘆き悲しむ場面の、激情迸らせた演技が忘れがたい。

 サビーナ役はイリーナ・ペレンで、前日の可憐なヴァレーリアとは対照的な悪女役に演技と持てる魅力のすべてを奮って、芸達者なところを見せた。

 同日のクラッススはアンドレイ・カシャネンコ。瞬発力に優れた若手で、ダイナミックな跳躍技を披露し、敵役クラッススの存在感も十分であったが、パートナー技術に問題があり、アクロバティックな振付のリフトで観客を何度も冷やりとさせた。

 だがペレンはそれもものともせず、自力で身体をコントロールするなどしてこれらを見事に切り抜けた他、このバレエ最終日24日夜は、(片足を右手 でグランセゴンドの位置にキープしての)6時のポーズで回転後にポアントで長々と得意のバランスを披露し、観客を大いに驚かせた。

 役者が揃った2日目、23日の舞台は、作品が踊り手を輝かせ、そして踊り手もまたバレエをより味わい深い物に高め、最も印象に残るものであった。

 最終日24日夜のヴァレーリアはロンドン公演で大活躍をしたバレエ団の新進バレリーナのエカテリーナ・ボルチェンコが踊り、フレッシュな印象を残した。
(2008年7月22日、23日。撮影は24日の昼夜の2公演)

撮影/アンジェラ・加瀬