ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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亀田恵子 text by Keiko Kameda 
[2009.05.11]

「あいちトリエンナーレ」でNibrollの『no direction』

Nibroll 『no direction』
振付/矢内原美邦、映像/高橋啓祐、衣裳/矢内原充志、音楽/スカンク
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愛知県では、2010年に「あいちトリエンナーレ2010」が開催される。トリエンナーレとは、3年に一度開催される国際的な美術展覧会のことで、イタリア語の「3年に1
度」が原意になったものだ。日本国内では越後妻有アートトリエンナーレ(新潟県、2000年~jや横浜トリエンナーレ(神奈川県横浜市、2001年~jがよく知られている。海外ではミラノトリエンナーレ(イタリア)や広州トリエンナーレ(中国)などが有名。近年の傾向としては、ファインアート(絵画や彫刻)のみならずダンスやパフォーマンスなども盛んに取り入れられているようだが、2007年に開催されたイタリ
アのヴェネツィア・ビエンナーレ(biennaleは2年に1度開催される国際美術展覧会イタリア)では森山開次、BATIK、山川冬樹が正式に招聘を受けるなど、日本のコンテンポラリー・ダンスが国際的な評価を得ている。今回のNibrollの『no direction』は「あいちトリエンナーレ2010」のプレ公演として、華々しく祝祭ムードを盛り上げる舞台となった。  

『no direction』(2006年初演)がつくられたきっかけは、Nibroll代表でダンサー・振付家の矢内原美那が「外国で地図を持たずに出かけて道に迷いそうになったが、無事に宿に戻れた」という体験がもとになっているという。「方向性というものが、1つの方向“こっちがあってる=正解”と常に定められているのはおかしい」という彼女自身の中にわき上がった小さな疑問をきっかけに『no direction』=方向性がない、というタイトルの作品がつくられた。
偶然だと思われるが『あいちトリエンナーレ2010』のロゴマークはAichiのAとTriennaleのTから成る矢印。「-u65293 従来のロゴマークのような固定的なものではなく、あらゆる方向を指し示すことで、芸術表現の多様性、国内外への発信、祝祭的ひろがりを表現できるもの-u65293 」とされている点では『no direction』のコンセプトと重なりあい、興味深く感じる。
 

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Nibroll 『no direction』


冒頭、キューブ状のオブジェが床に置かれて整然とした印象の舞台に、背景に大きく張られたスクリーンへ四季折々の中で芽吹き、花開き、萎れていく植物の映像が躍動する。静的な空気の中に映像がとどめようもなく展開していくさまは、静かに物思いにふける私たちの心の中に似ている。
今回のNibrollの作品は、こうした「見えているもの」と「その裏側にひそむもの」が同時に提示されていたように感じる。
両腕を激しく振りながら舞台上を連なって歩くダンサーたち。そのしぐさは一見すれば自らの意思のように思えるが、彼らの動きはくりかえされる程「見えている姿」とは違う印象を観客に与えていく。舞台の端まで行くとキリッと方向転換をして同じ場所を往復しているばかりの歩行、ぶつかりそうでぶつからないすれ違い、過剰なテンションで行われるキャッチボールをするような遊びのしぐさ…そのどれもが、何かの規制や強制によって動かされているように感じるのだ。怒りを抑えつけているような全身の震え、緊迫した表情、それらが猛烈な勢いで動き続ける彼らの身体からはみ出してくる。映像、音楽、次々と着替えられていく衣装、あらゆることが過剰に、速度を急ピッチで上げながら展開されていく舞台では、叫び声や奇声に近い笑い声があらゆる重圧からの臨界点のようにあげられた。
 

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舞台中盤では、シュールなシーンが挿入された。カーテンやソファと繋がったままの衣装でダンサーが登場したのだ。語尾を長く不自然に伸ばした言いかたで、1人のダンサーが「おじいちゃんが餅を喉に詰まらせて死んだ」エピソードを独白。あらゆるものの境界線が曖昧になった世界の表現だろうか。物質的なあいまいさ=人とインテリアなどが繋がった姿は不気味であり、生命感が消えていた。それに対し、「餅を喉に詰まらせて死んだなんて恥ずかしくて人に言えない」という日常的なエピソードに取り込まれていく、生と死のあいまいさには自然でカラリとしたユーモアとたくましさを感じた。「物質と物質」(言い換えれば「人と人の身体」)の間の境界線を消すことは出来ないが、目に見えない生と死(精神的なものや霊的なもの)は渾然一体となって存在し、境界線が存在しないということかも知れない。
後半、矢内原がデュオで縫いぐるみを奪い合うように踊る場面は、それまでの狂騒的な動きと少しトーンを変えたシーンだった(矢内原はこのシーンから登場)。少女を思わせるワンピース姿で、リビングでじゃれあうような動きなのだが、それは恋人といっしょにいるにも関わらず、孤独に貫かれているような印象を与え、人と人との繋がりの切なさを感じさせた。ダンス作品の楽しみの1つは、さまざまな身体から生まれる豊かな身体言語を味わうところにもある。
前半の演劇的な要素の強い身体の見せる会話的な動き、ユニゾンで踊る身体のダンサブルさ、メロウな空気を含んだ身体からこぼれる感情、これらのバランスを取ったり、あるいは壊したりしながら最も効果的に配していくのが振付家のセンスということになる。振付家としての矢内原の構成力が試されたシーンだった。

ラストシーンは舞台上からダンサーが姿を消した。スクリーンには、広大な自然の中を広がってゆく美しい植物の映像が展開。ラインを強調した都会的なビル群や自動車が逆さまに崩壊していった脆さと比較すれば、曲線が躍動する植物の姿は、どこからでも自由に生まれ出て土にかえっていく力強さに満ちていた。生まれては消え、そのくり返しで大地を覆っていく緑のイメージはポエジーのように美しい映像だったが、それは最後に続く黒い塊のように連なる人の列の映像と双を成すことで意味を深めていたように思う。
パソコンで見ている画面はhtml言語というプログラミング言語によって構成されているが、彼らの作品で扱われていた画像がちょうどその関係に似ていると思えたからだ。美しい画面の裏には、列をなして連なっている無数の言語がある。ここで再び、私たちはダンサーたちが見せた動きに立ちえかえってみよう。彼らが見せていた脅迫的な動き・・・観客である私たちにも共通しているかも知れない慌ただしさ、それがどこから生まれていたのかということに。さまざまなことがスピードアップし、情報が氾濫している今、私たちはあまりに自分以外の意思(と思われるもの)に翻弄されてはいないか、正解のある方向へと駆り立てられ過ぎていないか、目を向けていなかった自身を振り返ってみたい。

「見えているもの」と「その裏側にひそむもの」。それらはどこまでいっても反転をくりかえしながら終わらない世界。植物の生命サイクル、都市の生活、生と死・・・そこにあるのは正解を示す方向ではなく、循環する姿なのだ。『no direction』は、そんな再生サイクルの物語を思い出させてくれた作品だった。
(2009年3月25日 愛知県芸術劇場小ホール)

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Nibroll 『no direction』