ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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唐津 絵理 text by Eri Karatsu 
[2008.10.10]
From Nagoya -名古屋-

第51回現代舞踊公演

 現代舞踊協会中部支部による恒例の舞踊公演が開催された。今回は例年使用していた中規模の劇場ではなく、200席程度の実験的な小ホールが会場となった。

 3回の公演それぞれのプログラムにも特色がある。ステージ1は、上演時間が4分以内と多くの舞踊コンクールと同じくらいの長さでの、比較的新人向けの会。ステージ2は従来と同じ7分、10分、15分で、ステージ1と共に、前方から鑑賞する形式のエンドステージでの舞台。そして私が見ることができたのが、センターステージで行われたステージ3だ。ステージ3では、前方と後方の2方向に観客が座っており、一方向から鑑賞する従来のプロセニウム形式になれた振付家にとっては、空間そのものにも挑まなければならない実験的な舞台となった。それゆえに、ステージ3を選んだ振付家の作品は、それぞれ独自の工夫の痕を残す作品となっていたと思う。

 木方今日子の『そらのした』では、篠田弘美の声に導かれるように舞台が進行していく。5名の女性ダンサーが正方形の真っ白な発泡スチロールをもって登場。ところどころ墨でなぞった跡のあるその板は、場面毎に上下左右に置かれ、転地や家の囲いなど様々な人間界を覆う壁を象徴するかのようだ。篠田の笑いや叫ぶ声音に呼応し、これらの壁と闘いながらも、今日もここにいる私たちを表現した。

『旅人よ』では、秀和代が左右から観客に挟まれたステージそのものを、人々の歩く道に仕立てた。あるときはテンポの良い音楽にのって快活に、またあるときは、しっとりと憂いさながら進んでいく。たまに引き返し、迷いながらも進まざるを得ない私達そのものの姿なのだろうか。

 南條冴和の『歌わないうた~声にならない声~』は、赤い衣裳の長谷川美樹を中心に場面が展開する。長谷川を折り囲む女たちは終始うつむき加減。アコーディオンの音色が、彼女達の屈曲した動きに哀しく響く。長谷川の孤立した身体の存在がとても印象的だった。

 石原弘恵『遊・遊 あなたという存在・わたしという存在』は、他の作品とはちょっと趣の異なる作品だ。石原のテクニックと伸びやかな身体性もさることながら、アンサンブルダンサーの衣裳には現代舞踊を見慣れた観客には新鮮な驚きをもつことだろう。ピンクのボブカットのカツラを被り、金のラメのワンピースの下からは、ピンクのレースがのぞいている。石原の人間味溢れる動きに対し、ただ不気味に作り笑顔で無機的に動き続ける少女達のアンアンブル。あなたと私の間の壁にはどうにもならない隔たりがあるという声が聞こえてくるようだ。

 伊藤歌奈子の『美しいものには毒がある--蝶VS蜘蛛』は、ロープを蜘蛛の巣にみたて、そこにつかまっている蝶の場面から始まり、蝶が勝利するまでを描いた、きらびやかな蝶と毒々しい蜘蛛の戦いのドラマ。

『されど川は流れる・・・』は、赤いワンピースを身に纏った振付家の寺原幸と、夜久ゆかりはじめ5名のアンサンブルが対照的。結果のないドラマのように、連綿と動きが連なっていく。即興的に流れる時間の一部を切り取って、左右から眺めるセンターステージを活かそうとした工夫の感じられる作品だ。

 篠田侑子の『砂--生きもののようにはいまわる砂・・・静かに、確実に地表を犯し亡ぼす』は、アラビックな衣裳と音楽で、砂漠の風景を想像させる。ところどころ指先を意識したユニークな動きもみられたが、展開が速く、ひとつの動きをもっと展開させたら面白いのではないかと感じたところもあった。

 ラストの野々村明子の『天の「川」地の「川」』のユニークさは、なんといっても、関山三喜夫など中部現代舞踊協会の重鎮たちが野々村明子の手によって、自然なかたちで作品に登場している点である。ゲストとして江原朋子も出演、野々村が観客の手をとり、ステージに観客を招き入れる場面もあったりと、3日間にわたる公演のラストを締めくくるに相応しい活気に満ち溢れた祭りのような作品であった。

 全体として空間への工夫や作品への意気込みを感じたステージ3であったが、作品のテーマがどこか似かよっている共に、表現するための作品というよりも、踊るための作品と感じられるものもあった。舞踊作品として生み出さざるを得ないダンスの必然性を感じる作品に少しでも多く出会いたいと思う。
(2008年9月21日 愛知県芸術劇場小ホール)