ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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関 口 紘一 text by Mieko Sasaki 
[2007.06.10]
「あっ」と言う間に暑い季節がやってきました。今年は空梅雨なんでしょうか。「空梅雨」とい言葉があるのですから、やはり自然は移ろい易い。私たちはごく自然に気候は変わっていくと、つい思ってしまいますが、じつは様々の変転があるものなのですね。

ローラン・プティの『コッペリア』、失われた名演・・・

ローラン・プティ『コッペリア』
 ローラン・プティの傑作『コッペリア』が上演される、と聞いて大いに期待した。最も注目すべきことは、やはり、プティの名演が未だ瞼の裡に残るコッペリウスを誰が踊るのか、だった。
それはプティがこの素朴な雰囲気の古典バレエの名作を改めて読み直し、若者の少々乱暴な青春のエネルギーと老人の孤独を、まるで海と山のようにくっきり とコントラストを付けて表し、後者を絶妙の演技で踊ってみせたからである。その舞台では、振付家の趣旨を深く理解して<青春>を踊ったフランツのパトリッ ク・デュポンとスワニルダのドミニク・カルフーニたちと、<孤独>を踊ったプティが、じつに見事なバランスを見せた。つまりは、19世紀のロマンティッ ク・バレエ『コッペリア』を今日に蘇らせたのである。
プティのコッペリウスは、終幕近く愛の結晶である人形を抱いて踊るシーンで、幼い頃にカフェの客たちの前でタップを踏んで以来、人生を賭けてきたダンス のスピリットのすべてを込めて踊った。そのダンスは決して深刻ではなく、爽やかなユーモアをたたえてじつに軽やかであったが、それが逆に人間とはかくも哀 しき存在なのか、と深い哀切をもって迫り、観客の胸の深奥を揺さぶったのである。
今回の新国立劇場の公演では、ルイジ・ボニノがコッペリウスを踊った。当初は小島直也も踊ることになっており、先月のマキューシオの好演も記憶に新しいので期待していたのだが、結局、怪我のために踊ることはなかった。
物語の基本的な展開は変わっていないが、主役の3人の関係はさらに濃密になっている。
老いた人形師コッペリウスは、若く明るい美人のスワニルダに憧れ、彼女にそっくりな人形コッペリアを作った。スワニルダの恋人のフランツは、コッペリア を人形とは知らず好意を抱いている。またスワニルダは、コッペリウスが自分に憧れていることに感づいている。
孤独な人形師は、人形作りに明け暮れているうちに、想いを込めて作った人形と現実の人間の区別が曖昧になってきている。
有り余る好奇心に動かされて生きている若者たちは、不思議な人形師コッペリウスの部屋に忍び込む。コッペリウスはこの部屋で、精密な人形のコッペリアと 一緒に暮らし、孤独を癒していた。このコッペリウスの生活の一端を垣間見せるシーンで、上記のプティのダンスは踊られるのである。
ともあれ、若者たちは老人の孤愁を襲い、いささか無頓着に蹂躙した。おかげでコッペリウスは、最愛のコッペリアを破壊されてしまった。救いのないエンディングである。これはいったい悲劇なのか、あるいは喜劇なのか。
しかし、ボニノのパフォーマンスは、ショー的に見せることには成功していたかもしれないが、コッペリウスの心情のコアを表現した、とは言いがたい。必ず しも振付家自身が踊ったから優れた舞台で、他人に振付けられたダンスだから心がこもっていない、というつもりは毛頭ないが、やはり失望したと言わざるを得 ない。
プティが古典名作を読み直して、練りに練った表現はあっさりと背景におしやられ、華やかなショーを演出するために浪費されてしまった。ボニノのチャプリンは単なる一発芸だったのだろうか、そんな想いに囚われてしまったのである。
(5月13日、新国立劇場 オペラ劇場)