ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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唐津 絵理 text by Eri Karatsu 
[2009.05.11]

夏木マリが挑んだ新プロダクション 『夏木マリ・印象派NEO』

『夏木マリ・印象派NEO~わたしたちの赤ずきん』
ディレクション/夏木マリ、振付/井手茂太、Youko Berberich、音楽/斎藤ノブ、
出演/夏木マリ、MNT
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「夏木マリ・印象派NEO~わたしたちの赤ずきん」

夏木マリがライフワークとするステージ「印象派」。その新シリーズ『夏木マリ・印象派NEO~わたしたちの赤ずきん』が開催され、春日井市民会館で観ることができた。
9回目になった今回の「印象派」は、オーディションとワークショップで選んだパフォーマンス集団「マリ・ナツキ・テロワール(MNT)」の8名のパフォーマーが参加した新しいプロジェクト。振付家として参加した井手茂太の協力も得て、その創造プロセスは、大変刺激的なものだったに違いない。90分にわたっておもちゃ箱をひっくり返したようなアイデア満載の驚きに満ちた舞台が展開された。
女優、歌手、パフォーマー、エッセイストなどさまざまな肩書をもつ夏木マリが、今回ベースに選んだお話は「赤ずきん」。よく知られた童話を下敷きにしながらも、そのお話は換骨奪胎されて、14の場面からなるまったく新しい作品に生まれ変わっている。

まず会場に入るとステージはもちろんのこと、客席まで真っ赤なライトが照らされて、すでに不気味な異空間が創出されている。簾状のカーテンが垂れ下がった舞台の中ほどには8台の便器が整然と置かれているが、そこにカーテンの向こうから小脇に本を抱えた夏木マリが現れて、ゆっくりと本を読みはじめる。舞台を一回りすると1席だけちょっと前に張り出た便器に座って、突然本を破り、便器の中に捨ててしまう。強烈な幕開けだ。
そこから徐々に「赤ずきん」らしいお話を始めていくのであるが、原作とは奇妙に異なるストーリーは、彼女の心の声、独白の詩ようにも聴こえてくる。道草をしている少女の物語を語りながら、しだいにそれが手話となり、そこから自然に身体の動きに繋がっていく。夏木のひとつひとつの動きはクリアで美しい。どこにも隙がなく、一人で舞台を続けている緊張感を携えた身体の存在の重さを感じる。
マリ・ナツキ・テロワール(MNT)のパフォーマー(ダンサー出身が多いが、ダンスのジャンルも広く、演奏者も含まれていることから、このように表記したい)が一人ずつ足早に舞台に登場しては、スカートをめくったり、足を掻いたりと、井手仕込みの滑稽な動きを見せていく。たくさんのユニークな動きが顔を覗かせるものの、前半はちょっと細切れに現れては消える動きは、もっと見せて欲しい、と思わせるような、舞台全体が抑制された印象だ。

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「夏木マリ・印象派NEO~わたしたちの赤ずきん」 「夏木マリ・印象派NEO~わたしたちの赤ずきん」

全体を通して、赤ずきんを象徴し、夏木も大好きだと語る「赤」のボールが度々登場するが、巨大な鍋の中、そして次はバランスボール、次にソフトボール、そして最後は、突然の落下が意表をついて劇的な効果を上げた天井から降り注ぐ約2万個のピンポン玉と、その大きさは次第に小さくなっていく。
また14の場面にわたって音楽監督の斉藤ノブによって選ばれ、アレンジされた様々な音楽が流れる。歌手・夏木マリがジャンルを超えて多用な歌を奏でたかと思えば、「ラプソディー・イン・ブルー」ではパフォーマー自身がピアノを演奏したり。その中でも、パフォーマー全員で繰り広げるカフォンの演奏は圧巻だった。難しいリズムを刻む音のハーモニーは見事で、その厳しく熱い演奏のなかに、マルチパフォーマーであろうとする夏木の情熱の片鱗を感じた。
それ以外にも、簾に映る斬新な映像や、女性のパフォーマーのピストルの連射に合わせて変化する照明、ピアノに乗って弾きながら登場するパフォーマーなどなど、既成概念を打ち破ろうと企てる夏木の演出が全場面で散りばめられている。

終盤のクライマックスでは、様々なジャンルのパフォーマンスで身体を鍛え上げてきたパフォーマーたちによる痙攣的なダンスと、激しい音楽に呼応するように叫ぶ夏木の声が響き渡る。そこに一斉に落ちる2万もの赤いピンポン玉。それは女の欲望、血液、命、すべてを包括するシンボルとして、朱々と光りながら舞台から零れ落ちる。「印象派」という名に相応しい印象的な場面を創り上げた。
そこに続くラストシーン、夏木マリがヘンデルの作曲したオペラ『セルセ』より、『オンブラ・マイ・フ』を独唱。木陰への哀愁を歌ったこの唄は、赤ずきんが木陰で佇む姿を連想させる流石の演出だった。
夏木の身体を見ていると、身体と声の結びつきがどれほどのものかをあらためて思い知らされる。楽器としての身体、そこから絞り出される言葉になる以前の言葉ならざる声。人間の根源としての身体表現がそこにある。さらに極めて始原的な声と身体を用いながらも、現代の若者の言葉や、今日の女性の生態をもクロスさせて彼女オリジナルの舞台を創り上げる。いくつになっても新しい世界の創出にあくなき闘いを挑む、夏木マリのその姿には舞台創造の原点を見た思いがした。
(2009年4月10日 春日井市民会館)