ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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唐津 絵理 text by Eri Karatsu 
[2007.02.10]
From Nagoya -名古屋-

現代舞踊公演(文化庁芸術家在外研修成果報告公演)

 若手芸術家に海外での実践的な研究の場を提供するために、文化庁が実施してきた「新進芸術家海外留学制度」。その研修終了者の発表の場として、昨年から開催されている成果公演の2回目が愛知で開催された。上演したのは、愛知県出身の平成6年度・倉知外子、13年度・平山素子、15年度・杉江良子、新潟県出身の平成10年度の増子浩介という4名の舞踊家だ。

 杉江良子の『春のとなり』は、女性5名による作品。オレンジ、紫、緑、青、黄色という鮮やかな衣装を身につけたダンサーたちが、バレエやジャズといったそれぞれの持ち味を活かして踊るソロやアンサンブルから構成されている。杉江の安定したソロの場面では、本人の言葉による「壊れていく私のなかで何かが」という不安なイメージが髣髴としてくる。それは衣裳や構成上の演出的効果によるところが大きいように感じたが、身体の動きそのものでテーマが浮き彫りになってくるとさらによいのではないだろうか。


「春のとなり」

「春のとなり」

 増子浩介の『Croix du sudー南十字星ー』は、男性4名の作品で、タイトルそのまま、それぞれの男性が星となって踊る。男性と星という組み合わせがちょっとおかしく、ロマンティックな雰囲気で踊るごつめの男たちに哀愁さえ感じてしまった。途中登場した土佐綾香は、しなやかな身体に、こなれた動きで、もっと見ていたいと思わせる踊りだったが、途中から登場する必然性がみえなかった。彼女の踊りをもっと生かす方向で創作することもできたかもしれない。


「Croix du sud -南十字星-」

「Croix du sud -南十字星-」

 平山素子の『Butterfly』は、新国立劇場での初演以来、何度も再演されているということで、完成度が高い作品だ。昆虫を想像させる生成りの麻の衣装と、平山の編みこみヘアにナチュラルメイク、平山は作品のイメージに合わせすべてを演出する。この作品での平山は、これまでとは異なり極めて中性的。わずかに重なり合っていた2人の関係は、徐々に激しくなり、ラストでは暴力的なエネルギーに変貌を遂げる。平山はその持ち味である強靭な肉体と柔軟性を限界まで突き詰め、中川賢もそれに応える。新進気鋭の男性ダンサー中川とのリフトでは、若干不安定さも感じたが、そこにすらスリルや緊張感を感じ、片時も目を離すことができなかった。観客はまるで一緒に事故にでも出会ったかのように、一瞬一瞬に紡ぎだされていく作品の目撃者となった。


「Butterfly」

「Butterfly」

 倉知外子は、愛知県の現代舞踊の先駆けである奥田敏子の門下。『明日は晴れ?…曇り?』と題した作品は、11名の女性ダンサーが出演。作品冒頭、観客席から登場したダンサーたちは、5枚の大きなパネルを舞台奥に向かって押していく。パネルの切込みから漏れ広がるオレンジの明かりが印象的な幕開けだ。現代の不安感に、一陣の光が差し込むことを祈念して創作した作品らしく、幕開けからメッセージをこめた演出で見せてくるところはさすがべテランの作品だ。パネルが奥へいってしまうと、11名のダンサーがアンサンブルによるダンスを坦々と踊り続けていく。黙々と繰り返されていく日々の営みを暗示したものなのだろうか。印象的な幕開けで、大きなテーマを掲げているわりには、動きそのもので見せていく印象的な場面が少ないように感じたところが少し残念だった。


「明日は晴れ?…曇り?」

「明日は晴れ?…曇り?」

(2006年12月21日(木) 愛知県劇場芸術小ホール)

 コンテンポラリー・ダンスと現代舞踊について、2つの公演を近い日程で観たことによってはっきりと認識できた違いがあった。ひとつは、作品のテーマについて。現代舞踊のテーマは、人間の生死やその生き方、希望や夢など、人間の存在そのものを大きく扱ったものが多い。対してコンテンポラリー・ダンスでは、日常的な視点で、何気ないところからテーマを見つけてきている。もうひとつは、「動き」の必然性。現代舞踊では、過去の偉人たちが創り出してきた既存の「現代舞踊」的な動きの中で完結することが多く、新しい動きを見つけていこうとする意気込みが感じられることは少ない。コンテンポラリー・ダンスでは、動きの種類や質には何の規制もなく、「これがダンス」と思われるような奇抜な表現さえ多くみられるようになった。身体そのものをじっくりと観察して動きを選び出そうという姿勢を感じる作品が多い。

それぞれに問題点も感じた。コンテンポラリー・ダンスでは、動きそのものは、自由な発想で選び出しているから、より創造的ではあるものの、日常的な感覚が作品の質にまで影響を及ぼしていてスケール感の乏しい作品が多い。現代舞踊では、テーマは大きいのだが、動きや身体がそれに追いついていない印象をもつ。

現代舞踊とコンテンポラリー・ダンス、いずれの場合でも、「現代」「同時代」という以上、まずは真摯に身体と向かい合い、新しい動きを模索して欲しいと思う。どんなところからテーマを見つけ出してきたにせよ、最終的にはその作品は他者に向かって発信されるものなのだ。だから、観ているものが共感できる地点まで普遍性をもった表現にしていくべきなのではないだろうか。このようなことを考える契機となった2つの公演だった。