ダンサーたちの卓越したテクニックと表現力により、薫り高きロシアの国民文学をバレエで味わう幸福感に浸った

ワールドレポート/東京

佐々木 三重子 Text by Mieko Sasaki

シュツットガルト・バレエ団

『オネーギン』ジョン・クランコ:振付

ドイツの名門、シュツットガルト・バレエ団がフル・カンパニーで6年ぶりに来日した。元々は2022年に予定されていた日本公演がコロナ禍により見送られ、〈シュツットガルト・バレエ団の輝けるスターたち〉と題した11名の精鋭たちによるガラ公演に代わったため、今回はカンパニーとして満を持しての6年ぶり12回目の来演になった。演目は、バレエ団の創設者、ジョン・クランコによる『オネーギン』(1965年初演)と、ジョン・ノイマイヤーが自身の巣立ったこのバレエ団のために振付けた『椿姫』(1978年初演)。どちらもドラマティック・バレエの傑作中の傑作で、それぞれ3公演ずつ行われた。
『オネーギン』はバレエ団の看板演目として何度か上演しているが、『椿姫』を日本で披露するのは今回が初めてで、ノイマイヤーが来日してステージングに協力するとあって、話題を集めていた。2作品とも文学作品に基づいており、オペラ化されるほど親しまれている。『オネーギン』はアレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エヴゲニー・オネーギン』に基づいており、チャイコフスキーによる同名のオペラがある。『椿姫』はアレクサンドル・デュマ・フィスの小説に基づいており、ヴェルディがオペラ化している。けれど、どちらのバレエも、馴染みのあるオペラの音楽は一切、採用していない。『オネーギン』の音楽はこのオペラ以外のチャイコフスキーの楽曲で織りなされており、『椿姫』は全てショパンの音楽で構成されている。ただ、バレエ化にあたってのアプローチの仕方が全く異なっているのは興味深い。『オネーギン』ではプーシキンの文学の世界がそのまま素直に抒情豊かに舞踊化されているのに対して、『椿姫』は原作以外のエレメントが意図的に織り込まれ、振付家の独自の視点で組み立てられている。もちろん、どちらも作品として傑出していて、味わい深い。
ここでは『オネーギン』について取り上げ、『椿姫』は別項で扱いたい。

『オネーギン』は、1920年代のロシアを舞台に、田舎の地主の娘タチヤーナと帝都サンクトペテルブルク育ちの貴公子然とした青年オネーギンの哀しい恋の行方を、ドラマティックに描いた全3幕の作品である。主役のオネーギンとタチヤーナはトリプルキャストが組まれており、その2日目を観た。当日、開演前に芸術監督のタマシュ・デートリッヒが舞台に現れ、この日にタチヤーナ役に予定されていたアンナ・オサチェンコが体調不良で来日できず、またオネーギン役のジェイソン・レイリーも急病で出演できなくなったため、初日に主役を務めたエリサ・バデネスとフリーデマン・フォーゲルが代わりに出演することになったと説明し、観客に理解を求めた。というわけで、思いがけずベテラン組の円熟した舞台に触れられることになった。

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Photo Kiyonori Hasegawa

幕開けはラーリナ夫人邸の庭。中央のテーブルでは、夫人が乳母と一緒に娘タチヤーナの"名の日の祝い"のために、彼女と妹オリガのドレスを縫いながら、オリガと楽しそうにおしゃべりしている。一方のタチヤーナは離れた場所で読書に夢中。オリガがいたずらにタチヤーナの本を取り上げると、彼女は返すようせがみ、再び本の世界に没入した。田舎の平穏な生活を描いた導入部だが、内気で文学少女のタチヤーナ(バデネス)と、快活で茶目っ気のあるオリガ(ディアナ・イオネスク)の対比もさりげなく示唆されていた。

オリガの婚約者で詩人のレンスキー(アドナイ・ソアレス・ダ・シルヴァ)がやって来て、オリガと喜び一杯にステップを踏み、爽やかなデュエットを展開した。レンスキーの友人のオネーギン(フォーゲル)が訪れるが、その姿を鏡の中に見たタチヤーナは、鏡の中に運命の人が現れるという言い伝えもあってか、洗練されたオネーギンに魅せられてしまう。オネーギンは礼儀正しくタチヤーナに接し、彼女の読んでいる本を手に取ると、少女趣味と思ったようで、横を向いてフンと鼻で笑って本を返したが、彼女に対しての振る舞いはあくまで丁重だった。オネーギンへの憧れを募らせるタチヤーナと、ますます物憂さにとらわれていくオネーギンが対照的だった。群舞では、勢いよくジャンプで登場した青年たちのパワフルな踊りが見応えがあり、娘たちが青年に手を取られてグラン・ジュテでダイナミックに舞台を疾走する様は壮観だった。やや粗削りな群舞を挿入することで、田舎の若者たちのフレッシュな息吹を伝えたのだろう。

場面は一転、タチヤーナの寝室に変わる。ネーギンへの恋文を書いていて眠りに落ちたタチヤーナは、鏡から抜け出てきたオネーギンと踊る夢を見る。鏡の中にオネーギンの姿を認めたタチヤーナの驚きをバデネスはストレートに表現し、優しい眼差しで自分をリフトし、身体を回転させては受け止めてくれるオネーギンに身心を委ねる歓びを溢れ出させていった。バデネスのたおやかな身のこなしも美しかったが、難しいリフトを繰り返す中に慈しみを滲ませたフォーゲルの演技もさすがだった。ガラ公演でよく踊られる"鏡のパ・ド・ドゥ(PDD)"だが、物語の流れの中に置かれると、より一層、輝きを増してみえた。目覚めたタチヤーナは、夢の興奮状態のままオネーギンへの想いを恋文にしたため、あきれ顔の乳母に届けるよう託した。当時のロシアでは、若い女性から男性に恋文を出すなど非常識とされていただけに、タチヤーナの抑えられない想いが伝わってきた。

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第2幕はタチヤーナの名の日を祝う会で始まる。恋文の返事が気になって落ち着かないタチヤーナだが、不機嫌極まりない様子で現れたオネーギンは周囲を無視して勝手気ままに振る舞い、タチヤーナに手紙を突き返し、破いて彼女の手にのせて彼女の告白を拒絶した。オネーギンが退屈しのぎにオリガを踊りに誘うと、オリガはレンスキーを振り切り、はしゃいでオネーギンと踊る。それが繰り返されたことでレンスキーは深く傷つき、激昂のあまりオネーギンに決闘を申し込こむ事態になる。緊迫の度合いを増していくこのシーンを、ダンサーたちは登場人物になりきって演じていた。タチヤーナのバデネスは、悲しみに沈みながら気丈に振る舞い、オリガをめぐってオネーギンとレンスキーがもめる様をハラハラしながら見守るしかない辛さに耐えていた。オネーギンのフォーゲルは、苛立ちを隠さず傍若無人ぶりを発揮し、タチヤーナにあてつけるかのようにオリガを誘い、レンスキーが嫉妬するのを愉快そうに眺め、決闘を申し込まれると「ちょっとふざけただけなのに、決闘を?」とあきれたように見やるなど、歪んだ性格を露わにしていった。オリガのディアナ・イオネスクは、オネーギンの誘いを無邪気に喜び、レンスキーの嫉妬をたしなめるようにからかうが、彼が決闘を申し込むと動転し、はしゃいだ自分を責めた。レンスキーのアドナイ・ソアレス・ダ・シルヴァは、感受性が豊かなだけに、非礼なオネーギンや自分を顧みないオリガへの怒りが憎悪へと転換し、自暴自棄を起こして決闘を申し込むまでの心の動きを細やかに伝えていた。ほかに、ラーリナ家の友人でタチヤーナに好意を抱いているグレーミン公爵の存在も見逃せなかった。演じたファビオ・アドリシオは見るからに恰幅がよく、憂いをみせるタチヤーナを気遣い、踊りの相手を務めるなど、さりげなく彼女を見守っていた。ここでは、ダンサーたちは一言も言葉を発していないのだが、それぞれの仕草がまるで台詞となって聞こえてくるようだった。シュツットガルトのダンサーたちは"踊る俳優"なのだと、ここでも再認識した。

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そして、決闘の場。決闘に臨むレンスキーのソロには苦悩や悔恨が込められ、寂寥感が滲み出ていて心に沁みた。頭をスカーフで覆ったオリガとタチヤーナが決闘を止めようと激しく上体を揺らして懇願する様は悲しみを誘った。オネーギンが考え直すよう促しても拒否する姿に、レンスキーの一徹さがうかがえた。決闘は舞台の奥で影絵のように描かれ、一発の銃声が響き、レンスキーが倒れた。タチヤーナの前に戻ってきたオネーギンは、それまで冷たく無表情だった顔をゆがめて、初めて慟哭する。そんな彼を見据えるタチヤーナの目には、嫌悪と憎しみだけでなく蔑みもこもっていた。

劇的な幕切れに続く第3幕の舞台は、オネーギンが放浪の末に戻ったサンクトペテルブルク。グレーミン公爵邸の舞踏会で、公爵夫人となったタチヤーナと再会したオネーギンは、彼女の慎ましくも高貴な美しさに衝撃を受け、彼女に愛を告白する手紙を送る。だが、今度は彼女に拒否されて終わるのだ。冒頭、着飾った貴族たちの踊るダンスはこの上なく優雅だが、どこか取り澄ました感じを与えた。そんな貴族たちの前で、グレーミン公爵とタチヤーナが繰り広げた典雅なPDDは幸福感に満ちていた。公爵がタチヤーナを優しく包み込むように踊る姿には妻への愛おしさが溢れ出ており、タチヤーナも夫にすべてを委ねる幸せを慎ましくもエレガントな身のこなしで表出していた。公爵の妻がタチヤーナと気付いた時のオネーギンの動転ぶりは真に迫っていた。それもそのはず、間に、オネーギンの無為に過ごした人生が過去に行き交った女たちの幻とすれ違う回想シーンで暗示され、かけがえのないものを失った悔恨の念にとらわれていたと思えるからだろう。タチヤーナもオネーギンに気付いて動揺するが、かろうじて平静さを保って立ち去った。

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最後の場面はタチヤーナの私室。オネーギンの手紙を受け取り、彼の来訪を恐れたタチヤーナは、夫に出掛けないよう懇願するが、公爵は優しく妻をなだめて出て行った。入れ替わるように現れたオネーギンは直情的にタチヤーナに愛を告白し、"手紙のPDD"が始まる。オネーギンはタチヤーナにすがり、燃え上がる想いを荒々しいリフトで訴えるが、タチヤーナはうろたえながらも受け付けない。身悶えしながら押し留まるタチヤーナの慟哭が聞こえてくるようだった。踊っているうちに、かつての恋心が蘇って一瞬オネーギンを抱きしめてしまうが、あわてて退け、迷いを絶つように彼の手紙を破いて手の上にのせ、出口を指し示す。絶望したオネーギンが走り去ると、タチヤーナは思わず追いかけそうになるが思いとどまり、彼への想いを封じた。涙にむせぶタチヤーナの姿がたまらなく切なく映り、深い余韻を残した。
それにしても、ドラマを構築していくクランコの緻密な場面構成や、登場人物の心の揺れ動きを繊細に伝える振付の妙に、改めて感心させられた。また、ユルゲン・ローゼによる装置と衣装も、物語の世界に合致していた。第1幕はのどかな自然に囲まれたラーリナ邸の庭で、第2幕の邸内の宴会場は質素に、第3幕のグレーミン公爵邸の宴会場は宮殿のような豪華さと、衣裳も含めて対比させていた。これにより、当時の地方と帝都の社会的また文化的な差異がさり気なく伝わってきた。そして、音楽。プーシキンより少し後に生まれたチャイコフスキーの作品で構成されているが、ピアノ曲集「四季」をメインに様々な楽曲を連ねて、ドラマの展開や登場人物の心に寄り添うように織りなしたクルト=ハインツ・シュトルツェのセンスの良さが光った。ダンサーたちの卓越したテクニックと表現力も相まって、薫り高きロシアの国民文学をバレエで味わう幸福感に浸れた。カーテンコールでは、2日続けて大役を演じ切ったバデネスとフォーゲルを称えるようにスタンディングオベーションの嵐になった。
(2024年11月3日 東京文化会館)

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