ウクライナのためのファンドレイジング・ガラ公演を成功させたアレッシオ・カルボーネに聞く

ワールドレポート/その他

インタビュー=関口紘一

ウクライナのためのファンドレイジング・ガラ「Stand with Ukraine Ballet for Peace」のアーティスティック・コーディネーターを務め、無事公演を終えたアレッシオ・カルボーネ(元パリ・オペラ座プルミエール・ダンスール)。公演成立までの波瀾万丈の舞台裏を語った。(公演についてはhttps://www.chacott-jp.com/news/worldreport/others/detail025814.html を参照。当日の出演ダンサーは一部替わっています)

――ガラ公演が幕を下ろして、今の心境はいかがですか。

アレッシオ 今はベネチアで静かな日々を過ごしています。ガラ公演「Stand with Ukraine Ballet for Peace」を終えるまでは、本当に目まぐるしい日々だったので。
今回のガラは、本番の2週間前には売り切れになり、それでも需要があったので、マチネとソワレを実施することを考えましたが、スケジュール的に叶いませんでした。地元のお客様に加え、ジャーナリストたちも集まりました。これだけのスターたちが一気に出演する舞台となれば、ダンスファンだけでも劇場はいっぱいになるのに、さらに注目された公演でした。私は舞台袖にいて照明や音響などいろいろと忙しかったのですが、横から見ていても感動的な舞台でした。このガラをオーガナイズできたこと、そしてこの素晴らしいダンサーたちを見ることができたこと、今はその喜びを深く噛み締めています。
そしてダンスの世界は、現実より "良い" 世界だと確信しました。ダンスも、音楽も、オペラも、詩も歌手も、映画でも、何にでも共通しますが、こういったアートは必要です。お客様や友だちと共有できるものが必要だと思います。

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カーテンコールの様子 (下手端にアレッシオ・カルボーネ)
© Luca Vantusso

――アレッシオさんはパリ・オペラ座の現役時代から様々な公演を企画されていましたが、今回のガラ公演はどのように始まったのでしょうか。

アレッシオ ウクライナの悲惨な状況をテレビで見るだけでなく、ウクライナのために何かしたくて、友人たちに電話をかけ始めました。最初は、ヨーロッパのいろいろなバレエ団に所属するロシア出身・ウクライナ出身のダンサーへ声をかけました。そのうちに戦争の状況が悪くなり、キーウ(キエフ)やペテルブルクやモスクワにいたダンサーが何人かヨーロッパにやってきました。最初は10人のガラ公演を予定していたのですが、そうこうしているうちに、最終的には26人になりました。オルガ・スミルノワをはじめとしたスターたちが集い、私にとっても、ものすごく大きな経験となりました。

――どのようなテーマの公演を企画されましたか。

アレッシオ このガラの目的は、ウクライナへの支援を送るための資金調達でした。でも、何よりも大切だったことは、ダンスは強いものであると信じ、証明すること。このような困難な状況においても、ダンスは、詩的なひと時や友情を感じさせる機会になると伝えたかったのです。この公演を実現することができて、本当にうれしかったです。すべてを終えた今、感情がとてもたかぶる時間だったと改めて実感しています。

――イタリアのサン・カルロ劇場を選ばれましたね。

アレッシオ この公演は、イタリアのナポリにあるサン・カルロ劇場で行いました。ステファン・リスナーとクロチルド・ヴァイエは、数年前までパリ・オペラ座にいましたが、彼らは今、ナポリで働いています。この公演のために劇場を探していたときに、すぐに「その公演をナポリでやりましょう」と言ってくれました。サン・カルロ劇場は、ヨーロッパで最古といわれる劇場です。1737年にできた300年近い歴史のある、とても美しい建造物で、ダンサーたちも喜んでいました。現地のバレエ団からも4人のダンサーが参加しました。

――出演したダンサーについてお話を聞かせていただけますか。

アレッシオ 参加したダンサーたちの間の雰囲気もとても良かったです。お互いに長年知り合い同士だったダンサーも多かったし、友だちの輪が広がっていました。

――いろいろな国からダンサーが集まりましたね。新型コロナのパンデミックという問題もありましたし、これだけ様々な国からダンサーが集まる公演も珍しかったのではないでしょうか。

アレッシオ このガラの出演者の中には、4人のキーウ(キエフ)・バレエ団から戦禍をのがれてやって来たダンサーがいました。
他にも、デニス&アナスタシア・マトヴィエンコはウクライナ出身なのですが、彼らはサンクトペテルブルクからヨーロッパにやってきました。ナポリについた時、彼らは2人の子供を連れて、たった8個のスーツケースだけを持って逃げて来たのです。どこに行って良いかもわからなくて、世界的に有名なバレエダンサーであるデニス・マトヴィエンコが「どこに住んだら良いと思う?」「子供たちはどこの学校に行かせたら良い?」と私に聞いてくるくらいでした。ダンス界のアイコンにもなりうる彼らが、そのような状態にあったのは衝撃的でした。
その他には、オルガ・スミルノワが強いインパクトを持つ象徴的な例だと思います。彼女曰く、すぐにロシアを出ることを決めたそうで、どの国で暮らしていくかを決めなければならなかった。ヴィクター・カイシェタもマリインスキー・バレエから、オルガと同じオランダ国立バレエ団バレエに移籍しました。他にも、ウィーン、ベルリン、ミラノ、ロンドン、ジュネーブなど各国からダンサーが集まりました。

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「ライモンダ」オルガ・スミルノワ、ヴィクター・カイシェタ
©Luca Vantuss

――ウクライナからの出演者はどのように過ごしていましたか。

アレッシオ ウクライナから来たダンサーたちは、今はマドリッドにいます。私はマドリッドにアパートを持っているので、この事態が起きたときに6人のダンサーをウクライナからそのアパートに呼びました。そして、ホアキン・デ・ルスに話をして、彼らがスペイン国立ダンス・カンパニー(ホアキン・デ・ルス芸術監督)でレッスンできるように頼み、一定の期間は私のアパートに泊まれるようにしました。その間に戦争が終わってくれれば良いと思っています。
彼らがマドリッドについた時、迎えに行ったのですが、それぞれが本当に小さなスーツケース1つだけで、シューズすら持っていなかったのです。キーウ(キエフ)の劇場からダンサーに向けて、危険すぎるから劇場に来ないようにと連絡があり、閉鎖されてしまったのだそうです。レオタードもシューズもなくマドリッドに着いた彼らを、周りのみんなが助け、レッスンが再開できるように必要なものを集めました。舞台に上がるとなれば当然、衣装も必要になるので、ナポリのガラ公演の際は、私がパリ・オペラ座からいくつか借りて来ました。彼らにとって、クラスが受けられるだけで幸せなのです。2週間以上にわたって、飛行機・車・電車・徒歩を続けて来たなんて、ほんとうに信じられません。この中の一人は、父親と兄弟が戦争に行っている、ここ数日連絡がなくて心配だと言いました。この2022年に耳にする話とは信じがたいものでした。このようなことを身近で感じて、何かしなくてはと思ったのです。
ウクライナは才能あるダンサーが多い国なので、全員助けようとしたら新しいカンパニーの設立が必要です! プロフェッショナルだけでなく、バレエ学校で学んでいた子供たちもたくさんいて、同じことが起きています。母親や親戚と一緒に避難していました。

――ウクライナのダンサーたちをみてどんなことを感じられましたか。

アレッシオ ウクライナのダンサーたちには、結束力があると思います。この6名のダンサーたちが私のアパートに来たのは、アナスタシアから「知り合いのダンサーがスペインに来たんだけれども、どこに行って良いかも、どこでクラスを受けられるのかもわからなくて、助けてくれない?」と言われたことから始まり、私がホアキン・デ・ルスと話した後、ホアキンは彼らに『ジゼル 』に向けた1ヶ月の契約をオファーしました。アナスタシアとデニスは、たくさんのダンサーに電話をして、助けようとしていました。こうして私も彼らのためにガラが企画できないかと思い至ったのです。
このようにして、ダンサー同士が助け合う姿を見てとても嬉しく思います。ダンサーのネットワークは、国境を超えて繋がって、1つの大きな家族と言えると思います。

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「瀕死の白鳥」アナスタシア・マトヴィエンコ
©Luca Vantuss

――プログラムを編成する上で、メッセージはありましたか。

アレッシオ もちろんダンサーによって違いますが、どのダンサーも共通してとても寛大な心を持っています。上演する演目は、個々のダンサーが100パーセントの力を出し切って踊れる作品を意識しました。舞台に立っているダンサーたちを見て、心身ともに100パーセントのパワーを出し切って踊りに注ぎ込んでいる姿が感じられ、大変に感動的でした。ウクライナのダンサーたちは、祖国や友だちのことを考えていたのでしょうし、より強い気持ちを持って舞台に立っていたと思います。私にとっては今までで一番心に残る公演となりました。

――ウクライナのダンサーとロシアのダンサーは、どのように一緒に過ごしていましたか。
アレッシオ 戦争が始まってすぐに、このガラのコンセプト(ロシアとウクライナの両国のダンサーを交えた公演)を思いつきました。一方で、日を追うごとに状況が悪くなったので、ウクライナ領事館がロシア人を見たくないと言ったことは理解できました。
参加したウクライナのダンサーたちも、一緒に舞台に立つロシアのダンサーたちが、平和のために踊るという目的をしっかり共有していることを求めていました。早々にロシアを出ると決めたオルガ・スミルノワが象徴的な例だというのは、この点においてです。ウクライナのダンサーたちは、そんな決断をしたオルガをガラに迎えることができて喜んでいました。

――ウクライナ出身・ロシア出身のパートナリングもありましたね。

アレッシオ はい。デニス・チェレヴィチコとマリア・ヤコレヴァは、ウィーン国立バレエ団から参加しました。デニスはウクライナ出身、マリアはロシアの出身です。彼らは『アザー・ダンス』をピアノの生演奏とともに踊りました。彼らがジャーナリストたちに話したことで印象的だったのは、2人がもう14年以上一緒に踊っていることの絆です。「お互いのことが好きだし尊敬しあっている。もちろんウクライナで起きていることは忘れてはなりませんし、忘れられません。重い気持ちが心の中にあると思います。でも舞台に上がると、何かが起こります。ダンスは愛と芸術なので、何も問題がなくてただただ美しいという理想の別世界へ連れて行ってくれます。これこそが、このガラのミッションだと思います。」ブラザー&シスターのような雰囲気を作り出すという野望はダンスを通じて叶うのだと思いました。
公演後の打ち上げのカクテルパーティでは、一緒に呑んで、たくさん笑って、たくさん話して、みんなが友だち同士であることを改めて痛感しました。そして、だからこそ今起きている問題が早くおさまってほしいと願うばかりです。

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「アザー・ダンス」マリア・ヤコレヴァ、デニス・チェレヴィチコ
©Luca Vantuss

――開催にあたって、どのような壁にぶつかりましたか。

アレッシオ 政治的な問題の解決も必要になり、大きな挑戦となりました。在伊ウクライナの領事館と話し合う必要が生じました。領事館は、ロシア人のダンサーが舞台に立ってほしくないと言いました。私自身が領事館と話して、「ここで踊るロシア人のダンサーは平和のために踊るのです。彼らは戦争ではなく平和を求めています」と伝えました。でもこの問題は非常にデリケートで、ものすごく長く話し合いました。最終的に公演は開催できましたが、本当に複雑な問題でした。ウクライナでは計り知れない苦しみが生じているので、ロシアのことを話したくない・ロシアという名前を目にしたくないという領事館の気持ちも理解します。でも、私は、アート・ダンス・カルチャーは政治とは違い、別次元の存在だと思います。ダンスを通じて、私たちはもっと良い世界をイメージできると思います。この想いから私はこのガラ公演を立ち上げたのです。

――公演のタイトルが途中で変わっていたと思います。これにも何か理由がありましたか。

アレッシオ もう一つの問題は、ガラ公演のタイトルです。ウクライナの文化庁は、Ballet for Peaceというタイトルを見て、「私たちは平和が欲しいのではなくて、勝利が欲しい」と言ったのです。本番の前日にです! 私は「タイトルを変えるから、私を応援してくれ」と交渉し、その結果、Stand with Ukraine Ballet for Peaceという公演タイトルになりました。私も大使館と一緒に歩んでいると証明するためにです。
交渉の中で私は「理解はする。でも、あなたにとっての勝利は、私にとっての平和。違う単語だけれども、戦争当事者ではない国イタリアに属する私にとってこの二つは同じ意味。あなたがたには勝利が必要なのだと察しますが、私の意図も理解してほしい」と言いました。一緒に進もうと歩み寄ったつもりでしたが、そう簡単には行きませんでした。ウクライナの人々がどのような状況に置かれているか想像に及びませんので、誰かを批判するのではなく、いろんな視点を持つ人の話に耳を傾けることを大切にしました。だから同じように、私の考えや、ウクライナのために何かしようとしている私の意図も尊重してほしいと願っていました。ベストの形ではないかもしれないけれど、このガラの実現が私の表現方法でした。

ほかには、劇場の前でもデモがあったのです。一部では報道されましたが、数人のウクライナ人の方々が、ウクライナ人はロシア人と踊るべきではないと主張していました。私は彼らとも連絡をとり、「4人のキーウ(キエフ)のダンサーは理解したうえで参加しているし、出演者はみんな舞台のうえでは友だちだ。国籍は関係なく、ひとつの目的に向かっている」と伝えました。
ダンスは政治ではありませんが、ダンサーたちも非常にセンシティブな活動の場であることを認識していました。このガラをやろうと思ったときには思ってもいないことが起きました。1ヶ月の準備期間で、ものすごく繊細な問題の渦中に飛び込んだことに気付かされ、まるで政治家のような日々でした。

――本当にたくさんの困難に立ち向かわれて成立した公演だったのですね。

アレッシオ もうひとつ大変だったのは、このガラのための資金集め(ナポリにダンサーたちを連れてくる旅費や滞在中の費用の調達)です。ひとり、またひとりと、寄付してくれる人から連絡が来る度に、「よし、このダンサーのフライトが賄える、次はこのダンサーのホテルが用意できる」という具合に進んでいきました。このように進めるのは初めてでした。最悪の場合、お金が集まらなかったら両親に頼んで借りることを考えていました・・・。
少しずつでもダンサーたちに出演料は渡したかったし、特にウクライナに家族がいるダンサーにはギャランティを出したかったのです。でもダンサーたちは、「私の出演料はいらないので、ウクライナに送って」と言ってくれました。

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「Echoes of life」シルヴィア・アッツオーニ、アレクサンドル・リアブコ
©Luca Vantuss

――想像を超える事態でしたね・・・。

アレッシオ このガラが終わってから数日後に、ウクライナ人ダンサーがロシアのダンサーと一緒に踊ることが禁じられました。ロシア人が作曲した曲で踊ることも禁止。チャイコフスキーの音楽が使えないということです。ロシアの振付家の作品も禁止です。想像できますか? ただ、文化庁が言うには、戦争中は相手国を連想させることを排除しなければいけないそうです。
実は私のガラの3日後の4月7日に、ミラノのアルチンボルディ劇場で別のウクライナのためのファンドレイジング・ガラがありました。ジャコポ・テッシやウクライナ出身で言えばヤーナ・サレンコが出演予定でした。私のガラの出演者も数人そちらにも行ったのですが、そのガラではすべてのロシアのダンサーの出演を取り下げました。本番のたった3日前に断ったのです。いくら彼ら自身が平和を願う立場にあっても、舞台に立つことが許されなかったのです。どれだけの苦しみか、想像することは難しいでしょう。こういった連想(による差しどめ)は止めるべきだと思います。
私自身のガラはギリギリで実現できたのでよかったのですが、ロシアのダンサーとウクライナのダンサーが共存できないなんて、本当に信じられないです。あのマリウス・プティパでさえ、彼自身はフランス出身のはずなのに、ロシアで長いキャリアを築いたからと言って禁止の対象にされました。『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』すべてダメです。また、プロコフィエフが使えないので『ロミオとジュリエット』が上演できません。

――信じられません・・・非常にデリケートな状況下での公演で1番大切にしたことは何ですか。

アレッシオ ダンサーとのコミュニケーションを大事にしました。毎日話しかけて、特にキーウ(キエフ)から来たダンサーには心配りを意識しました。私は彼らの無事と、彼らが戦争が終わったらキーウ(キエフ)・オペラ劇場で安全に踊れることを願っています。
4人のキーウ(キエフ)・バレエ団から来たダンサーがロシア人ダンサーと踊ることについて、ウクライナ政府は良く思っていませんでした。ですから私は、ウクライナの文化庁に手紙を書いて、「私のガラは既に決まっていたし、キャンセルできない。ウクライナへ支援金を集めるために、この公演は実行することに意味がある」「このダンサーたちはとても美しいことをしている。彼らはウクライナのために踊っている。なので、彼らのことを責めないでくれ」と伝えました。こうしてテンションは下がって事態をおさめることができましたが、それぞれの政府からの情報やSNSもチェックして、とにかく最新情報に気を張っていました。とても興味深い経験、と言うべきでしょうね・・・今までにこんな経験をしたことありません。
いつも緊張感と隣り合わせでした。キーウ(キエフ)から来た若いダンサーたちは特にトラブルに巻き込まれてほしくなかった。あるダンサーは「いつかはウクライナに戻りたい。もしかしたら、入国するのを拒否されるかもしれない。でも、いつかお母さんに会いたい」なんて言うんです。彼らはとても怖がっていました。私はこのガラについて責任があったので、彼らに「当局にも説明するから」と言い聞かせていました。もう私のことが嫌いになっちゃったかもしれないですね(苦笑) 。それでも彼らは「私たちはこのガラを中止するべきではない。あなたが腹を括ってやっているんだから私たちも踊る」と言っていました。ものの見方は様々であることは分かっていますが、私も「私たちはみんなウクライナを思っているから」とそのように伝えていました。

――このガラ公演の直前には、アレッシオさんがプロデュースを続けているパリ・オペラ座のダンサーによる公演もありましたね。

アレッシオ ナポリのガラ公演の2週間前には、Les Italiens de l'Opera(パリ・オペラ座のイタリア人たち)の公演もありました。5月にはミラノ公演もあります。いつもパリ・オペラ座のダンサーを中心に構成していますが、ミラノ公演ではキーウ(キエフ)・バレエ団から2人のダンサーを加えることにしました。彼らに舞台に立つ機会を与えたかったのです。
同時に、これはとても良い交流になると思います。キーウ(キエフ)にはとても良い学校があって、教えられているテクニックは非常に質が高いです。パリ・オペラ座のダンサーにとって、キーウ(キエフ)のダンサーを間近で見ることは、とても興味深いと思います。

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アレッシオ・カルボーネ © Ula Blocksage

――パリ・オペラ座バレエを引退されてから、今までどのようにお過ごしでしたか。

アレッシオ 公演があるたびに外国に出かけますが、パンデミックの間にイタリアに移りました。朝はバーレッスンをするようにしています。40年間も続けているので、引退してもバーくらいは動かないと、自分ではないみたいになってしまうので(笑)。他のダンサーの公演も観に行くようにするなど、オーガナイザーの立場になっても変わらずダンス界の一員でいられるように過ごしています。

――これからどのような活動を予定されていますか。

アレッシオ 私自身、どの方向に向かって活動しているのか分からなくなってしまったのですが (笑) 。劇場からの希望に合わせて、そのテーマに合ったダンサーを集めて公演を作っています。とにかく、早くコロナがおさまって、戦争が終わってくれることを願っています。そして、ここ数年で実現できなかった企画を上演したいです。
コロナのパンデミックが落ち着きはじめ、劇場も次第に活発に運営を再開したので、これからは忙しくなりそうです。私は今イタリアを拠点にしているので、イタリアの劇場やフェスティバルからの依頼が中心ですが、夏にはニューカレドニアでも公演の予定があったり、スペインのマヨルカ島で始まるフェスティバルからも声をかけていただき、公演とマスタークラスを計画しています。いろいろな人からお話をもらって、たくさんの機会に恵まれて、とても幸せです。
こうしていると、私の父のことを思い返します。私の父(Giuseppe Carbone)はミラノ・スカラ座バレエ団の芸術監督でした。彼は84歳になりましたが、毎日クラスを教えています。ダンスは情熱なのだと思います。だからやめられないのです。私の両親に電話で話そうとしても「ごめん、今クラス中なの」と切られてしまうこともよくあります(笑)。そして、私の姉(Beatrice Carbone/ベアトリス・カルボーネ/ミラノ・スカラ座バレエ)はもうすぐ引退になると思いますが、指導するのも好きなので彼女のダンス人生ももっと続くでしょう。そして、私の兄はフラメンコのダンサーです。ということで、私の家族はダンスファミリーなのです。私の子供たちがどうなるか、これから楽しみです。自宅で音楽を流して、ゲーム感覚でインプロをさせたりしていますが、彼らがダンスをして第3世代となるのか、勧めるべきか、そっとしておくべきか難しいですね。

――お子さんたちもバレエに興味を持っていますか。

アレッシオ このガラの準備をする時、私が夜中まで電話をし続けていたので、子供たちからも「どうしてそんなに1日中電話しているの?」と聞かれました。なので「ナポリに来て、公演を観においで。そうしたら何を電話していたのかわかるから」と伝えました。公演を見た子供たちは喜んでいました。音楽に活気があって、スピード感のあるダイナミックな作品が気に入ったようでした。

――本日は興味深いお話をありがとうございました。アレッシオさんのこれからのご活躍を楽しみにしております。

アレッシオ ありがとうございます。これから何が起きるかわからない。カンパニーのディレクターにも興味はあるし、そういったオーガナイズの仕事は好きです。プロジェクトごとに旅をしてショーを作っていくのも好きです。日本に行ける日を楽しみにしています。日本はバレエに対する愛情の深い国ですし、私の子供たちにも、違った文化をみて、地球の別の場所ではどんなことが起きているか見せてあげたいです。

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