米沢唯のマノン、井澤駿のデ・グリュー、渡邊峻郁のレスコーほか新国立劇場バレエ団のダンサーが素晴らしい、マクミラン振付『マノン』
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関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi
新国立劇場バレエ団
『マノン』ケネス・マクミラン:振付
ケネス・マクミラン台本・振付『マノン』(全3幕)は、ジュール・マスネの音楽をリートン・ルーカスとヒルダ・ゴーントが編曲(今回公演は指揮したマーティン・イエーツの編曲による)、ニコラス・ジョージアディスの美術(今回公演ではオリジナルの衣装と装置を使用)、ジョン・B・リードの照明により、1974年、英国ロイヤル・バレエ団(芸術監督マクミラン)によりコヴェントガーデンで初演された。アントワネット・シブリー、アンソニー・ダウエル、ディヴィッド・ウォール、デレク・レンチャー、モニカ・メイスン他が出演した。マクミランは1965年に『ロミオとジュリエット』(全3幕)を振付けており、それからおよそ10年後の全幕振付ということになる。(1971年には『アナスタシア』3幕版を振付けている)
マクミランのバレエ『マノン』は、アベ・プレヴォが著し、1731年に出版された『シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの物語』(「貴人の手記」の七冊目)が原作となっている。しかし、ニコラス・ジョージアディスの美術は、時代背景を少しずらし、聖職者と貴族が特権を有し、人口のほとんどを占める平民が重税と不平等に苦しむフランス革命(1789年)前のアンシャン・レジームの時代を思わせ、上流階級の華美で駘蕩的な生活が見られる一方、苛烈な貧困が蔓延するという激しい分断の相を際立たせている。

米沢唯、井澤駿 撮影/鹿摩隆司
私が観た新国立劇場バレエ団公演では、マノンは米沢唯、デ・グリューは井澤駿、レスコーは渡邊峻郁、レスコーの愛人は木村優里、ムッシューG.M.は中家正博、娼家のマダムは関優奈、看守は小柴富久修、物乞いのリーダーは石山蓮だった。米沢唯、渡邊峻郁、木村優里、中家正博は2020年の再演で同じ役を踊っている。
開幕は、暗闇の中、マノン・レスコーが黒いマントを纏って舞台中央に座り込み、じっと身に迫ってくる何かに対して思案を巡らせているシーン。これは、『ロミオとジュリエット』でジュリエットが、一度は仮死となって後に蘇る薬を飲む、という生死を賭けた決断を下す時、じっとベッドに掛けて運命に逆らおうとしているシーン。あるいは『アナスタシア』で、ロシア皇帝の皇女アナスタシアと名乗る女性が、病院のがらんどうの一室のベッド上に呆然と佇んでいるシーンなどと同様に、映画のクローズアップを思わせる手法を使った演出である。
やがて舞台が明るくなると、さまざまな階層の人々が行き交うパリ近郊の宿屋の中庭。背景には大きなボロ布が何枚も垂らされ、汚れた衣裳を着けた物乞いのグループが跳梁跋扈し、スリやかっぱらいが横行し、屯する娼婦たちが白昼に平然と取引されている、といった猥雑を極める情景がリアルに動き出す。
『マノン』を語る時、「あの時代の貧困は、長くゆっくりとした死に等しい」というマクミランの言葉がしばしば引用される。マクミラン自身、大恐慌が起きた1929年にスコットランドの貧しい家庭に生まれ、第二次世界大戦下の非常に厳しい時代を生きており、幼い頃からいわゆる「月明かりの脱出」などを経験して、「貧困」がどのようなものであるのかを身をもって知っていた。そして舞踊家としては、バレエは十九世紀の宮廷文化の中で確立されたのだが、二十世紀のバレエは人間の生活の真実を反映すべきだ、という信念を持っていた。『マノン』は、マクミランのバレエへの信念を込めた表現を強化するために、分断が極まった時代を設定としているのである。

渡邊峻郁 撮影/鹿摩隆司

木村優里、渡邊峻郁 撮影/鹿摩隆司
主要な舞踊シーンは、1幕では、修道院に向かうマノンに魅了された神学生デ・グリューのヴァリエーション、続いてマノンとデ・グリューの出会いのパ・ド・ドゥ。2幕はマノンとデ・グリューの愛のパ・ド・ドゥ、ムッシューG.M.とマノンとレスコーのパ・ド・トロワ、そしてレスコーの酔っ払いのヴァリエーションと愛人とのパ・ド・ドゥ、マノンを男たちが次々とリフトして運ぶ踊り、デ・グリューがマノンに戻るように迫るヴァリエーション、マノンとデ・グリューの愛の復活のパ・ド・ドゥ、ルイジアナの沼地のデ・グリューと息も絶え絶えのマノンのパ・ド・ドゥなどである。
『ロミオとジュリエット』では、三つのパ・ド・ドゥを中心においた比較的シンプルな舞踊構成により、青春の愛と死というテーマを表現している。しかし『マノン』では、「貧困」という社会性のあるモティーフをとりあげているために、パ・ド・ドゥを物語の要所に配しつつ、置かれている状況と登場人物の葛藤を表す独自の舞踊シーンを挿入しており、少し複雑な構成になっている。
冒頭から登場して物語を動かしていたレスコーは、妹のマノンをムッシューG.M.に斡旋して大金をせしめ、2幕ではマノンとムッシューG.M.と欲望の三重奏ともいうべきコミカルなパ・ド・トロワを踊る。さらに高級娼家のパーティには愛人を伴って現れ、酔っ払って荒れ狂い、ぶっ倒れたかと思うとまた立ち上がり、七転八倒して静まらせようとする愛人を邪険に扱って顰蹙を買う。ところが計算だけはしたたかに働かせており、妹のマノンがデ・グリューとの愛を取り戻したいと持ちかけると、ムッシューG.M.にイカサマのカードゲームを仕掛けて大金を巻き上げようと仕組む、といった無謀で破滅的な人物として描かれている。この人物は原作には登場していない。原作者のアベ・プレボー自身も波乱に富んだ人生を送った人だが、マクミランは原作の破天荒な部分をレスコーに集約して現しているのだろう。なかなか巧みな台本つくりである。
レスコー役の渡邊峻郁は圧巻の踊りだった。渡邊の骨格のはっきりした踊りは、ちょっと硬い感じがしないでもないが、ここでは返ってそれが力強いエネルギーとなって跳ね返り、可愛い妹を大金持ちに売り渡して上前をはねたりする自分を、内心では強く否定しているのだが、時代に拘束されて身動き取れなくなっているアンヴィバレンツな自分への激しい怒りを込めた演舞だった。このレスコーの鮮烈な存在感が『マノン』の印象を一段と強く深いものとしていることは間違いない。レスコーの愛人役を踊った木村優里はムッシューG.M.に売り込まれても受け流し、荒れ狂うレスコーをあしらいながら支え、酔った乱暴をも包み込んでしまう表現をうまくまとめていた。

米沢唯、井澤駿 撮影/鹿摩隆司
そして今回の舞台で、最も印象的だったのはマノンを踊った米沢唯。全身を見事に脱力した身体の美しさばかりでなく、2幕では初めての夜を過ごしたばかりの恋人の留守に訪れたムッシューG.M.に、眩いばかりの豪華絢爛のコートを肩に掛けられた時、全身で歓喜を表した演技は小さな動きだったが、客席で思わず「あっ」と声をあげそうになったほど真実味があった。限りなく美しくあろうとする女性の存在の本質を、刹那的に顕現させた秀逸な表現だった。かつてパリ・オペラ座バレエが来日公演で『マノン』を上演した際に、ミリアム・ウールド=ブラームが同じ場面で見せた演技が、今も心に残っていたのだが、それにも勝るとも決して劣らない見事な表現で、このバレエを生きた人物の真実を、実に見事にピンポイントで表していた。また、兄のレスコーとは血のつながりを感じさせる濃密な関係を表し、デ・グリューとは逆に淡白とも見える関わりを描いていたが、私はそこに説得力あるリアリティを感じ、たいへん感心させられた。
デ・グリュー役は派手な立ち回りを見せるレスコーに喰われてしまうのではないか、とも思っていたが、井澤駿が表した一途さは胸を打った。前回の再演の際にはキャスティングされていながらコロナ禍のために公演が中止になり、踊れなかったこともあり、満を持しての舞台だったと思われる。マノンへの想いも単純な一方的なものではなく、全身で存在の全てを賭けて訴えかけているのがよく分かった。また、ムッシューG.M.のもとから戻ったマノンとの愛の復活のパ・ド・ドゥでも、宝石をあしらった豪華なブレスレッドに目を落とし、二人の愛の遍歴に感慨を覚えているようにも見え、人物像を彫琢していた。時代の分断を一人の真面目な神学生が懸命に支えている、井澤駿のデ・グリューは、そんな印象を残す存在感を見せていた。

米沢-唯、中家正博 撮影/鹿摩隆司

米沢唯、井澤駿 撮影/鹿摩隆司
『マノン』のマクミランの振付は、マスネーの「エレジー」などをさまざまな曲を組み合わせて使っているが、非常によく練られている。<シームレス>とも言われるように、身体をしっかりと密着させたり、フロアーに腰を下ろしたり、寝そべったり、装飾的な動きを廃して登場人物の身体の動きを自在に造形し、感情をスムーズに浮かび上がらせている。3幕の沼地のパ・ド・ドゥでは、身体の重さを感じさせて生の実感を共有し、死の悲劇性をいっそう高めるなど、ドラマティックな表現を、巧みにマスネーの音楽にのせており、クラシック・バレエの表現として斬新な音楽と身体を関係を築くことに成功している。それが今日の観客の胸に響き、世界中のオペラハウスで再演され続けている理由でもあろう。今回公演のステージングは、日本でデ・グリュー、レスコー役を踊った経験のあるロバート・テューズリー。
『マノン』の音楽は、周知のようにマスネーのオペラ『マノン』の曲を使用せず、他のオペラや楽曲から編曲されている。ジョン・クランコも1965年に『オネーギン』をチャイコフスキーの同名のオペラの音楽以外の曲を編曲して振付けている。これは当時のオペラとバレエに対する伝統的な認識、あるいは著作権などの種々の問題もあったようであるが、やはり、歌唱を中心とするオペラと身体表現によるバレエでは、音楽への対処の仕方が異なる、ということが要因だったのであろう。
英国ロイヤル・バレエは、2011年に当時の芸術監督モニカ・メイスンにより、『マノン』を再演する際に、マーティン・イエーツが新たに編曲し、美術もピーター・ファーマーに替え、3幕の1部のシーンなどをカットして演出を刷新している。
(2026年3月20日ソワレ 新国立劇場 オペラパレス)
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