生と死の対比が鮮やかに浮かび上がったNoismならではの『アルルの女』『ボレロ―天が落ちるその前に』
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ワールドレポート/東京
香月 圭 text by Kei Kazuki
Noism0+Noism1『アルルの女』『ボレロ―天が落ちるその前に』
演出振付:金森 穣
『アルルの女』左より兼述育見、太田菜月、糸川祐希、井関佐和子、山田勇気 撮影:松橋晶子
設立から21年目のシーズンを迎えたNoism Company Niigataの夏公演『アルルの女』/『ボレロ』を観た。今年はビゼー没後150年、ラヴェル生誕150年というメモリアルイヤーにあたり、「生」と「死」の対比が鮮やかに浮かび上がるプログラムだった。
ビゼーの『アルルの女』の音楽は、コンサートで頻繁に演奏される組曲版がよく知られるが、演出振付の金森穣はA.ドーデの戯曲に基いたビゼーによる劇付随音楽を見出し、オリジナルの戯曲も参照しつつ舞踊化に取り組んだ。南仏の町、アルルで暮らす母ローズ(井関佐和子)は長男フレデリ(糸川祐希)を溺愛している。冒頭、フレデリは黒髪のアルルの女の腕に絡め取られている。黒髪は実は鬘で、それが床に落ちると、不敵な笑みを浮かべた母ローズの姿があらわになる。息子が母親に支配されていることを端的に示す一方で、アルルの女への思慕に囚われているフレデリの様子も示している。息子の人生を支配する毒母ローズという難役を、井関は力み過ぎることなく的確に演じた。
フレデリには弟ジャネ(太田菜月)がいるが、家族からは「ばか」と呼ばれており、ローズもはこの次男には愛情のひとかけらも示さない。ジャネは膝を深く曲げて低い姿勢でぜんまい人形のように細かい足取りで家族の間を歩き回り、無垢な表情でローズの興味を引こうとしている。この家族の一員ではあるが、世間体が重視される社会の枠からはみ出た存在で、純粋な家族の繋がりを求めるジャネ役を太田が好演した。
ローラン・プティの『アルルの女』ではフレデリとヴィヴェットが中心に描かれるが、金森版ではドーデの戯曲と同じくフレデリの母ローズやジャネを登場させ、ドラマに欠かせない存在として描いている。
ローズの父、常長(山田勇気)は日本からの移民という設定である。フレデリはローズが薦める許嫁ヴィヴェット(兼述育見)との結婚話については及び腰になっている。兼述の清楚な風情がこの役に合っていた。村人は二人の婚約の成就を期待し、見守っている。彼らが横一列で南欧の民族舞踊調のステップを踏む様は一様に揃っていて、男女の区別がつかないほどだった。
舞台最前方には灼熱の太陽を思わせるオレンジ色のフレームが置かれ、中小サイズのものも天井から降りて来たり、村人達が黒子としてが舞台袖から中央へ運び入れたりする。これらの額縁の中にローズの一家が入ると、家族という括りが意識され、村人たちをフレームに収めると、村という共同体が強調される。また、枠内で繰り広げられる舞踊劇の動きは時々静止した。例えば、テーブルに家族と村人たちが集った場面は名画「最後の晩餐」のような雰囲気になった。
ある日、フレデリの元に一通の手紙が届き、アルルの女には恋人がいることが明らかになる。背後のスクリーンにはアルルの女とその恋人の影が映し出される。また、アルルの女を装った多くの黒髪の女性たちが現れ、どれが本物のアルルの女なのか、フレデリの妄想をさらに撹乱し、彼女の存在が曖昧となる。
フレデリとヴィヴェットの結婚式の新郎新婦と家族の表情は、幸福感からは程遠い。フレデリはアルルの女への思慕を抱えたままで、魂が抜けたようだった。彼をずっと慕い続けてきたヴィヴェットは、彼の心が自分に向き合っていないのを見るや、心の糸がプツンと切れたかのように舞台前方へ落ちてしまった。常長もまた、故郷から遠く離れたこの町で生涯を終えたが、家族の今後を案じていたのではないか。常長の幻想なのか、ファランドールの心はやる音楽に、木刀となぎなたを手にした村人たちの武道の所作を合わせたシーンには、和の要素を尊ぶNoismならではの面白さがあった。アルルの女に失恋したフレデリは、天井から降る花嵐のなかを疾走し、ローズの静止もむなしく落命。糸川の狂気の舞が鮮烈だった。最愛の息子を亡くしたローズもフレデリの後を追い、ジャネだけが一人残される。死を強調したラストの壮絶さのためか、この日の客席はカーテンコールが始まるまで静まりかえっていた。
『アルルの女』撮影:松橋晶子
『アルルの女』左より兼述育見、井関佐和子、糸川祐希 撮影:松橋晶子
『アルルの女』糸川祐希、井関佐和子 撮影:松橋晶子
『アルルの女』左より糸川祐希、井関佐和子、太田菜月 撮影:松橋晶子
『ボレロ』は、りゅーとぴあジルベスター・コンサート2023で初演された作品だ。今回は新演出の劇場版として「天が落ちるその前に」という副題が添えられた。刻々と移り変わる国内外の情勢や地震の脅威など、将来についての憂慮の種は尽きないが、自分たちにできることは、今、この瞬間を懸命に生き抜くことである、と金森は説く。それは瞬間の芸術である舞踊を志す者の生き様とも重なる。
最初に赤いワンピース姿の井関の腕が自身の身体をなぞり、徐々に外側に広がっていく。周囲の演者たちは「Fratres」シリーズの黒い衣裳を纏った僧侶のように頭部まで隠して待機している。井関のエネルギーが少しずつ彼らに伝播していき、彼らの動きも次第に熱を帯びていく。やがて黒い衣裳を脱ぎ捨てて身軽になった彼らは、表情も晴れやかに、今この場で踊ることに没頭していく。金森の師ベジャールの版では、赤い円卓に乗ったメロディ役のダンサーが磁石のようにリズム隊を引き寄せるのに対し、このヴァージョンでは、周囲のダンサーが最初から井関と志を同じくする結束された仲間である印象だ。中央の井関のほかに左右にも群舞が分かれて3集団になったりするなど、隊形も変化していった。間奏でかかとを浮かせてリズムを取る様は、地球の鼓動を連想させた。地球内部に溜まった火山の母体のマグマが周囲に新たな噴火口を設けて爆発するかのようだった。
『アルルの女』で「生」と隣り合わせに潜む「死」を目撃したあと『ボレロ―天が落ちるその前に』では舞踊家たちが一瞬一瞬の表現に賭ける力強い「生」を目の当りにして、観客にも生きようとするエネルギーが届いたのではないか。そう思わせる夕べだった。
(2025年7月12日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)
『ボレロ―天が落ちるその前に』井関佐和子 撮影:松橋晶子
『ボレロ―天が落ちるその前に』井関佐和子(中央)撮影:松橋晶子
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