一瞬を紡いでいく舞踊への献身と人生が巡る循環、Noism 20周年記念公演「Amomentof」

ワールドレポート/東京

香月 圭 text by Kei Kazuki

Noism Company Niigata 20周年記念公演「Amomentof」

『Amomentof』金森穣:演出振付『セレネ、あるいは黄昏の歌』金森穣:演出振付

2004年にりゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館の専属舞踊団として出発したNoism Company Niigataの20周年記念公演「Amomentof」が6月28日~6月30本拠地の新潟と7月26日~7月28日埼玉で行われ、筆者は埼玉公演の初日を観ることができた。
1演目目はNoism0+Noism1+Noism2の25名総出演の『Amomentof』。「一瞬の」という英語句のスペースを縮めて繋げた造語だ。舞踊は「一瞬」への献身である、という金森穣の認識である。Noismの活動を進めるために闘い続けた20年という歳月が、彼らにとって一瞬のことのように感じられたという実感も込められているという。

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『Amomentof』撮影・松橋晶子

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『Amomentof』撮影・松橋晶子

舞台にはバレエのレッスンで使われるバーが左右に並べられており、中央部で井関佐和子がウォームアップしている。そして次々に団員たちも現れて、バーについて身体をほぐし始める。井関が手を指し伸ばすと、マーラーの交響曲第3番第6楽章「愛が私に語りかけること」が流れ始め、彼女が舞踊家として過ごしてきた日々が現れては消えていく。ベジャールやノイマイヤーも用いた、マーラーの高揚していく旋律は、観客をドラマチックな追想の旅に誘う。
井関は彼女を取り巻く仲間とともに、心をひとつにして踊る。ダンサーたちの身体性はそれぞれ異なるものの、寸分の狂いのないユニゾンの群舞からは、志を同じくする集団Noismが日々行う鍛錬の成果が結実している。
金森穣と井関の息の合ったデュエットは、人生をともに歩むことへの決意と互いへの信頼が感じられるものだった。仲間との訣別の場面もあり、井関の周りからダンサーたちが潮が引くように去っていった。だが、次のフェーズでは有望な若者たちが現れる。袂を分かった友が彼女のそばから離れてしまった悲しみを乗り越えると、彼女は新しい才能を見出し、期待に胸が膨らませながら、彼らと踊る喜びを分かち合うかのようだった。男性ダンサーたちは彼女の手を取り、ともにデュエットを踊る。無心に踊る後輩の成長を温かく見守る井関の眼差しが温かい。自らの舞踊人生の蓄積を次世代に引き継いでいこうとする決意が垣間見える。

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『Amomentof』撮影・松橋晶子

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『Amomentof』撮影・松橋晶子

後半、Noismが上演してきた作品の衣装をまとったダンサーたちが井関の眼前に登場したとき、観客は思わず息を呑んだ。舞台上方には、歴代の作品ポスターが一斉に掲げられ、圧巻のハイライト・シーンとなった。Noismを象徴する舞踊家として20年、井関は金森とともに止まることなく歩んできたが、時には感情の起伏を表に出すことを控えたこともあったかもしれない。長年、封印されてきた数多の感情を爆発させるかのように、全身で叫ぶ彼女の姿には、心に迫るものがあった。
そして最後に再び、団員全員によるバーレッスンの風景が現れる。一瞬で儚く消えていく舞踊という芸術に捧げる舞踊家たちは、ひとつの舞台が終わると、その翌日には、何事もなかったように、昔から続けてきた稽古に戻っていく。厳しくも尊い舞踊家の生き様が、見事に描かれていた。

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『セレネ、あるいは黄昏の歌』撮影・松橋晶子

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『セレネ、あるいは黄昏の歌』撮影・松橋晶子

2演目目はNoism0+Noism1による『セレネ、あるいは黄昏の歌』。金森は、ギリシャ神話に登場する月の女神セレネを中心とした集団が、季節が変わる度に儀式を行う集団をイメージした。杖を手にした井関を先頭に、白装束の集団が列をなして登場する。音楽は、マックス・リヒター編曲によるヴィヴァルディの「四季」。
円形に並んだダンサーの1人に向かってセレネが杖を振ると、その者が目覚め、次々と生命が芽生える。鳥のさえずりなどが聞こえる春に生を謳歌する若者たちによる踊りからは、エネルギーが溢れていた。そのうち、女性を押し倒して自らの欲望を満たそうと暴走する若者が現れるが、周囲の者から成敗される。一方で、動物のように四つん這いになり、頭を寄せ合い睦み合う男女(井関佐和子、山田勇気)の姿もあり、自然界の一部としての人間の生の営みも描かれる。老いていく者(山田)、彼のそばに寄り添う朗らかな若者たちの姿。老人は彼らと別れ、ひとり取り残される。季節は巡り、生命が循環する。四季を司るセレネは、翻弄される人間たちを超然と見つめ続ける。
井関の凛とした佇まいには、舞踊家としての揺るぎない自信に満ち、人間を超越しているような説得力があった。若手ダンサーたちの成長も目覚ましい。彼らは空に向かって力強く飛翔し、大地を強く踏みしめ、自然の力に翻弄される人間の生命力を全身で表現した。目には見えない大いなる自然の力によって、人間も生かされているということが視覚化され、人と自然との対比がくっきりと浮かび上がった作品だった。
(2024年7月26日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)
注)舞台写真は新潟公演のものです。

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『セレネ、あるいは黄昏の歌』撮影・松橋晶子

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『セレネ、あるいは黄昏の歌』撮影・松橋晶子

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