米沢唯が主演する『Rain』、演出・振付の鈴木竜に開幕直前インタビュー

ワールドレポート/東京

インタビュー=坂口香野

今年3月に愛知県芸術劇場で初演され、大きな反響を呼んだ愛知県芸術劇場×DaBYダンスプロジェクト『Rain』が、8月4日、東京の新国立劇場小劇場を皮切りに、愛知、福岡の3都市で上演される。振付家の鈴木竜、現代美術作家の大巻伸嗣、サウンドアーティストのevalaら、ジャンルを超えたアーティストたちがつくりあげた舞台だ。
原作は、短編小説の傑作といわれるサマセット・モームの『雨』。感染症のため、医師、宣教師夫妻、娼婦が雨の降り続く南の島に閉じ込められる。宣教師は娼婦を悔い改めさせようと試みるが......。娼婦のミス・トムソン役は、新国立劇場プリンシパルの米沢唯。
演出・振付の鈴木竜に、作品のみどころについて聞いた。

――『雨』のダンス作品化は、そもそもDaBY(Dance Base Yokohama)マネージングディレクター・勝見博光さんのアイデアだったとうかがいました。鈴木さんは原作を読んだ時、どのようにお感じになりましたか。

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鈴木竜 © Takayuki Abe

鈴木 100年ほど前に書かれたとは思えないくらい、現在の私たちが感じている抑圧や息苦しさ、生きづらさが表現された小説だなと思いました。今、この時代に自分がダンス作品にする必然性があると感じました。そういう作品って、そんなに多くはないんですよね。

――たしかに「息苦しさ」を感じるお話ですね。たとえば宣教師のデイヴィドソン夫妻は、過剰なまで布教に情熱を燃やす人たちでものすごく"圧"が強い。娼婦のミス・トムソンは、逆にどこまでも奔放な人物。語り手である医師は、宣教師に対し「そこまでやらなくても」と思ったり、トムソンに少し同情したりと、読者に近い目線にいる。全く価値観の違う人たちが、同じ家に何日も閉じ込められて、そこに雨が降り続いているという......。
ダンスに向いていると思われたのは、たとえばどういうところでしょうか。

鈴木 「そこにどういう身体性を見出すのか」ということが、ダンス作品にする上で大切だと思います。身体に注目せざるをえない状況を、どうやってつくっていくか。
それはたとえば、坂道に立っている感覚です。下りに向かって力が働いているから、その力に従って転がっていくのか抗うのかという選択肢も生まれる。『雨』の場合は、キャラクターたちの置かれた状況がいわば「坂道」です。それにどう対していくかが、ダンスになると思っています。「密室」状態の中、屋根を打ち付ける激しい雨音をずっと聞かされている。あるいは、身体がびしょびしょに濡れてしまって気持ちが悪いとか。この小説にはそのような、身体で表現するのに適したエネルギーが充満しています。

――蚊がわんわんいたりとか......。

鈴木 居心地の悪い状況しか出てこない。居てもたってもいられないと、身体は動かざるをえないんですよね。

――小説では、娼婦のトムソンが爆音でレコードをかけて男たちとダンスをするのを、宣教師がやめさせようとするシーンも印象的でした。

鈴木 宣教師夫妻は「ダンスは不道徳だ、撲滅する」と言っています。そういうキャラクターをダンスで表現してしまうというのも、皮肉だなあと僕は思っているんですけれど(笑)。

――先日、DaBYアーティスティックディレクターの唐津さんが、『マノン』を踊る米沢唯さんを観てトムソンにぴったりだと思ったのが、今回の舞台化に至るひとつのきっかけだと、オンライントークで語られていました。感染症の蔓延を背景にした原作の世界観、唯さんというダンサー、そして体感的な作品づくりをされるアーティストの大巻伸嗣さん。それらのピースがひとつに集まって作品が動き出したと。実際のクリエイションは、どのように進んだのでしょうか。

鈴木 2021年の5月頃から、唐津さんや勝見さん、唯さん、大巻さんやリサーチの丹羽青人さんたちそれぞれと一緒に「本読み」を始めました。その時は一晩ものにするかどうかも決まっていなくて、みんなから出てきたアイデアは無数にありました。たしか僕が最初に提案したのは、唯さんのソロがいいんじゃないかということ。トムソンすら出てこない抽象的な作品にする案も、作者のモームにフォーカスする、あるいはトムソンと宣教師の妻の2人に焦点を当てる案もありました。トムソンと宣教師の妻は、『白鳥の湖』でいえばオデットとオディールみたいに、表裏一体の関係だと思っています。オデットじゃなくて、どっちもオディールみたいなものかもしれませんけど。
僕は物語を伝えるために作品をつくっているわけではないので、演劇的ではあっても、説明的ではありたくないと思っています。説明してわかってもらうことが目的なら、ダンスほど適していない表現方法はありませんから。
トムソンを唯さんがやることになるだろうなとはぼんやり思っていたのですが、最初から決めてかかるのはもったいない気がして。時間をかけて発想を広げ、立ち現れてきたものを観察して筋を通す作業をしていきました。非常に贅沢な経験だったと思います。今回の作品は、トムソンを唯さん、宣教師デイヴィドソンの役割を中川賢さんが担い、2人の間に起こることを6人のダンサーたちが表現していくというつくりになっています。
原作を読んでいると、僕自身が男性であるせいか、医師やデイヴィドソンの気持ちはわかっても、トムソンは何を考えているのか全然わからないんですね。6人のダンサーは、デイヴィドソンの内面や意志の力の象徴のように動きます。トムソンという存在が侵入してくることによって、それがどう変わっていくのか。

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© Naoshi HATORI

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――原作は医師の視点から物語が語られているので、トムソンとデイヴィドソンの関係がいつ、どんなふうに変わったのか、はっきり書かれていませんよね。そこにとても緊迫感がありました。

鈴木 ダンスは、説明には適していません。でも、「書かれていないこと」を表現するのにダンスほど適したものはなかなかない。今回の作品では、まさにその書かれていない部分、小説に充満している「見えない力」に焦点を当てています。ダンサーたちの身体がリトマス試験紙のように、様々な見えない力の変化を表すメディアの役割を果たしてくれると思います。
モームは、回想集『サミング・アップ』の中で、「自分は自立した存在なのか、運命の奴隷であるのかが知りたかった」と語っています。たとえば『雨』の結末は、密室状態の中でやむにやまれず起きたことなのか、デイヴィドソンが自分の意志でやったことなのか。
モームは、同性愛が罪とされるような厳格なキリスト教徒の家で育ち、しかも自身がゲイだったといわれていますので、常に抑圧を感じて生きていたようです。彼はヒュームの厭世的な哲学に興味を抱いていたし、脳科学などの研究が進んで「自由意志など存在しないのでは」と盛んに議論された時代でもありました。それでも彼は、自分の人生は自分の意志で歩いてきたと信じたかったみたいなんです。その考えに、僕もすごく共感します。
彼の自伝的小説『人間の絆』には、『雨』に出てくるような医師、牧師、奔放な女性という3人のキャラクターが登場しますが、この女性のモデルは男性ではないかという説もあるそうです。モームには、奔放さへの憧れがあったのかもしれません。

――『雨』を読んでいると、宣教師の情熱が使命感なのか欲望なのかよくわからなくなってきます。たしかに、ダンスは、そういった言葉にならない表現にとても適していますね。

鈴木 モームは、自分がコアと信じている部分すら、実は存在しないのではと晩年まで悩み続けていたようです。彼の作品にはシニカルな印象がありますが、「本当の悲劇とは、愛するのを止めることだ」とも言っていて。多分、人間を好きになりたかったんだろうなと思います。

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――トムソンを踊る米沢唯さんについては、どんな印象をお持ちでしょうか。

鈴木 テクニックが素晴らしいことは言うまでもありませんが、それ以上に、非常に演劇的なダンサーだと思います。「どう踊るか」だけでなく「そこにどう存在するか」を、すごく真剣に考えている。
以前、唯さんに「古典の役作りをどういうところから始めるのですか」と聞いたら、「そのキャラクターがどうやって歩くか? から」と話してくれて、それがすごく印象に残っています。最近の新国立劇場での『ジゼル』や『マクベス』を観ても、そのキャラクターとして、一歩をどう出すかということにこだわっているのがわかります。しかもとても多忙な方なのに、精力的に様々な舞台を観に行かれていて。クラシックバレエダンサーという枠のみに収まらない、スケールの大きなダンサーだと、今回ご一緒してあらためて思います。今回、相手役のデイヴィドソンが、初演の吉﨑裕哉さんから中川賢(さとし)さんに変わったのですが、それだけでもトムソン像が大きく変化していますし、初演からの積み重ねを経て、深みを増しています。

――中川賢さんも、とても存在感のあるダンサーですね。

鈴木 単純に僕自身が唯さんと賢さんのカップリングを見てみたいと思っていたこともありますし、彼が舞台上で発するエネルギーの強さが、この作品のブラッシュアップに必要だと感じました。豊富な舞台経験をもとに、「ここはどういうことかな」「僕はこう思う」と様々な意見を言ってくれて、作品を前に進めるのに力を貸してくれています。

――現代美術作家の大巻伸嗣さん、サウンドアーティストのevalaさんとのコラボレーションについても教えてください。

鈴木 今回は大巻さんの《Liminal Air - Black Weight》という作品を、舞台美術に転用しています。見た目も「雨」のようですけれど、作品の中に入ると、紐でできているとは思えないほどの重さや圧力を感じます。大巻さんはほかの案もいろいろと出してくださったんですが、やはりこれがぴったりだねという結論になりました。
音も、空間づくりの大きな要素になります。クリエイションの段階では既存の音楽を使ったりしていたんですが、音を空間としてとらえる作家とのコラボレーションが必要だと感じ、立体音響を駆使した作品づくりをされるevalaさんにお願いしました。

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――大巻さんの美術、evalaさんの音楽の中で踊ると、動きの質は変わってきますか。

鈴木 全然違います。「ここは坂道だ」と想像しながら踊るのと、実際の坂道で踊るのとはやはり違うので。初演の時は舞台稽古で、美術と音楽を体験して初めて「ああ、我々はこういう圧を想定してつくってきたんだ」と実感しました。今回はその実感をもとにブラッシュアップしているので、さらに作品の純度が上がるんじゃないかと、僕自身楽しみにしています。舞台の上で行われていることを整理して額縁をはめるのではなく、客席も含めた劇場全体の空間づくりをしていますので、おそらくお客様も、安全な場所から舞台を観ているというより、自分も雨の中にいることを体感していただけるかと。

――それは楽しみです。ダンス、美術、音楽が互いに影響し合って、観客に訴えて来るような舞台になりそうですね。

鈴木 1人の脳にできることって限界がありますので。大巻さんやevalaさん、唯さんや賢さん、DaBYのダンサーやスタッフたち、みんなの脳みそを並列につないだスーパーコンピューターで知恵を出していくほうが、作品の強度は間違いなく上がると思います。

――最後に、読者へのメッセージを一言お願いします。コンテンポラリー・ダンスは見慣れていないんだけど......、というお客様にはこの作品をどう紹介されますか。

鈴木 バレエやストリートダンスを学んできた選りすぐりのダンサーとつくり上げ、美術や音楽の要素も大きいスペクタクル的な作品になっていますので、「コンテンポラリー・ダンスを芸術として理解しなければ」みたいな考えは置いてきて、楽しんでいただければ。唯さんのバレエのボキャブラリーは、この作品に素晴らしいものをインプットしてくれていますので、バレエをよく観ているお客様であれば、彼女をガイドに作品の中を探って、様々なことを体感していただけたら嬉しいです。

――ありがとうございました!

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愛知県芸術劇場×DaBYダンスプロジェクト
鈴木竜×大巻伸嗣×evala『Rain』
https://rain.dancebase.yokohama/

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