振りの一つひとつに息づく「蝶々さん」の魂、近藤良平×坂東扇菊 ダンスパフォーマンス『蝶々夫人』

ワールドレポート/東京

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

ダンスパフォーマンス『蝶々夫人』

坂東扇菊:構成・演出・振付、近藤良平:振付、平岩佐和子:音楽

オペラ『蝶々夫人』はよく知られているとおり、明治初期の長崎を舞台に、武家の生まれでありながら芸者に身を落とした蝶々さんと、アメリカ海軍士官ピンカートンの愛を描いた悲劇だ。
今回は、この日本で最も有名なオペラを、日本舞踊家の坂東扇菊と振付家・ダンサーの近藤良平がダンスパフォーマンス化し、2023年6月21日、国立劇場小劇場で上演した。

小説版『蝶々夫人』の作者、ジョン・ルーサー・ロングは、宣教師の妻であった姉が日本滞在中に聞いた実話をもとに、この物語を書いたという。この小説はロンドンで舞台化され、それを観たプッチーニが、オペラとして作曲した。「欧米列強を相手に開港したばかりの長崎には、きっと蝶々さんのような芸者は何人も居たことでしょう。そのような複数の芸者や軍人を登場させ、時代背景を増幅させました」と、坂東扇菊はパンフレットに書いている。

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photo/Yoshiyuki Usuzawa

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今回、蝶々さんもピンカートンも軍人たちも、全員が日本人キャストだ。日本文化と西洋文化の衝突を描いてはいるけれど、2023年に生きている日本人の私たちが、脳天気に「蝶々さん、かわいそう! ピンカートンはひどいやつ!」と思えるかというと、そんなに単純ではない。坂東・近藤版『蝶々夫人』は、そのあたりの距離の取り方が、きわめて知的かつデリケートだ。
蝶々夫人、またはその分身のような芸者は、扇菊自身のほか、バレエダンサーで歌手の名取かおりや綾乃テンが操る人形など、複数の踊り手によって踊られる。踊り手によって表現のしかたは少しずつ違う。たとえば名取の立ち方は完全なアン・ドゥオールで、その凛とした立ち居振る舞いは、ピンカートンとの結婚に当たり、進んでキリスト教に改宗し、アメリカ人として生きることを決意した蝶々さんの人物像に重なる。しかし、その結婚がかりそめのものであることを、オペラの設定では15歳だった蝶々さんは知らない。

アメリカの軍人たちは、近藤良平が率いるダンスカンパニー、コンドルズのメンバーによって踊られるのだが、リアルなアメリカ人になりきろうとはしない。膝をビシッと伸ばした行進だったり、ロックっぽい縦ノリの動きだったりと、漫画的な「アメリカ軍人ごっこ」として描かれる。さらには、彼らが白い軍服の上に色鮮やかな着物を羽織り、芸者として登場するシーンもある。畳に手をついてお辞儀をする所作だけでも、とてもなまめかしく美しい。特に藤田善宏の動きはあでやかで見とれてしまった。でも、これも女性になりきっているわけでもなくて、日本舞踊の型の中にある艶っぽさや女性らしさを、誇張気味に表現しているだけなのだ。

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photo/Yoshiyuki Usuzawa

現在の私たちの暮らしは何となくアメリカナイズされており、この場面で描かれている日本的な所作も、花柳界の文化も日常からは遠くなっている。何も考えずに観ていても、ちょっとおかしくて面白いのだけれど、日頃ただ消費し、雑に扱っている「アメリカ的なもの」「日本的なもの」について終始問われているようにも感じた。たとえば自分が自然だと感じる身のこなしは、どこから来ているのか。

『蝶々夫人』で最も有名なアリア「ある晴れた日に」は、音楽を担当した平岩佐和子自身が日本語で歌い、扇菊が舞った。「外国人の旦那さんは、一度帰国したら戻ってこない」と疑う女中のスズキに対し、「彼は必ず帰ってくる」と信じる蝶々さんが歌いあげる名曲だ。
ある晴れた日、水平線上に船が現れる。でも私は迎えにはいかない。丘を登ってくるあの人に名前を呼ばれても、返事をせずに隠れていましょう。そうしないと、嬉しさで死んでしまうから......。
そんな歌詞の内容が、そのまま当て振りで表現される。蝶々さんが思い浮かべる、ピンカートンが帰ってきた日の最も幸せな情景を、振りでうたうのだ。たとえば袖の後ろに「隠れる」しぐさから、蝶々さんの切ない思いが痛いほど伝わる。

蝶々さんが生まれた息子と共にピンカートンを待ち続けて3年。ついに長崎にピンカートンを乗せた軍艦が現れる。蝶々さんは庭中の花を摘んで部屋中にまき散らし、一晩中ピンカートンを待つが、彼は現れない。彼は母国アメリカで結婚していたのだ。

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photo/Yoshiyuki Usuzawa

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オペラでは、ピンカートンは蝶々さんと顔を合わせることすらできず、妻を通じて「子どもを引き取りたい」と言ってよこす、きわめて小心な人物として描かれている。蝶々さんは息子を引き渡すと約束した後、ひとりで自害する。今回の作品でも、蝶々さん:扇菊とピンカートン:近藤は共に舞台に立つが、直接顔を合わせることはない。
花嫁の着る白無垢姿で、空間の中にぽっかりと浮かび上がった扇菊は、すさまじい霊気を放つ。そのたたずまいは、すでにこの世のものではない怨霊のように見える。
近藤は正面を向いたまま、その気配を受け止める。

ピンカートンは、「自分だけが悪いんじゃない」と思っていたのかもしれない。でも、受け止めきれないほどの矛盾に押しつぶされそうになっていたのではないか。「現地妻を娶る」という風習も、その風習に何の疑問も持たず、気軽に楽しんでしまった自分もすごく変だ、というような......。
今回、蝶々さんの人物像は、日本舞踊を中心に据えた様々なスタイルで表現された。ピンカートンは、それらの美しさを外側から素直に鑑賞し、享受し、消費してしまった人物に見えた。近藤は、ピンカートンという役柄を通じて、苦しいまでの誠実さで、自分の中にある「矛盾」を踊っている気がした。

日本舞踊の表現技法の豊かさを、様々な趣向で楽しみつつも「日本とは何だろう」と考えさせられる舞台だった。
(2023年6月21日 国立劇場 小劇場)

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