異国の影絵芝居のような幻想的な舞台ー勅使川原三郎『月に憑かれたピエロ』

ワールドレポート/東京

香月 圭 text by Kei Kazuki

『月に憑かれたピエロ』アップデイト・ダンスNo.95

勅使川原三郎:演出 照明 勅使川原三郎 佐東利穂子;出演

勅使川原三郎のアップデイトダンスNo.95『月に憑かれたピエロ』をカラス・アパラタスで観た。天井から吊るされた月と勅使川原三郎、佐東利穂子の流麗な動き、それらを照らし出す照明によって様々なシルエットが舞台に映し出され、異国での影絵芝居のように幻想的な舞台だった。
19世紀ロマン派のベルギーの詩人アルベール・ジローが『月に憑かれたピエロ』というタイトルの詩を発表し、このフランス語の詩を元にしてオットー・エーリヒ・ハルトレーベンがドイツ語にて自由で深遠な改変を行った。多くの音楽家がこのドイツ語の詩に曲をつけたなかで、アルノルト・シェーンベルクのものが現代まで知られるものとなった。彼はこの50篇の詩の中から21篇を選び、7篇ずつの3部構成にした。

勅使川原はこの基本構成にプロローグとエピローグを追加している。勅使川原が音にビクっと反応すると、佐東利穂子が彼を突き飛ばして前へ進み出る。そしてハードロックの音楽が唐突に流れる。佐東はリード・ギターの高音に合わせて激しくうねるように踊る。音はアナログ盤の音源なのか、ざらざらした音である。佐東はタートルネックにひざ丈フレアスカート姿で、手袋まで全身黒の服装。おっとりした性格のピエロを従えていく強い女性コロンビーナを表しているのだろうか。そして、いよいよシェーンベルクによる本編に入っていく。
女声の歌い手が語るような調子で歌う「シュプレッヒシュティンメ」と呼ばれる技法を用い、5人の演奏者が時々楽器を持ち替えてピッコロ、フルート、クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの8種類の楽器を担当する。長調でも短調でもない「無調」で展開するこの作品は、1912年ベルリンにて初演された際、賛否両論を呼んだ。この公演では佐東利穂子による日本語での歌詞の朗読音声も加わったことで、観客には詩のイメージが想起しやすかった。彼女の朗読は子どもに読み聞かせをするような優しいもので、ドイツ語でのドラマ性を強調した歌唱に童話のようなニュアンスも加わる。今回は太極拳のような全身のあらゆる関節をスローモーションのようにゆっくりひねりながらなめらかに動いていく、というムーブメントが多くみられた。

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photo by Akihito Abe

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photo by Akihito Abe

本編第一部の第一編は「夜の月が、目で飲む葡萄酒を波のように注ぐ。ふるえる白い欲望が月に照らされる」といった内容だ。酔いが回った詩人が夜道を歩きながら、月光を浴びている風景が思い浮かぶ。そしてこの舞台の中央に銀色の金属板が曲げられて天井からぶら下がっているオブジェが、白い照明に照らされると、これが「月」に見えることを観客は発見する。ランダムに回転して照明の光を変幻自在な方向に散乱させるこの月は何とポエティックであろうか! 勅使川原の洗練された舞台美術のアイディアに思わず目を見張った。
詩人に扮した勅使川原はゆっくり腕を伸ばし、月光を浴びながら飲み物をすする仕草をするが、その様が何とも官能的である。
第二編は「コロンビーナ」というタイトルで「月光の青白い、純白の妖しい花が7月の夜に咲いている。おお ぼくはその一つだけでも手折れたら! 」とうたわれている。月を詩人の意中の人に見立てているようだ。佐東は両手のひらを丸くして向かい合わせ、花が開くようなオーガニックな動きを見せる。
第三編の概要は「月が水晶の小瓶を照らす。洗面台の前に、ベルガモの伊達男がいる」かすかな月光を頼りに彼が鏡の前で道化の化粧をしている様子が歌われる。道化に扮した勅使川原は、黒いコートの下にボウタイ付きの白いシャツをまとっており、確かにダンディな装いだ。歌詞が具体的な描写をしているものの、二人の動きがその内容をそのままなぞっているようには見えない場面も多い。勅使川原も佐東もゆったりとした鷹揚な動きが多く、勅使川原は詩人や道化師に扮しているようなときもあれば、月の光を帯びたロマンティックな夜の闇を表しているようにも見える。佐東は詩人の恋の対象として擬人化された月に扮したり、バイオリンやチェロがかきならす弦音のうねりに対してより敏感に反応した動きをしたりする。
第四編の「蒼ざめた洗濯女」では「夜に色あせた布を洗う。むき出しの銀白色の両腕を、流れの中へと伸ばしている」と日光の下では鮮やかに見える布地が、月光の下ではあせた色合いに見える様を月が洗濯女でもあるかのように擬人化している。佐東は風にそよぐように全身を左右にゆったりと揺らしている。
五編目の「ショパンのワルツ」では「一滴の蒼ざめた血のしずくが、病人の唇を彩るように」というフレーズがあり、勅使川原はシャツのボウ部分を口元に持っていき、唇についた血を拭うような仕草をした。そのとき、歌舞伎の女形が着物の裾で口元を隠したときのような妖しさを感じた。
序章では総じて月光のイメージが強く、舞台が白く照らし出されていたが、第六編「聖母」では、スランプに陥った詩人が月を聖母に見立てて、創作中の自分を助けてくださいと祈っており、赤い照明に照らされた佐東が聖母に扮し、亡き息子を両手に抱えて教会の祭壇のマリア像のように膝まずいていた。

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photo by Akihito Abe

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photo by Akihito Abe

第二部では「ピエロへの祈り」「盗み」「赤いミサ」「絞首台の歌」「打ち首」「十字架」といった血なまぐさい言葉を含む詩が歌われ、照明は赤と暗転という劇的な色が使われていた。この章で最も鮮烈だったのは、ピエロ=勅使川原が地下の墓所にある王侯の棺の中にあるルビーを盗みに入るというくだり。赤い照明のもと、赤い宝石を盗みにいく勅使川原の表情と盗賊のようなマイムは、ピエロに憑依した彼が、犯罪という非日常的行為の最中で気分が高揚してしている様が如実に伝わった。
終章となる第三部はピエロがゆったりとした舟唄に載って、月光を頼りに故郷ベルガモに帰るという情景が歌われる。聞こえた音楽を感じたままに、大海原の船に乗って揺られていくような勅使川原と佐東のムーブメントに観客も心地よさを覚える。船旅の途中なのか、背中を照らす月光を「月のしみ」と表現した詩人は「いくらこすっても取れない」と歌う。勅使川原が服のしみを取ろうと懸命にこするジェスチャーがユーモラスだ。帰郷したピエロは「おお、懐かしい香りだ!」と故郷に実在する自分に喜びを感じる。ゆったりと動く二人は弛緩した空間をたゆたうように人が誰でも感じる「郷愁」をモチーフとした美しいデュエットを繰り広げた。二人は動きのテンポを一致させ、天やかなハーモニーを奏でる。

そしてシェーンベルク全編が終了し、勅使川原が追加したエピローグでは、西洋古典音楽の響きにオリエンタルな弦楽器や笛の音色、人の声といった音が合わさり、観客も二人とともにどこか無国籍の桃源郷に足を踏み入れたような感覚に陥る。彼は向かって舞台右に正座し、恍惚とした表情を浮かべている。一方、佐東は舞台右に墓碑のように設置された銀色の金属プレートの近くに寝転び、いつしか深い眠りに落ちていく。勅使川原は左手で虚空を指さしている。鼓動の音が加わり、彼は悟りを悟ったかのように仙人のごとくほとんど動かなくなり、最後には仏像と化したようにその場に鎮座し続け、そのまま暗転となった。

終演後のアフター・トークで勅使川原は「作品をつくるということは、音楽から感じた創造力を感じたままに生きることです。ユダヤ人だったシェーンベルクは、多くの困難を超えた素晴らしい作曲家です。この作品は2018年発表時から大幅に変えて、ほぼ新作といっていいものになりました。原詩では血なまぐさい表現やキリスト教を背景にした表現も見られますが、私なりの解釈や言葉に置き換えてみました。世界でいろんなことが起こっている今、愛すべき場所があって、そこにいつか帰れるという希望をもつことは大切なことです」と話した。
(2023年2月12日 、14日 カラス・アパラタス B2ホール)

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