環境破壊へ警鐘を鳴らすシルヴェストリンと渡辺レイの意欲作 が上演された、K-BALLET Opto「プラスチック」

ワールドレポート/その他

香月 圭 text by Kei Kazuki

K-BALLET Opto「プラスチック」

『ペットボトル迷宮』アレッシオ・シルヴェストリン:振付
『ビニール傘小町』渡辺レイ:振付

Bunkamuraオーチャードホール フランチャイズカンパニーであるK-BALLET COMPANYとBunkamuraが古典作品にとどまらないダンスの多彩な魅力を放つ新たな作品を共同プロデュースするK-BALLET Opto。旗揚げ公演「プティ・コレクション」に続く第二弾は、 フランチャイズカンパニーであるK-BALLET COMPANY Bunkamura/オーチャードホール芸術監督 熊川哲也自身が現代を生きる人間の一人として地球環境を良くしたい、という痛切な思いからプラスチックというテーマが選ばれた。世界中に氾濫し続けるペットボトルとビニール傘を用いてSDGsに真正面から取り組んだ制作陣や出演者の心意気に、まずは称賛を贈りたい。

最初の作品は日本在住のイタリア人振付家アレッシオ・シルヴェストリン振付による『ペットボトル迷宮』。無数のペットボトルでできた複数の可動式衝立を、ダンサーたちが場面によって様々な位置に動かしていく。彼らが歩みを進めると新たな道が見えてくる「ペットボトルの迷路・迷宮」を表しているのだろうか。この衝立の向こうで彼らがポーズを取ると輪郭がペットボトルの断面で光が拡散され、ダンサーたちがぼやけて幻想的に見える効果も。これらのペットボトルはリサイクル業者の協力を得て一万本ほど集められ、スタッフ自ら洗浄作業を行って舞台美術に採用された。
轟音かと思われる音は、ナチスによるホロコーストから生還したハンガリー系オーストリア人の現代音楽家ジェルジュ・リゲティによるオルガン曲『ヴォルミーナ』(1961/1962)だ。メロディやリズムがない音楽で、オルガンのすべての鍵盤を肘で押さえ、多様な音の塊を一気に出して騒音のような音となっている。リゲティの音楽は映画界の鬼才スタンリー・キューブリック監督が好んで使用していた。この前衛的な音楽とペットボトルが光をにぶく反射する幻想的視覚効果によって、『2001年宇宙の旅』をはじめとする1960年代のSF映画のようなレトロで不可思議な雰囲気を感じる。
シルヴェストリンが採用したもうひとつのメインの音楽はヨハン・セバスチャン・バッハによるオルガン曲『前奏曲とフーガ ホ短調 BWV.548〈楔〉』で、パイプオルガンの風をはらんだ音がペットボトルの中の空間を連想させると彼は述べている。主題となるフレーズが少しずつアレンジされて曲調に合わせるかのように、男性の群舞、女性の群舞そして男女が組んでの群舞が展開していく。ダンスのほかに音楽も学んだシルヴェストリンは、楽曲の順列から振付の構成を考えるという。そのため、彼の振付は幾何学のように端正なものであった。次々と編み機のように生成されていく彼の精緻な振付は、フォーメーションやダンサーたちが描く軌跡についても直線的な印象を強くもった。主役の若い僧を演じたミュンヘン・バレエ プリンシパルのジュリアン・マッケイもダイナミックなジャンプやピルエットを見せ、飯島望未と、次に日髙世菜とパートナーを絶えず変えて、彼女たちの流麗な動きを丁寧にサポートし、さらに優雅なポーズへと導いていく。

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『ペットボトル迷宮』ジュリアン・マッケイ ©Nicholas MacKay / MacKay Productions

人類にとって利便性の高いペットボトルは無尽蔵に生産されるが、リサイクル・システムは不完全なままゴミとして増え続けている。こうした環境破壊の現状を憂いているかのようなマッケイのメランコリックな表情もこの作品に似つかわしく、古典バレエの王子役だけではとどまらず、現代に生まれた課題を抱えた若者としてのキャラクターの造型も秀逸だった。女性ダンサーたちのコンテンポラリー・バレエならではのポワントでのオフバランスで片足を高く掲げるポーズがとても美しかった。男性ダンサーたちの躍動感溢れるジャンプも迫力がある。K-BALLETのダンサーたちの群舞は総じてソリストたちに負けずとも劣らない高い身体能力を持ち、シルヴェストリンの複雑な構造をもつ振付を軽々とこなしていく。
そのうちにダンサーたちの手足や頭にペットボトルがはり付きはじめ、飯島も日髙も、そしてマッケイの身体にもペットボトルがどんどん増殖していく。ペットボトルが装着されたダンサーたちは男女ペアで踊るが、これまでのスムーズな動きに支障をきたしているようだった。そして堀内將平をリーダーとするぺットボトルの精たちがその場を支配する。彼らの勢いが増して、飯島と日髙はペットボトルの精たちに囚われてしまう。ペットボトル界のリーダー的役割を担った堀内は背中に複数のペットボトルを生やし、その姿は背中に骨板が並ぶステゴサウルスのようにも見えた。彼とマッケイとの格闘シーンはコンテンポラリー・バレエの身体言語を使用した格調高いデュエットだが、ゲームにおける正義の勇者が恐竜キャラクターと対峙しているようにも見え、シュールな印象を与えた。マッケイが手にしたペットボトルを握りつぶすと、人々はペットボトルの呪縛から解放されたように、いつしか元の姿に戻っていた。
ペットボトルの衝立が最も印象的だったのは、二枚の衝立を横に並べ、その接点を中心として円周状にプロペラのように回旋させ、その回りをビニールの球体で上半身が覆われた女性(成田紗弥)に率いられながら飯島、日髙が踊り、マッケイがそれを見守りながら移動していくシーンだ。長い旅路を淡々と歩んでいく様は、新天地を求めて彷徨っているようで、ペットボトルと共存できる新たな仕組みを求めて模索していたのだろうか。
終盤、前半で使われたバッハのオルガン曲の荘厳な響きが再び聞こえ、最後に70年代ディスコ調の強いビートの音楽に変わった。マッケイほかダンサーたちは全員そのファンキーな曲調とミスマッチなコンテンポラリー・バレエのステップを軽やかに踏み続ける。客席もミラーボールが反射したように点滅し、舞台の天井からはペットボトルで組み立てた巨大なアルファベット文字が入れ替わりに降下してはまた上昇を繰り返す。「PET」「PARTY」「PEOPLE」などの単語が見えた。最後にクエスチョン・マーク「?」の上半分の部分の形をしたペットボトルの集合体が降りてきて、その下の部分にビニール球体に包まれた女性が入って「?」マークを完成させて舞台は暗転した。今さえ良ければそれでいいのか、次世代に環境問題を残したままで何も行動しなくてよいのか、といった痛烈なメッセージを感じた。

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『ペットボトル迷宮』 ©Nicholas MacKay / MacKay Productions

後半はK-BALLET COMPANY舞踊監督とK-BALLET Opto舞踊監督を兼任する渡辺レイによる『ビニール傘小町』。三島由紀夫が観阿弥作の能の謡曲を近代劇に翻案した『近代能楽集』の一作『卒塔婆小町』および太田省吾の『小町風伝』からも原案の想を得ている。
舞台下手前に腰かけてビニール傘を一本ずつ数えている男性の姿が幕間から終演までずっといる。このビニール傘も実際に道端に捨てられているものを再利用しているという。幕が開くと黒スーツの三人の男たち(石橋奨也、杉野慧、栗山廉)が公園に落ちている傘を拾い、男性に渡しに行く。

舞台後ろではプチプチマット(気泡緩衝材)を纏ったビニールの神々がビニール傘を差して佇んでいる。スリムなダンサーたちの身体がゆるキャラのようにふっくらと可愛らしく見える。彼らは舞台下手から吹いてきた強風にあおられ、後退しては風に逆らって前進を続ける。ローラースケートを履いている者はより遠くに押し戻されてしまう動きも加わり、視覚的に面白かった。風が最大限の強さまで達すると一転、街の喧噪が聞こえて、都会の中の公園で乳母車に腰掛ける老婆小町(白石あゆ美)の姿が。彼女の頭はよく見るとプチプチマットでマリー・アントワネットのように高々と結い上げられたかのような白髪に見立てた鬘を被っており、中には電飾が黄色く灯されている。彼女は公園に落ちている傘を拾ってはゆっくりとした動作で開閉を確かめつつ、くるくると回して手押し車に傘をしまっていく。そこに冒頭で登場した黒スーツの三名の男たちが彼女にちょっかいを出す。音楽に乗ってパントマイムのように具象的な振りで、「おばあちゃん、何してる?」といったセリフが聞こえてくるかのように彼らは体全体で会話している。このシーンには企画・構成・台本を担当した高野泰寿が、小学生の折に公園で毎日のように見かけたという老婆の姿が舞台で再現されていたようだ。
老婆小町が昔に思いを馳せると、全盛期の可憐な小町(小林美奈)も登場する。膝上丈の黒いチュールスカートにビニール傘をもって高下駄を履いており、老婆小町とユニゾンでカタカタと小刻みに歩いたり、下駄ならではの和風味でユニークなステップが展開した。老婆小町が幻想に浸るうちに、ビニール緩衝材のかつらやメッシュのマント、下駄が神々によって取り払われ、老婆小町は心身ともに身軽になり、見違えるように若返った。
可動式の大階段が二つに割れると、中から小町の想い人だった深草少尉(山本雅也)が現れる。ビニール製のアウターで全身が包まれていて、照明でビニールがギラギラ光り、近未来的な軍服だ。弦楽曲に合わせて老婆小町への熱烈な想いを濃密なマイムとダンスで訴える。彼女も我こそはと自分の思いの丈を彼に打ち明ける。
さらに彼女の回想はもっとも華やかだった鹿鳴館での舞踏会のシーンへと遡る。複数のビニール傘を用いた天井のシャンデリアがキッチュで面白い演出だった。地上ではビニールの神々がワイルドでパワフルな群舞を繰り広げるなか、相思相愛の小町と少尉も華麗なデュエットを見せる。神々は全編を通して小町の心中を表したり、ときには白石や小林をふわりと持ち上げ、音楽のドラマチックなうねりに合わせて伸びやかに踊るほか、大道具や小道具の移動など黒子的役割も果たす。
小町が蓄音機で青江三奈の吐息が艶っぽい伊勢佐木町ブルースをかけると照明も艶っぽい紫色となり、大階段の中の空間が二つの部屋になった。一方の部屋では若き日の小町と少尉がテーブルに向かい合いボディーランゲージを駆使して語り合っている。もう一方の部屋では男性の神々たちによる熱い抱擁。三島由紀夫の『仮面の告白』へのオマージュなのだろうか。

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『ビニール傘小町』白石あゆ美 ©Nicholas MacKay / MacKay Productions

終盤、小町の妄想が肥大化し、かつての恋愛の思い出に浸りながら、若いままの姿の少尉と再び踊る場面では、白石と小林の老若小町二人と山本が三人で踊り、舞踊ならではの幻想的な美しいシーンとなっていた。白石あゆ美の卓越した演技力によって、老いた女性が過去の恋愛を思い出す心情がリアルに感じられた。山本のメリハリの効いた表現力豊かな踊りは深草少尉を魅力的な男性像に見せ、若い小町を演じた小林も少尉との恋愛で輝いていた様を高いテクニックの備わった美麗な動きで見せる。主要キャストを取り囲むアンサンブルの抒情性を盛り上げる群舞もパワフルで見応えがあった。
小町は夢うつつのまま、グリーグの「山の魔王の宮殿にて」の楽曲の音量とテンポの加速に合わせてビニールの神々と激しく踊り、最後は錯乱したかのように床に倒れる。再び幕が上がると小町は床に裾が広がるほどの長さの白いドレス姿で天空に存在していた。この舞台美術の一部と化した衣装は「アート始末」というプロジェクトで、森村泰昌の美術展で使われたカーテンを再利用したものである。

『ビニール傘小町』は具象性に富んだ振付で演劇的で、抽象度の高い『ペットボトル迷宮』と好対照を成す。二作とも環境破壊という難解なテーマに果敢に挑み、この問題の深刻さを視覚的に訴えるとともに、コンテンポラリーダンスの表現の可能性をさらに押し広げるものであった。
(2023年1月8、9日 KAAT 神奈川芸術劇場)

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