様々な世代の舞踊家たちの表現のコントラストが浮かび上がった興味深い公演、苫野美亜プロデュース Dance Performance LIVE #8「mid/point」

ワールドレポート/その他

香月 圭 text by Kei Kazuki

Dance Performance LIVE #8「mid/point」

苫野美亜:企画・制作・振付・プロデュース
尾本 安代、松岡 大、高瀬 瑶子、横山 翼、片山 夏波ほか:出演

コンテンポラリー・ダンス作品の創作を精力的に続けている振付家の苫野美亜が、八回目となるプロデュース公演を行った。テーマに掲げた「mid/point」とは「相反するものの中心点」を指す。創作に乗り出したときにロシアによるウクライナ侵攻が始まり、苫野も大きな衝撃をもってこの世界的な分断を受け止める一方で、戦地から遠く隔たった日本では何事もないかのように日常が行われているというギャップを感じたという。当事者である二国間の外交の場で互いの意見交換をしたうえで妥協点を見出すように、対立し合う二つのあらゆる事象において互いを満足させる中間点を探って解決策を見出していくという思考を、苫野はダンスに取り入れた。今回の公演では、年代や様式も異なるダンサーたちによって踊られる三作品が提示された。
会場には固定的な観客席が設けられておらず、会場入りした観客は、踊りながら誘導を行う黒スーツ姿の案内人の数名の黒子ダンサーたちによって一か所に集められ、思い思いの角度から床に座ったり椅子に腰掛けるか、あるいは立位で作品を鑑賞する周遊型のスタイルだった。ガイドの踊り手たちは観客の間を縫って様々な場所に出現してごく短いシークエンスを披露したが、ほの暗い中で至近距離で行われるパフォーマンスに冒頭から引き込まれる。一方、非日常の空間にいきなり放り込まれた観客たちの驚きを交えた率直な反応も彼らの演技に少なからず影響を及ぼしていた。舞台と観客席の間の境界もなく、双方の高さは同じである。

20‐30代の演者たちによる作品 I『Inner(A)』では横山翼と片山夏波が出演した。横山は東京舞座のバレエマスター、片山はNoismを経て現在は黒田育世率いるコンテンポラリー・ダンスカンパニー BATIKに所属する。二人はモノクロのグラデーションの布地を仕立てたシャツに身を通したおそろいの衣裳(喜多理恵のデザインによる。他の二作の衣装も担当)で登場した。このぼかした白黒の濃淡の色調こそ、苫野が目指す〈mid/point〉=中心点を象徴的に表している。離れた場所に立っていた片山と横山が舞台で遭遇し、向かい合った二人は互いの存在に気づく。片山が頭を横山の腕のほうに傾け、彼女の頭と彼の腕が接触すると互いに違和感を感じてびくっとする。他者の存在の発見の瞬間である。同じ人間だが、双方にとって大きさや触れた感触が自分と違うといった様が描かれているように感じた。
その後は片山のソロが続く。光の帯の中を蜘蛛のように床を這い、豹のように辺りを警戒しながら四つん這いで前進したり、手首や肘肩、首などあらゆる関節を極限までひねりながら人形のように動いたり、きれのいい旋回を交え、柔軟な体を活かしたスピーディな踊りを展開していく。肉体的に全盛期を迎えている彼女が語る雄弁な身体言語に圧倒される。そして二人が再び出会う展開となる。男(横山)は女(片山)の鏡像のように向かい合った相手と同じように動く。次第にどちらかが相手方に頭や腕、上半身などを突き出してくると、片方は巧妙によけて衝突を回避する。水中での動きのようにも見えるし、合気道などの武術の間合いのようにも見える。やがて二人は互いの手のひらを合わせ、横並びで同じ方向への前進を試みる。しかし、上下に激しく揺れ、前に行くかと思えば後ろに引っ張られ、互いの動きのタイミングがバラバラで波長がなかなか一致しない。合わさった手のひらという弱い結びつきを必死でつなぎ留めながら、苦難を共に乗り越えていこうという気概が感じられてきた。異なる出自の二人が共同生活を送るなかで何とか協力し合ってやっていこうという姿を象徴しているようにも見える。二人の手はいつの間にかしっかりと結ばれて、より強い力で女が男から離れようとしても男がしっかりと彼女をつかまえているシークエンスが展開された。そしてついにはお互いの手を離しても、波長の合ったデュエットへと変貌していく。なかでも、一人の手のひらと相手の足裏を合わせたまま行う踊りは、自分の身体に制約を感じながらも共存を維持していこうとする精神の成熟が感じられた。
男が一人残されての横山のソロでは、今まで触れていたはずの相手が突然消えて、その感触や名残を抱えながら踊っているように見えた。格子状のルートをランダムに突き進む二人のシーンでは、時折ぶつかりそうになったり、相手を突き放したり、向き合って両手で押し合って争いのように見える動きも。この場面で「生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ」という趣旨のセリフがデジタル処理された男女の音声で読み上げられた。最後に二人は息の合ったユニゾンを見せると、互いの手のひらを合わせて精魂尽き果てたように崩れ落ちた。音楽にとどまらずビジュアル・デザインなど多才なアーティストのREMAHはアフリカ系の歌姫のような迫力を感じさせる佇まいで劇の途中にも観客のハートに訴えるハミングを披露し、本編の最後に「夕食を作りながらパートナーの帰りを待ちわびている女性の姿」や「月と星がダンスしている夜」など何気ない日常の幸福や「つなぎとめようとするから二人は傷だらけになった」と日常の愛の諸相を描写した歌をソウルフルに歌い上げた。

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『Inner(A)』REMAH、片山夏波/写真:木村雅章

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『Inner(A)』片山夏波、横山翼/写真:木村雅章

REMAHは歌い終わると会場の別の一角に向かって歩き、観客も第二部「HYORI」(30‐40代作品)の舞台へと移動する。そこにはジャパノイズとジャズの分野における前衛的な作曲家兼チェロ奏者の坂本弘道が皿状の金属片に釘のようなものをぶつけ、それをマイクで拡声させる演奏を行っていた。そのうちに彼はたくさんの鉛筆を金属片や横たえたチェロに投げつけ始めた。よく見るとチェロは傷だらけだ。彼のチェロ演奏ではバイオリンのような高音域を奏でたり、ギターのように抱えて激しいロック調の演奏を見せた。またノコギリを弓で弾いて胡弓のような音も出した。このようにアグレッシブな音が鳴り響くなか、山海塾の松岡大とコンテンポラリーダンサーの高瀬瑶子が観客の間を縫ってゆっくりと舞台へ進み出た。松岡は均整のとれた美しい上半身に何もまとわず、下半身は白い衣で覆われている。一方、高瀬は包帯でぐるぐる巻きにされたような衣装でスリムな体の線が露になっている。二人は伸縮性のある網状の白とベージュのグラデーションに染められた布で繋がれており、互いの動きに影響を受けている。
第一部の20‐30代に比べるとかなり緩慢な動きで、二人が表裏一体(タイトルの「HYORI」はこの言葉に由来)となって彫像のようなポーズが刻々と変化していく。二人の下半身が布で繋がっているため、腕の動きが木々の枝のようにも、観音の腕のようにも見えた。長い布は二人の顔も隠し、首にも巻きついて緊迫度が増すこともあった。松岡の足取りは大地に吸いつくようにどっしりとしていながらも表情は終始穏やかで、平安を感じさせるものであった。一方、高瀬は足の指側、踵、内側、外側と重心を絶えず変えて、ぐらつきを表現、パートナーと繋がった下半身のため、洋舞を象徴する天空への跳躍がかなわず、脚の自由が効かないことに不安を感じているような表情も覗かせた。坂本の奏でる細かく刻まれた音に反応した動きを見せるのは高瀬で、松岡は途切れることのないうねりに身を委ねているかのように穏やかな動きだ。例えば安定を求めて長く連れ添ったカップルの一方が時には互いの自由を求める状況を象徴するような二人の踊りであった。彼女が両手を床についてアラベスク・パンシェでバランスを取る間、松岡は頭だけを支点に倒立していたのは圧巻だった。このペアでは作品Iを連想させる互いの両足裏を密着した状態でポーズを変化させていくシークエンスも見られた。
この二人は長年寄り添ってきたようなカップルにも見え、その結びつきは若者たちより強固で密接なものに見える。彼らに始終絡みついていた布は最後に二人から切り離された。

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『HYORI』高瀬瑶子、松岡大、坂本弘道/写真:木村雅章

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『HYORI』高瀬瑶子、松岡大/写真:木村雅章

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『白鳥の歌』尾本安代/写真:木村雅章

作品IIの舞踊家二人は再び観客の間を抜けて作品III「白鳥の歌」(70代作品)の舞台へ移動した。そこには舞台一面に広がった巨大な裾の黒いキャミソール・ワンピースを纏った尾本安代が後ろ向きで佇んでおり、松岡・高瀬・横山・片山も冒頭では舞台に揃っていた。音楽が始まると彼女は両腕を上下させて白鳥のように羽ばたいて見せた。その動きたるや、まさに往年のプリマ・バレリーナによる長年の鍛錬の賜物である。すっと伸び、若さが保たれている美しい背中で肩甲骨が大きく動く様に魅了された。バレエの象徴ともいうべき脚部がスカートに覆われていて全く見えないので、「下半身はどのように動かしているのだろう」という期待が高まる。やがて彼女は腰の辺りで繋がれていた巨大なスカート部分を切り離し、長い長いスカートから下半身が露になった。かつてポワントで踊っていた足元はバレエシューズに変わり、全盛期のように脚が高く上がるわけではないが、バレリーナならでは優雅な身のこなしは健在だった。月夜の背景となり、カンテラを黒子から渡された尾本が灯りを頼りに舞台を歩き回ると、そこは夜の浜辺の景色となる。舞台に広げられていた巨大なスカートは、下手舞台袖に引き込まれていき、まるで引き潮のような視覚効果が生まれた。
次に彼女は鏡を渡され、自らの顔をしげしげと見つめる。否が応でも老いを意識させる大胆で残酷な演出である。彼女が一旦退場すると、スクリーンには象鼻崎の浜辺で彼女が海に向かって両腕を高く掲げる様子が映し出された。ボッティチェリのヴィーナス誕生のように神々しい海の女神のようだった。この映像の後、海辺のロケのときと同じ白いワンピースに着替えた尾本が再び舞台に登場。彼女が纏った白いワンピースに緑色のドットが投影され続ける。それはすばるのような星団にも見え、宇宙的な雰囲気を感じさせる。彼女はずっと両腕を優美に動かし続け、宇宙へと帰っていったように感じた。月へ戻ったかぐや姫のようにも見えた。

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白鳥の歌①
『白鳥の歌』尾本安代/写真:木村雅章

終演後に尾本に話を聞くことができた。「プロデューサーの美亜さんがわざわざ年齢を宣言するから」と本人は苦笑いするが、間近で拝見すると実年齢より20歳近く若い肉体を保っていることがはっきりと見て取れる。
「バレエダンサーは10代後半ぐらいから集中してトレーニングを行って踊り続けていくと、早い人は20代前半ぐらいから、遅くとも30代前後くらいでだいたい完成します。自分の思い通りに踊ることができ、表現力も最高潮で一番活躍できる年代です。私自身は40歳のときにアキレス腱を切ってしまい、自分よりずっと若い人たちのようにグラン・フェッテなどのテクニックを見せながら表現するということに面白味を見出すことがなくなっていきました。一方で、もう少し何かできるという気持ちもあり、様々な作品にチャレンジするようになりました。オリジナル性のあるものやストーリー性のあるもの、文学から題材を取ったものなどはすごく面白かったです。私は結婚して子どももいるので、母親役のオファーも増えていきました(後藤早知子振付『光ほのかにーアンネの日記ー』1990年、多胡寿伯子振付『The Scarlet Letter A 〜緋文字』2000年、小林恭振付『ノートル・ダム・ド・パリ 1482年の物語』2005年など)。皆と一緒に作り上げてすごく充実した50〜60代でした。クラシックだけにこだわらず、コンテンポラリーのクラスも若い人たちに混じって受けましたが、すごく面白いなと思いました。その後、様々な方々とコラボレーションの機会をいただいて現在に至りますが、自分のルーツはバレエなので、どうしてもその色が色濃く出るようです。でもそれが私の持ち味なので、その方向を活かしつつ、自身の表現を今後も深めていきたいと思います」
新しい表現に好奇心をもって果敢にチャレンジしていく尾本の今後が楽しみである。

本公演は若さ溢れる青年期の闊達な踊り、肉体と精神がほぼ完成し、社会を支える壮年期の踊り、そして肉体表現の制約を受けながらも精神的に最も豊かな時期である老年期の人生の集大成を感じさせる踊りと、それぞれの年代の身体表現の特徴がくっきりと浮かび上がる興味深い構成の舞踊だった。
(2022年12月29日 横浜ランドマークホール)

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