能舞台を生かし切ったスリリングなドラマ、島地保武振付『藪の中』再演された

ワールドレポート/東京

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

第44回 小金井薪能

能『巴』 狂言『佐渡狐』 ダンス『藪の中』島地保武:演出・振付

芥川竜之介の短編小説を原作に、島地保武が振付けた『藪の中』が、8月30日、第44会小金井薪能にて再演された。2012年に初演、2022年1月に全く新しいかたちに再構築・上演され、話題となった作品だ。出演は島地保武、酒井はな、宝満直也ら。

小金井薪能は、能楽師の津村禮次郎と作家の林望の構想により、1979年から市民ボランティアの力で継続してきた。毎回、能・狂言の古典作品とともに新作ダンス作品が上演され、これを楽しみに訪れるファンも多い。

最初に能『巴』が上演された。
巴御前は、『平家物語』に登場する美しい女武者だ。旅の僧(野口能弘)の前に現れた巴御前の霊(津村禮次郎)は、女ゆえに愛する木曽義仲と共に討ち死にすることを許されず、今も成仏できないと訴え、義仲の最期を物語る。
押し寄せる敵に、たった一人で最後の戦いを挑む巴。長刀(なぎなた)を短く持ち、敵を引き寄せておいて一気になぎ払う所作の鮮やかさに息を呑む。簡素な能舞台の上に、情景がまざまざと浮かぶ。
巴が敵を追い払って振り向けば、義仲はすでに自害していた。烏帽子を捨て、義仲と別れを告げる津村は、りりしくも優しい一人の女性にしか見えない。

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能『巴』 写真提供:小金井薪能(すべて)

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狂言『佐渡狐』

続いて狂言『佐渡狐』。京へ年貢を納めに行く佐渡のお百姓(三宅右矩)と越後のお百姓(三宅近成)。越後の人は佐渡は島だからとちょっと下に見ていて「佐渡にはないものも多いだろう」「狐などもいないと聞いた」という。佐渡の人は「佐渡は大国だからなんでもある」「狐もたくさんいる」と言い張る。二人は刀を賭けて、佐渡に狐がいるかいないか、京の役人(三宅右近)に判定してもらおうとするのだが......。
今風にいえば「マウントを取ろう」とする越後人もみにくいし、賄賂を払ってでも自分の言い分を遠そうとする佐渡人もみにくい。しかし、三人のやり取りはユーモラスで、最後はのびやかな笑いでしめくくられた。

芥川竜之介の短編『藪の中』は、平安時代末期、都の外れの藪の中で起きた殺人・強姦事件について、関係者たちの証言だけで描かれた一種のサスペンス・ドラマで、黒澤明監督の映画『羅生門』の原作ともなっている。各々の証言はことごとく食い違い、真相は「藪の中」のまま、人間のもつ欲望や矛盾がまざまざと浮かび上がる物語だ。2022年版『藪の中』は原作にかなり忠実なつくりで、盗人の多襄丸(島地保武)、真砂(酒井はな)、その夫武弘(宝満直也)、木樵り(東海林靖志)という四人の登場人物には生き生きと血が通っている。各々の証言シーンで、ダンサーが能面を着用して舞うのも見所だ。津村禮次郎は取り調べをする検非違使や死者を呼び出す巫女、時には馬や蚊や蠅の役割まで担い、古典芸能のテクニックを駆使して変幻自在に物語を進めてゆく。

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ダンス『藪の中』

さて、橋掛かりから颯爽と登場したのは多襄丸(島地保武)。摺り足で折り目正しく、能舞台にしっくりとなじんだ動きだが快いスピード感がある。扇をかざして登場した津村の動きも速い。『巴』では細身の女性に見えたのに、体型までがっしりとゆるぎない権力の権化に見える。島地は、時々津村をちゃかしたりいなしたりしつつ、丁々発止と鮮やかな立ち回りを演じた後、ごろりと舞台隅に横になる。

そこへ、旅の夫婦、真砂(酒井はな)と武弘(宝満直也)が現れる。酒井は踊るようなかるい足取りで、宝満は四つん這いだが端正な動き。津村が舞台の隅から「ヒヒィーン」と馬の鳴き声の合いの手を入れる。実際の情景としては、武弘が妻の真砂を馬に乗せ、自分は手綱を取って歩いているのかもしれないが、舞台上の宝満は四つん這いなので、酒井に尽くす馬か忠犬のように見えてしまう。今度は津村が「ブゥーン」と蚊の羽音を入れる。藪のそばだけにヤブ蚊がいるらしい。宝満は襟を正し、蚊をはらう仕草ひとつで、武弘の潔癖さやプライドの高さを感じさせる。酒井は宝満に少しもたれて、指でその喉元に触れたり、蚊を取ってあげたりする。そのしぐさが何ともかわいらしくて色っぽい。多襄丸は真砂に魅せられ、「この女を奪おう」と決意する。ここからは怒濤のようにドラマが展開し、一瞬も目が離せない。

ゆらり、と吸い寄せられるように酒井と宝満に近寄る島地。酒井の表情はくるくると変わる。多襄丸(島地)への無邪気な好奇心を見せたかと思うと、縛り上げられた夫に気づいて豹変、長いお下げ髪を振り乱してきりきりと回転し、多襄丸に飛びかかる。しかし、多襄丸の強さはゆるぎない。後ろから髪をつかまれ、引き寄せられる。目の前で妻を奪われる武弘(宝満)の絶望的な表情。

この時、武弘はまだ生きているのだが、取り調べの時点では何者かに刺し殺されている。彼を殺したのは誰か? 最初に検非違使(津村禮次郎)の前で証言を行うのは、第一発見者の木樵り(東海林靖志)。とても実直な様子で、きっちりとせりふで証言するが、検非違使が去ると面をつけ、羽織っていた毛皮を頭からかぶって森の妖怪みたいな姿になる。

多襄丸の証言シーンは冷たい蛍光灯の光のもとで展開した。多襄丸は創作舞『THE KUMANO』の神霊のイメージで制作された面をつけて現れる。
「(女は)あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。(中略)わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。」「わたしは女と眼を合わせた時、たとい神鳴(かみなり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。」面をつけた島地は、原作のこのような台詞にふさわしい、不気味な存在感を放つ。「卑怯な真似はしない」ことが信条の多襄丸は武弘の縄を解き、二人は命がけの太刀打ちを始める。その間に真砂はどこへともなく走り去る。

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続いて、真砂の告白シーン。代表的な若い女の面「小面」をつけた酒井が小刻みによろめきながら現れる。面をつけると視覚がさえぎられる分、身体感覚が研ぎ澄まされるという。長い髪を自分の首に巻き付け、締め上げながらつま先立ちでよろめき歩く酒井は鬼気迫る姿なのだが、どこか滑稽でかわいらしくもある。「死のうとして死にきれない」一方で、先ほど髪をつかまれた多襄丸に魅了され、執着してしまっているようにも見えるのだ。そしてせっぱ詰まった酒井の台詞が響く。「あなたを殺して、わたしも死にます」。

「鬼」そのものを思わせる検非違使(津村禮次郎)の舞、自分の着ている毛皮と遊び、つねに独り言をいっているようなユーモラスな木樵りの舞の後、島地と酒井の、まるでつきあいたての高校生カップルのような踊りが始まる。二人とも先ほどとは別人で、ダークヒーローのかっこよさも、ファムファタルの妖艶さも全部かなぐり捨ててひたすらはしゃいでいる。一瞬混乱したが、先ほど武弘が縛られていた位置に巫女(津村)が座っているので、どうやらこれは武弘から見た二人の姿らしい。唐突に酒井から発せられる「あの人を殺してください」という真砂の言葉は、果たして真実なのか。

続いて、巫女に呼び出された武弘の霊(宝満直也)が「平太」という武将の面をつけて現れる。すっきりとした表情の小振りの面だ。踏み出した軸脚をずらされ続け、それでもバランスを保とうとするような気品ある動き。心から愛し、全力で守ってきたはずの妻を奪われ、裏切られた悲しみがひしひしと伝わってくる。
尚、本作品の最後には原作にない独自の「真相」が描かれるが、このシーンでの武弘はまた印象が異なっている。真砂を汚いものであるかのように扱い、冷たさがきわだって見えるのだ。

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このように、各々が語りたい「真相」は異なり、その中に登場する多襄丸、真砂、武弘像もすべて異なる。まるで万華鏡のような世界だ。また、要所要所で使われる「音」や「言葉」が、きわめて印象的だった。
たとえば、多襄丸が手を打つと、真砂と武弘は魔法にかかったように動きを止め、その場は多襄丸の意のままになってしまう。手込めに遭った真砂は、多襄丸と天に抗議するように、激しく床板をたたく。木樵りが死骸は「あおむけに」倒れていたと証言すれば、舞台隅でうつ伏せに倒れていた武弘もあおむけになってしまう。多襄丸と武弘が死闘を繰り広げる間、津村が発する「一合目、二合目......」というかけ声は、多襄丸の太刀が「二十三合目」に武弘の胸を貫いたことを示す神の声のように響く。
ここで描かれているのは、おそらく歌や踊りの霊力や言霊が信じられていた世界であり、それはそのまま「能らしさ」といえるかもしれない。
また、武弘に駆け寄る真砂のまっすぐな背中や、木樵りが手を合わせるしぐさなど、死を悼む動きの美しさが、一筋の希望のように感じられた。

予備知識なしで観ても楽しめると思うが、舞台の後、原作を読み返してみたらさらにもう一度観たくなった。
きわめてスリリングで完成度の高い本作品、今後もぜひ繰り返し再演してほしい。
(2022年8月30日 宮地楽器ホール 大ホール 初演 / 再演制作 [ 2012 / 2022 ]:セルリアンタワー能楽堂 作品制作協力:スタジオアーキタンツ)

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