ジゼルの悲恋を村の悲劇として描いたピーター・ライト版の優れた演出、スターダンサーズ・バレエ団

ワールドレポート/東京

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

スターダンサーズ・バレエ団

『ジゼル』マリウス・プティパ(ジャン・コラリ、ジュール・ペローの原振付に基づく):振付、ピーター・ライト:追加振付、演出

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渡辺恭子・林田翔平 © Kiyonori Hasegawa

スターダンサーズ・バレエ団がカンパニーの芸術顧問を務めている、サー・ピーター・ライト振付の『ジゼル』を上演した。キャストはジゼルが渡辺恭子、アルブレヒトが林田翔平、そして喜入依里、池田武志のWキャストである。私は初日の渡辺/林田の公演を観ることができた。
『ジゼル』は、ジゼルという村娘と貴族の身分を隠したアルブレヒト(ロイス)の恋の顛末を描いているが、ピーター・ライトはこの出来事を葡萄の収穫祭の日に起きた村全体の悲劇として、演出振付を行なっている。
冒頭、アルブレヒト(林田翔平)は明らかにこの村で生活していない者として、従者(友杉洋之)を連れて登場する。一方、ヒラリオン(渡辺大地)はベルタ(周防サユル)と親しく挨拶を交わし、今日の猟の獲物を進呈してひとしきり会話し、果ては腕を組んで水汲みへと向かう。ヒラリオンは、この村でごく自然に存在している者として登場し、日常にすっかり溶け込んでいる。ところがベルタは、ロイス(アルブレヒトが貴族の身分を隠して名乗っている名前)に対しては、常に厳しい視線を向けている。このようにライト版の1幕の演出は、日々この村で繰り返されてきたことのディテールがそのまま表現となっており、村という共同体の中で、ジゼル、アルブレヒト、ヒラリオン、ベルタの関係がバランスよく的確に描かれている。
そして葡萄の収穫祭を祝う踊りは、男性3人と女性3人のパ・ド・シスとして踊られる。それぞれがヴァリエーションを踊り、いくつかの組み合わせによる踊りが構成されて、村という共同体がそれぞれの役割によって成立していることが表現される。そしてこの<村>は同じ価値観、同じ精神的風土で結びついていることが、舞踊として表わされる。通常このシーンは、ペザントのパ・ド・ドゥとして踊られ、祭りの余興、ディヴェルティスマンとみられることが多い。しかし、パ・ド・シスとすることにより、空間的で立体的な舞踊表現となり、良い収穫が得られるための村人たちの思想がより豊かに強調される。女性同士、男性同士、またそれぞれがペアとなり、葡萄の収穫祭として村全体の喜びの踊りとしての構造をもって、ダイナミックに踊られた素晴らしいパ・ド・シスだった。このパ・ド・シスの盛り上がりが、1幕終盤のジゼル狂気のシーンを、村人たち全体の悲劇としていっそう際立たせていている。

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渡辺恭子・渡辺大地・林田翔平 © Kiyonori Hasegawa

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前列/冨岡玲美・塩谷綾菜・石山沙央理、後列/関口啓・佐野朋太郎・飛永嘉尉(左から)
© Kiyonori Hasegawa

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渡辺恭子・林田翔平 © Kiyonori Hasegawa

2幕は、未婚のまま亡くなった娘たちの精霊が、女王のミルタを中心としてドゥ・ウィリ、コール・ドがバランス良くスピリチュアルな表現を踊る。ジゼルは身分を隠したアルブレヒトを愛したが、喜びに溢れるはずの収穫祭を大混乱に陥れてしまい狂気を孕み、ついには自身を剣で突いて亡くなった。しかし、その人、アルブレヒトをジゼルの魂は許し、愛している、と強く訴える。村の悲劇をも越えるジゼルの深い愛に、森に迷い込んだ男性に復讐を仕掛けるウィリたちを束ねている女王ミルタも思わずたじろいだ。
必死に踊るアルブレヒトもいよいよ踊り疲れ、ミルタに懇願するが拒絶されついに倒れる。ジゼルの深い愛も限界を迎えるのか・・・すると夜明けを告げる鐘の音(ここは深い森の中の墓。できたらもう少し遠くから聞こえる感じが良かったのだけれど)が聞こえてくる。
アルブレヒトが振り向くとジゼルは消えていた。そしてジゼルの墓の十字架にキスを残し、これが永遠の別れであることを知る。しかし、足下にはジゼルの残した白い花が一輪残されていた・・・。
林田翔平は熱演だった。踊り自体の中にジゼルへの深い想いがこめられているのが感じられた。渡辺恭子のジゼルは1幕では儚さを、2幕では愛のためになにものにも屈しない芯の強さを表して見事だった。
(2022年5月14日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

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榎本文(ミルタ) © Kiyonori Hasegawa

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