自然に囲まれた農村から雅な都会へ向かうまでを繊細に描いた金森穣振付『かぐや姫』

ワールドレポート/東京

佐々木 三重子 Text by Mieko Sasaki

東京バレエ団

『中国の不思議な役人』モーリス・ベジャール:振付、『ドリーム・タイム』イリ・キリアン:振付、『かぐや姫』(第1幕)金森穣:振付

気鋭の振付家、金森穣が、東京バレエ団のために、日本最古の物語といわれる『竹取物語』に想を得て創作した『かぐや姫』第1幕が世界初演された。東京バレエ団の斎藤友佳理・芸術監督が、海外ツアーで上演する日本人振付家によるオリジナル作品として委嘱したもので、昨年の勅使川原三郎による『雲のなごり』に続く2作目である。金森は『かぐや姫』を全3幕のグランド・バレエとして構想しているため、今回は完成された第1幕のみの上演になった。金森は、りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館の舞踊部門芸術監督とNoism Company Niigataの芸術監督を務めていることもあり、第2幕の単独上演は2023年4月に、全3幕の完全上演は同年10月になるという。そこで今回は、モーリス・ベジャールの『中国の不思議な役人』とイリ・キリアンの『ドリーム・タイム』という、金森の恩師たちの作品を加えたトリプル・ビルとして上演された。金森はベジャールが創設したバレエ学校で学んだ後、キリアンの率いるNDT2でダンサー・振付家としてキャリアを積んでいる。2回公演の初日を観た。

幕開きは『中国の不思議な役人』(1992年初演)。ベジャールが、"音楽を伴うパントマイム"としてバルトークが作曲した同名の曲を用いて創作したもの。バルトークの作品には、3人の悪党と、彼らに命じられて金目当てに通行人を誘惑する少女と、犠牲になる3人の男たちが登場するが、悪党たちに刺されても吊るされても死なずに少女を求め続けた中国の役人が欲望を満たして息絶えるまでに焦点が当てられている。ベジャールは、設定を変えながら原作に沿った形で展開しているが、幼い少女を襲う連続殺人鬼が追い詰められていく様を描いたフリッツ・ラングの映画『M』にも影響を受けたという。ちなみに、衣裳はフリッツ・ラングの映画によっている。

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『中国の不思議な役人』© Shoko Matsuhashi

冒頭、強烈な音楽に拮抗するような無頼漢たちの激しい群舞が一瞬にして暗黒街を現前させた。ベジャールは「無頼漢の首領」(鳥海創)を登場させたが、最大の特色は、通行人を誘う少女を女装した無頼漢が演じる「娘」に変えたことで、これにより濃密な倒錯の世界が立ち昇った。「娘」を演じたのは宮川新大で、美しく化粧し、黒いコスチュームにハイヒールといういで立ちだが、むき出しの脚は筋肉質で逞しく、その不均衡さが官能を刺激すようにも思えた。「娘」は首領に命じられるまま行動するが、すねてみたり、狂おしさのあまり狂暴に振る舞うなど、振幅の激しい演技をみせた。毛皮のパンツで大きな剣を振り回す古代人のようなイメージの「ジークフリート」(ブラウリオ・アルバレス)と、うぶで従順そうな「若い男」(伝田陽美)はあっけなく無頼漢たちの犠牲になったが、三番目に標的にされた「中国の役人」は一筋縄ではいかなかった。大塚卓は、いかにも朴訥で頑な役人というふうで、頼漢たちに何度殺されても生き返り、そのたびに「娘」への異常な執着心を募らせていった。「中国の役人」が「娘」のウィグの上に身体を横たえ、欲望を遂げて果てるというラストに、『牧神の午後』の幕切れがダブってみえたが、やはり衝撃的でおぞましい。今回が初役の大塚と鳥海にはまだ十分こなれていない部分があったが、無頼漢たちの動きは見事に統制がとれていて、迫力があった。

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『中国の不思議な役人』© Shoko Matsuhashi

次は『ドリーム・タイム』(1983年)。キリアンが作曲家・武満徹と一緒にオーストラリア北部の先住民の神秘的な祭りに触れたことから生まれた作品だそうで、この体験後に武満が作曲した『時の夢』にのせてキリアンが振付けた20分の小品である。出演したのは、裾広がりのワンピースを着た3人の女性(沖香菜子、三雲友里加、金子仁美)とパンツだけで上半身裸の2人の男性(宮川新大、岡崎隼也)の計5人だけ。女性3人が無音の状態で静かに踊り始める冒頭から抒情豊かで、男女のデュオやソロ、沖と男性2人によるトリオなどが、たゆたうような繊細な音楽にのせて連綿と紡がれていった。大自然に包まれて生きる人間の営みを温かく描いたようにも思えた。『中国の不思議な役人』という狂気を帯びた作品の後だけに、会場の雰囲気を浄化するような効果も感じられた。

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『ドリーム・タイム』© Shoko Matsuhashi

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『ドリーム・タイム』© Shoko Matsuhashi

最後に注目の演目『かぐや姫』。金森は、『竹取物語』をはじめ宮崎駿のアニメなど、〈かぐや姫〉に関するあらゆるものを参考にして独自の物語を構築した。音楽は色彩感豊かで描写性に富んだクロード・ドビュッシーで、情景に合致した巧みな選曲には感心させられた。かぐや姫とその初恋の相手となる道児の役は、初日が秋山瑛&柄本弾、2日目が足立真里亜&秋元康臣で、翁の役は金森の強い希望で両日ともバレエ団団長の飯田宗孝が務めた。幕開け、舞台左手の翁の粗末な小屋には、ちゃぶ台や嫗(おうな)の位牌が置かれた箪笥があり、孤独な暮らしぶりがうかがえる。また、花びらが舞う映像から季節は春と感じられた。翁の飯田が背負子を担いで竹取りに出掛けると、舞台は満月に照らされた海に転じ、交響詩「海」第1楽章にのせて、緑の精たちの女性群舞が繰り広げられた。滑らかな腕や上体の動きが激しくなり、波打つ様を精妙なポワントで伝えたかと思うと、今度は動きが直線的になり、屹立する竹やぶへと変容し、翁を迎えることになる。金森は、海は生命の源であり、潮の満ち干きは月の引力に左右されることから、海を月のメタファーと捉えており、それだけに海を象徴する緑の精の群舞を重視したようで、緻密に織りなされていた。ポワントを強調した動きは人間の力の及ばない自然のダイナミズムを表しているようにも思えた。翁が光る竹の中から見つけた掌にのるような小さな姫を抱いて家に帰ると、姫はまたたくまに成長するが、その様を障子に映る影でユーモラスに見せた。成長したかぐや姫が勢いよく障子を開けて現れるところまでがプロローグだった。

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『かぐや姫』© Shoko Matsuhashi

第1幕で季節は夏に移り、農村の素朴な生活や、童たちのわんぱく振り、かぐや姫と道児の出会いと恋、嫉妬する翁との確執などが手際よく描かれていき、竹やぶで財宝を見つけた翁が、かぐや姫を着飾らせて共に都へ旅立つところで終わる。かぐや姫の秋山は、最初はやんちゃな野生児そのものだったが、自分をかばってくれた道児が気になり、その優しさに触れて心を慰められ、身を委ねるが、そうした微妙な心の変化や精神的な成長をきめ細かく表現していた。道児の柄本は、孤児ゆえに意地悪されたりこき使われたりしても意に介さず、むしろ気配りするような人の好さをにじませた。踊りのクライマックスは、惹かれ合う2人が月夜に踊るパ・ド・ドゥで、柄本は、たおやかに身をしなわせる秋山に恭しく接し、大切な宝物のように彼女を優しさで包みこみ、高いリフトで2人の心の高揚をうたい上げた。ここで用いられたドビュッシーの〈月の光〉は何と甘美に響いたことか。夢心地で聴いていた。

翁の飯田はさすがに存在感があり、少ない動作で的確に感情を伝えていた。かぐや姫と道児の仲を裂くのは嫉妬からとしたのは面白く、また「金欲にあらがえない貧しい竹取」という翁の設定も興味深い。その欲深さがどのような事態を招くかは第2幕以降で顕著になるのだろう。第1幕の終盤に、翁が竹やぶで金貨や反物を見つけるのを見た村人たちが財宝目当てに竹を切り倒し、竹やぶを破壊してしまう場面が組み込まれていたが、これは欲望が環境破壊を招くという今日的な問題を示唆してもいる。第1幕は、道児が自分のところに走ってきたかぐや姫が翁により都へ連れ去られるのを涙して見送るシーンで幕となるが、「亜麻色の髪の乙女」にのせて描かれるこの〈別れ〉の場も多分に示唆的だ。かぐや姫の着物は豪華だが窮屈そうでもあり、靴もトゥシューズに履き替えており、乗せられた輿は鳥かごを思わせたし、宮廷から招いた秋見という教育係も付けられた。自然に囲まれ伸び伸びと暮らしてきたかぐや姫に、どのような生活が都で待ち受けているのか。第2幕が待ち切れない終わり方だ。舞台が貧しい農村から雅な都に移れば、地方と都会の格差といった現代に通じる問題も浮き彫りにされそうだし、人間関係も複雑になりそうだ。金森の作品はスケールが大きく奥が深いだけに、『かぐや姫』がどのように展開されるのか、期待は膨らむばかりだ。
(2021年11月6日 東京文化会館)

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『かぐや姫』© Shoko Matsuhashi

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『かぐや姫』© Shoko Matsuhashi

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