危機の中にこそある凄惨な美しさ <勅使川原版「羅生門」>

ワールドレポート/東京

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

勅使川原三郎版『羅生門』

勅使川原三郎:構成・演出・振付、芥川龍之介『羅生門』より

勅使川原三郎 構成・演出・振付・照明・美術・音楽構成の新作ダンス『羅生門』が、8月6日〜8日、東京芸術劇場プレイハウスで上演された。出演は勅使川原三郎、佐東利穂子、そしてハンブルク・バレエ団のプリンシパル、アレクサンドル・リアブコ。芥川竜之介の名短編『羅生門』に想を得た作品だ。

勅使川原版『羅生門』には、3人の人物が登場する。主人に暇を出された「下人」と、羅生門の楼上で死人の髪を抜く「老婆」、そして羅生門に巣食う「鬼」だ。ただし、誰がどの役を演じるというふうに決まっているわけではないと、記者会見で勅使川原は語っていた。

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photo by Akihito Abe

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開幕当初から、舞台上は非常事態の緊迫感に満ちていた。わんわんとサイレン音が鳴り響き、床にはぼろくずのような、死体のような何かがいくつも転がっている。照明は薄暗く、横たわったダンサーなのか、舞台美術なのかも判然としない。戦場か被災地のような凄惨な現場にいて、周囲の状況を正視できない、そういった雰囲気だ。

そこへ突如「鬼」が現れる。リアブコだ。何も説明はないが、たしかに鬼だ。舞台の真ん中に出現し、荒れ狂っている。たくましく凶暴な動きは、死人をむさぼり食っているようにも見えるし、冷酷無比な悪党が己の力を誇示しているようでもある。舞台の隅で、おびえた表情で事態を見守る勅使川原は、こんなところにいたくはないが他に行き場のない「下人」だろう。

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ふっと照明が切り替わると、鬼や下人の姿は消え、長い髪を振り乱し、白い衣をひきずり、手をつないだ女たちの姿がぞろりと現れる。まるで中世の絵画に出てくる「死の舞踏」のようだ。不意をつかれて、最初映像かと思った。微動だにしない上、紗幕を使った照明のマジックで半透明に見えたからだ。再度の暗転で彼女らは消え失せ、舞台は羅生門下の情景に変わって、佐東の静かな声で朗読が始まる。
「ある日の暮方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。......」
勅使川原自身が手がけた照明も、シンプルな衣裳や美術も洗練されている。

「下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである」。

下人は、生きるために盗人になるかどうか迷っている。迷いを描写する芥川の言葉はぐるぐると行ったり来たりし、言葉とともに踊る勅使川原の動きも、行きつ戻りつを繰り返す。一歩進み、引き返し、体を触り、なで返し、ひねった体を反転させて元に戻る。そのスピードが極限まで上がってゆく。言葉の響きやエネルギーが、彼の体を隅々まで、自由自在に動かしているようだ。下人は生きるか死ぬかの大問題で悩みつつ、頬にできたにきびも気にしている。そんな「下人」を踊る勅使川原の動きは、滑稽さもありつつ強靱で、絶対にただでは死なない、と思わせるすごみがあった。

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羅生門の楼上で、下人は死人の髪の毛を抜く老婆と出会う。佐東=老婆の抜いていた髪の毛がずるずるっと動き出すシーンはすばらしく気持ち悪い。死人(の髪の毛)や前述の「死の舞踏」を演じた女性ダンサーたちの動きは隙がなく、緊迫感を高めていた。
死人の髪をかつらにして売るのだ、生きるためには仕方のないことだという老婆の言葉に、下人は覚悟を決める。

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「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ。」

それまでの卑屈さをかなぐり捨てて老婆を突き倒し、奪った着物をひらめかせて闇に消える下人=勅使川原は、颯爽たる悪のヒーローにすら見えた。

勅使川原が去った後に、冒頭では「鬼」を思わせる存在だったリアブコが一人、力強く踊り出すと、老婆として倒れていた佐東が、彼に吸い寄せられるように共に踊り始める。物語は逆にここから始まるのだと感じさせる展開だ。振りはユニゾンだが、リアブコの動きはソリッドでたくましく、佐東は水のようになめらかで女性的だ。たとえばチェロと日本の横笛のように、まったく違う楽器が同じ旋律を歌っているように美しい。

そのリアブコが、今度は「鬼」に襲われる。これまた照明のマジックと、恐ろしく俊敏な勅使川原の動きにより、何もないところから出現した鬼が、いきなりリアブコの首っ玉に食らいついたように見えた。
盗人になった後の下人(リアブコ)が羅生門に巣くう鬼(勅使川原)に襲われたとも見えるし、善悪の境を越えてしまった下人(勅使川原)が鬼と化し、欲望のままに他者を襲っているともとれる。なんにせよ、勅使川原の「鬼」はただならぬ妖気の固まりで、非常に怖かった。

ラストシーン、真っ白な衣裳を来て夜明けの空の下に立ち尽くす佐東は、まるでひとりぼっちの少女のよう。老婆の昔の姿なのかもしれないし、長い苦しい生活に漂白された老婆の魂なのかもしれない。彼女は静かにその場に倒れ、また起きあがる。彼女の吐息そのもののように、宮田まゆみが奏でる笙が鳴る。佐東の透明感あふれるたたずまいは忘れがたい。

前述の記者会見で、勅使川原は「危機の本質に近づき、立ち向かうことがダンスすること」「困難は、私にとってとても面白い状況なのです」と語っていた。たしかに、コロナ禍によるギリギリの状況は鼻先まで迫っている。自分に降りかかってさえいなければつい見ない振りをしてしまう危機を「面白い」と言い切ることは難しいが、それこそが芸術家として誠実な姿勢かもしれない。勅使川原はやはり芸術の「鬼」だと思う。

また、「体の内側に生まれたものを外側に向かって伝える」という勅使川原独自のメソッドにはじめて挑戦し、限られた日程の中で、観客に響くスケールの大きな表現にまで高めたリアブコにも拍手を送りたい。
(2021年8月7日 東京芸術劇場プレイハウス)

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photo by Osamu Awane / STAFF TES

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