イスラエル・ガルバン『春の祭典』、音楽そのものが踊るということ

ワールドレポート/東京

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

Dance Base Yokohama

『春の祭典』イスラエル・ガルバン:演出 振付 ダンス

がくん、とガルバンの動きが止まったとき、「あ、終わりだ」という感覚と「何かすごいものを観た」という違和感みたいなものが同時にやってきて、どう反応していいのかわからなかった。体がうまく動かない。熱のこもった拍手がゆったりとわき起こり、前列の観客が何人か立ち上がり、横も後ろも徐々に立ち上がって、どおっ、という嵐のような拍手になった。
ロビーで興奮気味に会話をかわす人たち。劇場の外でフラメンコみたいなステップを踏んでいる女の子。駅に向かうと、パンフレットを手にした二人連れの青年が、ぼそぼそと話しながら前を歩いていた。一人は黒い楽器ケースをもち、「和声が」云々、と話していたから音大生だと思う。聞こえたのは「やばいよな」という言葉だった。

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写真提供 Dance Base Yokohama ©️Naoshi Hatori(すべて)

前置きが長くなったが、観たのは6月20日、KAAT 神奈川県芸術劇場公演の最終回。開演前から、客席の静けさは独特だった。何が起こるのか、皆が固唾を呑んで見守っている感じだ。
新型コロナ禍でガルバン来日の予定はなかなか立たず、チケット発売日から初日まではわずか18日間だったという。そんな厳しい状況にも関わらず、客席はほぼ埋まっていた。
舞台の上に、何か木製の装置が立てかけてあるなと思ったら、それはピアノの中身だった。仰向けに寝そべったガルバンが、ピアノの弦を足で鳴らす。足での操作とは信じられないくらい、美しく澄んだ音。そしてひずんだ暴力的な音が次々と鳴らされる。。ガルバンは右足に赤い靴下を履いている。ピアノと一体になっているようでもあるし、足でピアノを犯し、悲鳴をあげさせているようにも見える。今、見てはいけないものをものを見ている。そう思っているうちに、ガルバンは内股でぐっと腰を落として立ち、頬に手をあてた。さらに、天から落ちてきた何かを食べるような不思議な動き。明らかにニジンスキーを思わせる振りだが、ただの真似ではない。大昔からある、天と地を縫い合わせるために必要な動きなんだというくらいの、有無を言わせぬ説得力がある。そして、地下深くへくさびを打ち込むように、激しく足を打ち鳴らす。盛り上がったたくましい背中が黒い牡牛のようだ。

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統合プロデューサーの唐津絵理によるインタビューによれば、ニジンスキー振付のオリジナル版『春の祭典』にはすでにサパテアード(スペイン・アンダルシア地方の踊り。8分の6拍子で足拍子をとる)の動きが入っており、ニジンスキーは彼のフラメンコに決定的な影響を与えたという。オリジナル版『春の祭典』は、春の到来を祈るいけにえの儀式を描いた作品だ。ガルバンは「赤い靴下は血の赤を象徴するものとして取り入れています」とも語っていた。この人は本気でそういった儀式をやろうとしている。その気迫を、客席にいた誰もがいやおうなく感じさせられたと思う。
その間に、日本の若きピアニスト、片山柊と増田達斗がピアノの前にスタンバイした。二台のピアノ版『春の祭典』は、日差しが移ろって春の兆しを感じさせるように、ゆったりと始まる。ガルバンの奏でる巧妙なリズムが、ピアノの音色とデリケートに絡まってゆく。やがてあの「ダ・ダ・ダ・ダ・ダ・ダ」という強烈な打鍵が始まる。舞台上に置かれている板や桶のようなものは、ただのオブジェではなく、ガルバンの体と一体となって鳴り響く楽器だった。鋭く乾いた音、皮を緩めに張った太鼓のような重低音、砂を踏みしだくざらついた音。ガルバンと二台のピアノは、比類ない正確さで『春の祭典』の音楽を織り上げていく。

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一人のダンサーと二人の伴奏者、ではない。『春の祭典』という危険な難曲を介した三人のセッションだ。しかも聴いて単純に乗れるような音楽ではないのに、体の奥が揺すぶられてガクガクと踊っているような気がする。なんなんだこれは!? と思っているうちに、ガルバンは時折すっと舞台を離れて、靴を脱いできたり、衣裳を変えたりする。黒い長いドレスをまとい、まったく足音を立てず、滑るように二台のピアノの間を行き交うガルバンは少し妖怪めいていた。ピアニストたちは彼の気配を背中で受け取りつつ、一歩も引かずに演奏を続ける。彼がいすに座り、そのまま足を踏みならし始めた瞬間、昔、映画『バルセロナ物語』でこんなシーンを見たなと思う。そうだ、ゴッドマザーみたいな伝説のダンサー、カルメン・アマーヤだ。
記者会見で『春の祭典』とフラメンコの共通点について質問されたとき、彼は「踊っていると自分の中に『変容』が起きること」と答えていて、そのときは内面に変化が起きるという意味かなと思っていた。違った。本当に体が変わるみたいなのだ。なんでそんなことになるのかよくわからない。フラメンコとはそういうものだとガルバンは言うだろうか。

二台のピアノ版『春の祭典』による第一部が終わると、思い出したようにため息がもれた。第二部の楽曲は、武満徹の『ピアノ・ディスタンス』と、増田達斗作曲の『ピアノのためのバラード』。『春の祭典』のイメージから、ピアニストの片山と増田がガルバンに提案し、三人で選曲した作品だという。『春の祭典』の後ではどんな曲も物足りなく聞こえるんじゃないかと心配していたが、それはまったくの杞憂だった。

まずは、片山による『ピアノ・ディスタンス』。ガルバンは黒いロングベストを羽織って現れた。私はまたあれっと思った。筋肉質でずんぐり、がっしりした体型だったはずのガルバンが、すらりとした美青年に見えるのだ。若々しいエネルギーと実験精神が『春の祭典』に通じる、と片山が語っていた『ピアノ・ディスタンス』は、とてもカッコいい曲に思えた。これみよがしに技巧を見せつけるわけではないが、静かに挑戦的だ。ガルバンの超高精彩ステップと、腹に突き抜ける片山の和音が目に見えない闘いを繰り広げている。私は時代劇によくある、「風の中で二人の剣豪がすれ違う」シーンを想像していた。白刃一閃、どちらかが倒れたかと思いきや何事も起こらず、「おぬし、できるな」と一言交わして去っていく、そんな感じだ。

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二曲目は、増田自身が作曲した『ピアノのためのバラード』。増田がロマン派の作曲家たちから受け取った、むきだしの欲望やエネルギーを詰め込んだという力強い楽曲である。ガルバンと増田が派手に切り結ぶ一騎打ちのようでありつつ、互いを引き立て合うリスペクトも感じられる。ガルバンはいすに座ってくるくる回ったり、連続回転ステップで移動したりと、円運動をたくさん入れて踊った。彼がこの曲から、水の流れや波紋のようななめらかさを受け取りつつ踊っていることがよくわかった。

前述のインタビューで、ガルバンは、「第一部『春の祭典』は闘い。具体的には、広場で闘牛を殺すことをイメージしています。その傷を癒すのが、水のような存在の日本の楽曲です。緊張の後に訪れる完全なる自由を表現することになるでしょう」と語っていた。第二部も「闘い」に思えたけれど、互いに豊かになるための命がけの遊びという印象だ。自然発火しそうな高次元のセッションに頭がくらくらした。

こうして、終演後もぼんやりして拍手すらする気にならないという冒頭の状況に至ったわけだが、その後すばらしいアンコールもあった。ガルバンが片山と増田を伴って再登場し、『春の祭典』の一部を使ってインプロビゼーション(即興)を披露してくれたのだ。ガルバンはニジンスキーのポーズを取り入れてユーモアたっぷりに踊った。先ほどまで若武者のようにガルバンと渡り合っていた片山と増田は、こういった即興パフォーマンスには慣れていないようで、少し照れながら弾いていた。二人に目で合図をし、照明にも指示を出しながら踊るガルバンは、彼らの年長の親友のようにも、「お父さん」みたいにも見えた。アンコール後、私はやっと魔法が解けたように立ち上がり、惜しみない拍手を送ることができた。

公演後、SNS上には熱く深いレビューが数多くアップされ、その反響は長く続いた。しかも、どこかから借りてきたような言葉で書いたものはひとつも見かけなかった。それはきっと、ガルバンのダンスが心身に直接響く音楽そのものだったからだと思う。
(2021年6月20日 KAAT 神奈川芸術劇場〈ホール〉)

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写真提供 Dance Base Yokohama ©️Naoshi Hatori(すべて)

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