文筆を通じて思考を深め、精神と拮抗するよう肉体を鍛え、究極の行動を起こした三島由紀夫を描いた『M』、ダンサーの意欲が溢れる充実した舞台だった

ワールドレポート/東京

佐々木 三重子 Text by Mieko Sasaki

東京バレエ団

『M』モーリス・ベジャール:振付/美術・衣裳コンセプト

20201024_M_2Y8A4044_photo_Kiyonori-Hasegawa.jpg

© Kiyonori Hasegawa

東京バレエ団が、三島由紀夫の没後50周年を記念して、モーリス・ベジャールが三島の生涯や文学、美学をモチーフに創作した『M』(1993年初演)を10年ぶりに上演した。『ザ・カブキ』(1986年)、『舞楽』(1988年)に続き、ベジャールが東京バレエ団のために振付けた記念碑的な作品である。東京バレエ団にとって至宝のレパートリーだが、初演から四半世紀も経っている上、久々の上演でもあり、作品を万全な形で継承するため、元モーリス・ベジャール・バレエ団の小林十市をはじめ初演時のダンサーたちの指導を仰ぎ、キャストをほぼ一新して臨んだ。特に、小林は当時ベジャールの振付アシスタントを務めていただけに、貴重な助言を得られたに違いない。主役である三島の4人の分身を演じたのは、「 I -イチ」が柄本弾、「II -ニ」が宮川新大、「III -サン」が秋元康臣、「Ⅳ-シ(死)」が池本祥真で、三島が理想とした官能性や純粋性を象徴する「聖セバスチャン」役の樋口祐輝を含め、皆、『M』の初演を見ていない世代である。だが、作品のキーパーソンとなるこの5人の卓越した演技により、『M』は一層、輝きを増したように思えた。

それにしても『M』は、多くの"謎"を秘めた作品である。タイトルの『M』は、三島を指すだけでなく、モーリスの、そして音楽を担当した黛敏郎を指してもいる。さらに、生の象徴である〈La Mer〉(海)と、〈La Metamorphose〉(変容)、〈La Mort〉(死)、〈La Mythologie〉(神話)という、Mで始まる4つのフランス語を軸に、三島の生涯や思想を描いたものとも指摘されている。また、プロダクション・ノートによれば、ベジャールは全体を〈言葉〉〈精神〉〈力〉〈行動〉というプロセスに沿って構成したようだ。つまり、三島はまず言語による表現力を磨き上げ、文筆を通じて思考を深め、精神と拮抗するよう肉体を鍛え、究極の行動を起こしたと捉えたのだろう。
舞台は潮騒のシーンに始まり、『仮面の告白』や『鹿鳴館』『鏡子の家』『金閣寺』『憂国』『豊穣の海』など三島の代表作を連想させるシーンを連ねて三島が切腹に至るまでをたどり、冒頭の潮騒のシーンに還り、輪廻転生を暗示するように終わる。タイトル同様、多義的なメッセージを内包しているだけに、深淵で難解な印象はあるものの、ダンスの持つ圧倒的なパワーや、日本の伝統美の描写、意表をついた舞台転換に目を奪われているうちに、ドラマはどんどん進展し、いつしか終幕を迎えていた。謎解きなどできるわけがなく、逆に謎の迷路に入り込んでしまった感がある。作品のスケールがそれだけ壮大だということだろう。

20201024_M_2Y8A4071_photo_Kiyonori-Hasegawa.jpg

© Kiyonori Hasegawa

改めて舞台を振り返ってみたい。波の音が舞台に響き渡り、薄緑の衣裳の女性たちが波を思わせるように腕や上体を動かす導入部に続き、祖母に手を引かれて登場した少年の三島が「イチ、ニ、サン」と叫ぶと、祖母を演じていた「シ」がカツラと着物を脱ぎ棄てて「シ」と叫び、少年(大野麻州)を机に向かわせる。「イチ」「ニ」「サン」も現れて4人の分身がそろうが、これは『鏡子の家』で三島が自身を4人の青年に分けて描いたとされる手法に拠ったのだろう。他の分身たちと異なり、祖母として登場した白塗りの顔の「シ」は少年の導き手となり、『鹿鳴館』のシーンでは朝子を演じ、『金閣寺』では放火する学僧になるといった具合で、要所でドラマを推進した。狂言回し的なところもある難しい役を、池本は冷静に的確にこなしていた。「イチ」の柄本、「ニ」の宮川、「サン」の秋元には、「シ」のような特別な性格付けはないが、皆、バレエ団のトップダンサーだけに、張り合うようにジャンプし、逞しくポーズを取り、瑞々しい身体能力を発揮した。それが表面的ではなく、精神性に裏打ちされていたのは、さすがだった。

5人目のキーパーソン、「聖セバスチャン」が登場するシーンの演出は凝っていた。弓矢を持った袴姿の男が現れ、静寂が支配する中、弓道の所作にのっとって弓を射るまで十分すぎるほどの時間を掛けた。武道に限らず、書道や華道、茶道などの習い事を、高度の精神性を伴う芸術として敬う日本の文化を伝える一コマだろうか。弓が放たれると、舞台中央奥の的板が裏返り、聖セバスチャンの樋口が現れるという仕掛け。それも、三島が魅せられたグイド・レーニが描いた『聖セバスチャンの殉教』の絵のように矢を射られたポーズで、ドビュッシーの同名の曲のファンファーレが鳴り響くのと同時に現れるのだ。ソロを踊る聖セバスチャンを映し出すように、上方から大きな円形の鏡が吊るされた。樋口は、一瞬なよやかな表情を顔に浮かべ、均整の取れた裸身をさらすように踊った。この大きな鏡の下に、4人の分身たちも入り、『禁色』のオレンジ(沖香菜子)、ローズ(政本絵美)、ヴァイオレット(伝田陽美)の女性たちも加わり、互いに絡み合って踊る様は、実像と鏡の中の上から俯瞰する虚像とが反応し合い、現実と虚構の世界を奇妙に混濁させた。この後にも樋口はソロを踊ったが、肉体を誇示するような輝かしく勇ましいソロと、吊るされていた幕が落とされ、床全面を覆ったその幕の上での、魂の懊悩を絞り出すように踊ったソロとが鮮やかな対比を成した。樋口の渾身の演技だったろう。なお、少年の三島を演じた大野は、動きで見せる部分は少ないものの、凛としてポーズを保ち、「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」と堂々とそらんじるなど、要所で存在感を示していた。

20201024_M_7Y1A0732_photo_Kiyonori-Hasegawa.jpg

© Kiyonori Hasegawa

「海上の月」は、月や海のシンボルに加え、母性を含めた女性性も象徴するのだろう。純白の衣裳に身を包んだ金子仁美は、たおやかな身のこなしで全てを包み込むように受け入れ、また母として少年に優しく寄り添っていた。対照的に、「女」を踊った上野水香は、白と黒のレオタード姿で、鋭く脚を振り上げ、バネのように身体を操り、イメージではない現実の女性像を提示したようにみえた。雅な衣裳でワルツを踊る『鹿鳴館』の男女、褌姿の男性ダンサーが数珠繋ぎに現れて練り歩くシーン、肉体改造に励み勇ましく踊る男たちなど、変化に富んだ群舞が展開されたが、終盤近く、楯の会の制服姿の男たちが満開の桜の枝を手に入場してくると、緊迫感が走った。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」の官能的な調べが響き渡り、桜吹雪が美しく降り注ぐ中、少年の三島は切腹する。すると、シャンソン「ジャタンドレ」(待ちましょう)の歌声にのって、それまでの登場人物が次々に現れ、「シ」が少年の腹から血を象徴する赤いリボンを取り出し、そのリボンで人々を結び付けていった。感動的なクライマックスの余韻に浸っているうち、舞台は冒頭の潮騒シーンに回帰し、静かに終わった。この幕切れから、死は終わりを意味するものではなく、そこから新たな何かが始まるのだ、というメッセージが伝わってきた。そしてまた、『M』に盛り込まれた三島に関する様々な断片的なエピソードを寄せ集めて、どのように三島のタブローを完成させるかは、見る人それぞれに任されていることも伝わってきた。確かに『M』は、単純に見て終わりという作品ではなさそうだ。それにしても、今回の『M』の公演は、初演時の原点から見直して臨んだだけに、ダンサーたちの意気込みが踊りにも反映され、記念公演にふさわしい充実した舞台になっていた。
(2020年10月24日 東京文化会館)

20201024_M_7Y1A0842_photo_Kiyonori-Hasegawa.jpg

© Kiyonori Hasegawa

記事の文章および具体的内容を無断で使用することを禁じます。

ページの先頭へ戻る