偉大な舞踊歴史学者、アイヴァ・ゲストを偲んで

ワールドレポート/東京

安達 哲治 Text by Tetsuji Adachi

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偉大な舞踊歴史学者、アイヴァ・ゲストの追悼式典が2018年9月26日にロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスの本拠地、ロンドンのバターシースクエアーで開催された。
バレエに携わる者にとって知っているべき人、忘れてはいけない人、それは舞台の上に立つスターのみでなく、裏で舞踊の本質とは何か?真実はどうだったのか?に一生を捧げた人である。バレエをより豊かに味わいあるものにし、「舞踊史のバイブル」をわれわれに与えてくれたこの人の死は大きな意味を持っている。この人こそ2018年に97歳で亡くなられた舞踊歴史学者、アイヴァ・ゲストである。
2017年に亡くなられたわれらが薄井憲二(前バレエ協会会長)が、日本における舞踊史研究家として多くのことを提言し、また収集した文献により、過去の真実にせまり今をどうすべきかを教示してくださっていたが、まさしくアイヴァは世界のアイヴァとしてわれわれの行くべき道標を示し続けている舞踊歴史学者なのだ。
そしてそのアイヴァ・ゲストを追悼する一冊 "A CELEBRATION FOR IVAR GUEST "が、ダンスブック社社長ディヴィット・レオナルドによって出版(非売品)された。

その中で家族がアイヴァの一生を語っている。
1920年のケント州チスルハーストで生まれ、ケンブリッジ大学で法学を学び1940年英国陸軍に召集されすぐ師範となる。ポツダム宣言の折はチャーチルの執務にあたるエリートだった。その後、パリ任務の折パリ・オペラ座のライブラリーで余暇を楽しんだ。それこそがダンスの歴史の研究であって、天職を得たかのように没頭し、ついにはパリ・オペラ座から公式の委託まで受け、滅びかかったバレリーナの愛を蘇らせた。それはロマンティック・バレエ時代の最も有名なバレエリーナの一人ファニー・チェリート(『パ・ド・カトル』初演のメンバー)の舞踊と人生を掘り下げたことだった。これを契機としてアイヴァは、舞踊の発見の旅をスタートさせ、親の反対も押切り、舞踊史の研究家となる。
ロンドンに戻ったアイヴァはロンドンのライブラリーでさらに舞踊史のリサーチを続け、10年間に10冊の著書を著す、と言う驚くペースでバレエの過去を作り直すことにロマンを注いだ。その後、妻となるアン・ハッチソンとブルノンヴィルの研究で出会い1962年に結婚する。このアンもラバノテーション(舞踊譜)の権威者であり、本年100歳だが現役として活躍している。
アイヴァは1969年から23年間ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンス(RAD)の議長を務め、2018年に亡くなるまでに何と32冊ものダンスの歴史の本を執筆している。
この"A CELEBRATION FOR IVAR GUEST "は、元英国ロイヤル・バレエ団ディレクター、モニカ・メイソンはじめ英、仏、スペイン、米国、カナダ、ニューメキシコ、デンマークなどの舞踊評論家、大学教授、図書館長などが、彼のあくなき研究の偉業をたたえ、哀悼を捧げた本である。私は残念ながら追悼式には都合で参加できなかったが、コメントで本書に哀悼を捧げた。

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左からアイヴァ、マイケル、安達

私とアイヴァとの出会い。
私は文化庁の在外研修員として1993年10月下旬にロンドンに旅立った。ヒースロー空港に着くと10月と言うのに大変寒く、周りの人たちもすでに革ジャンを身に着けていた。不安と期待と寒さの中、"Tetsuji"と叫ぶ声が聞こえた。迎えてくれたのは初めて会うマイケル・ゲスト(当時アイヴァ・ゲストの弟とは知らなかった)だった。夕食をレストランでごちそうになり、マイケルの住むリージェントパークのそばのフラットで下宿をスタートした。マイケルを紹介してくれたのは、メルボルンで活躍していた舞踊家レックス・リード。レックスはオーストラリア人だが10歳と言う若さで、英国ロイヤル・バレエ学校に奨学金を得て学び、近所に住でいたマイケルと遊び仲間から無二の親友となった。英国で踊った後メルボルンに戻り、後期バレエ・リュスの時代に活躍している。だから彼は、ストラヴィンスキーやジャン・コクトーなどとも仕事をしている。私は彼と日本で初めて会い、尊敬できる舞踊家として親交を深めてきた。そんな時、私が英国ロイヤル・バレエ団で研修する旨を伝えると、マイケル宅に下宿することを取り付けてくれた。
いよいよ、ロイヤル・バレエの研修初日。ステージドアから入り研修承諾書を提示したが、今日はディレクターのアンソニー・ダーウェルがいないため許可できないと言われ困惑していたその時、何とボリス・アキモフ(牧阿佐美バレヱ団でゲスト教師だった)がこの場に現れた。「アー君どうしたの?」研修するのに入れなくて困ってると言うと、「俺についてこい」。すんなり入れた。偶然にもその日からアキモフのクラスだったのだ。
そんなこんなで1週間が過ぎたころ、突然マイケルのフラットにマイケルの兄アイヴァが妻アンと私を訪ねてきたのである。多少、英語の能力のこともあり緊張したが、アイヴァは穏やかで品よく包容力のある笑顔でバレエのことを問いかけてくれた。その時初めて、二人のゲストの兄弟のやり取りで、かの有名なアイヴァであることを理解した。一方、妻のアンはラバノテーションの権威者でテキパキとしたものをいう才女。お互いの会話はブレンドされ素敵なカップルという印象を持った。
結局、二度も夫婦で訪ねてくれ、フランス・バレエについての歴史の一端を話してくださった。またお宅にも招待してくださり、アンから舞踊譜を学び、テストをされて、冷汗をかいたことも懐かしく思い出される。
私が、次にイヴェット・ショヴィレがアレンジしてくださったパリ・オペラ座バレエで研修することを伝えると、ショヴィレにも何度も歴史の整合性を図るためお会いしたので、会ったら宜しくと伝えくてださいと伝言を授かった。またプレゼントとして限定版のドガの絵にコメントを付けていただいた。ドガの時代は、ロマンティック・バレエの時代も終わりに近づき男性のダンサーが描かれていないこと、唯一、この中に描かれた男性はジュール・ぺロ―であることを教えてくださり、"テレプシコレ(舞踊の神様)の庇護のもとジュール・ペローに続く芸術家になってほしい"、とコメントを付けてくださった。私は今も、このコメントを心の糧にし活動のエネルギーとしている。その後、私がNBAバレエ団芸術監督の折にも、古典作品の歴史的アドヴァイスをいただき、どのように向かっていけばよいか指針を示していただいてきた。

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バレエの伝統と革新、これは矛盾するものでなくお互い育むもの。
古い古典バレエは正しい記録があるものは少なく、メモやその時代の社会や芸術的動向そしてその時のトレーニング法などから近づいていかなければならない。これから、革新に向かうにしてもその社会や作品を冷静に見つめ直すことで理解できるし発見もできる。革新もどきは自己満足に終わってしまうことになる。
アイヴァ・ゲストが人生をかけて著した膨大な32冊ものバレエ書は、永遠に舞踊が豊かであることを理解し、そこから新たな問いを見つけてほしいと願っていると思われる。そしてバレエの真の革新を生むためにも!

著書の一部を紹介しておきます。
1953 The ballet of Second Empire
1954 The Romantic Ballet in England
1960 The Dancer's Heritage
1965 A Gallery of Romantic Ballet
1966 The Romanntic Ballet in Paris

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