華麗なダンス表現のテクニックと抽象的な美術の融合により、カミーユとロダンの愛の真実に迫った

ワールドレポート/東京

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

エイフマン・バレエ

『ロダン〜魂を捧げた幻想』ボリス・エイフマン:台本・振付・演出

エイフマン・バレエの『ロダン〜魂を捧げた幻想』を観た。
今回の久方ぶりのエイフマン・バレエ日本公演の初日は「ロシア文化フェスティバル2019 in Japan」のオープニングとなっていて、諸々の挨拶があり、芸術監督のボリス・エイフマンも登壇した。21年ぶりの日本公演であり、かつての精悍な挑むかのような面持ちから、少し白いものも混じった髭の中から好々爺とも見え、また少し疲労感も感じさせるふたつの瞳が日本の観客を見ていた。

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撮影/瀬戸秀美(すべて)

エイフマンは41年間にわたって自身のカンパニーを率いている。前回の日本公演は1998年で、当時はレニングラード・バレエ・シアターだったが、都市の名前そのものが変わってしまい、今は自身の名を冠したカンパニー名となっている。かつては1990年から2年毎に日本公演を行なっており、『巨匠とマルガリータ』『白痴』『カラマゾフ』『赤いジゼル』『チャイコフスキー』ほか、意欲的な話題作を次々と上演してきた。当時は、アメリカのアルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターとロシアのエイフマンのカンパニーは、見上げるような長身に小顔で、らくらくと超絶技巧を披瀝してもそうとは感じさせない、一際、運動能力に優れたダンサーたちが多く踊って、バブル景気の余波に浮かれる日本の観客を驚愕せしめたものだった。時は移りアルヴィン・エイリーのカンパニーの来日は途絶えているが、エイフマンは21年ぶりに日本公演にやってきた。
20世紀には、モーリス・ベジャール、ローラン・プティ、アルヴィン・エイリー、マーサ・グラハムなど自身の名を冠したカンパニーを持ち、ほとんど自身の振付作品のみを上演するいわゆるインプレサリオ的振付家たちが「舞踊の時代」とも言われたこの世紀の主役だった。21世紀の舞踊界はそれとは異なった様相をみせてはいるが、独特の魅力的な作品世界を精力的に展開していることから言ってもボリス・エイフマンは、その生き残りと言っては失礼だが、最期の一人と言っても過言とはなるまい。

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『ロダン〜魂を捧げた幻想』のホリゾントには、細いライトをつけたV字型の木組みが組まれ、長方形が太いラインと細いラインで配されていた。天からは階段状にだんだん長くなる灯りが吊るされている。この抽象的な背景をシルエットにしたり、バックライトで浮かび上がらせたり、沙幕で隠して暗い舞台を作ったりして変化をつけ、登場人物の心を映しドラマは進行していく。
登場人物は、ロダンと彫刻家であり愛人でもあった女弟子のカミーユ・クローデル、そして妻のローズ・ブーレの三人に絞り込まれている。他はコール・ド・バレエとして、外界の動静や主人公の内面を描く。
オープニングでは、ベビーキャップとベビー服を着た背の高いコール・ド・バレエが、大きな輪になってぐるぐる回っている。心に異常をきたし療養中のカミーユ・クローデルを、師であり深い関係にあったロダンが見舞いにきているところ。そしてロダンのカミーユをめぐる回想からバレエは始まった。

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ロダンの彫刻を造る作業現場には素材が次々と運び込まれ、多くの弟子たちが活発に働き、活気が溢れている。手で回転できる円形テーブルの上に、人体彫刻のモデルを載せ、ロダンがあちこちの関節にあらゆる角度を与え、様々なポーズをとらせる試みが執拗に繰り返される。また、ブロンズの大きな塊の中にはダンサーが屈み込んでいて、鑿を振るって削ると、次第にポーズをとった人体が現れてきて、彫刻作品が出来上がっていくという印象的なシーンがあった。ここ彫刻の作業現場では人間が協力して人型を作り、その機能や運動性、美しさ、存在感を現していく。彫刻という芸術とそれを作る人間の不可思議な面白さが、ダンスシーンとして捉えられていて、たいへん興味を惹かれた。人間が人間を作る、これはやはり、魔術的な作業なのである。
舞台では、カミーユ(リュボーフィ・アンドレーエワ)とロダン(オレグ・ガブィシェフ)の愛の葛藤が描かれ、妻のローズ・ブーレ(リリア・リシュク)がやや控えめに、しかし絶対的に存在感を現している。第1幕では、ロダンが若い彫刻家カミーユと出会い深い関係になり、妻ブーレとの葛藤が生まれる。カミーユとロダン、ローズ・ブーレとロダンの技巧を凝らしたパ・ド・ドゥが緊迫した関係を表す。中でもロダンがローズ・ブーレのところに戻ってきてスープを飲むシーンで、スープを飲みながら心ここに在らずのロダンと、スープを飲ますことに全存在をかけているブーレ、といういかにもシンプルな表現は、逆にちょっと微笑ましくもあった。現実の彼らの間には二人の子どもがいたというがそれは背景におしやられていた。
第2幕では、彫刻家として名声を得たロダンと壊滅的な評価を下されたカミーユの、芸術家としての葛藤となる。クローデルは失意のうちに、一度はロダンの下を去るが、新たな方向性を見いだすことができず、また舞い戻ってくる。やがて彼女の繊細な内面は、実生活のロダンと彫刻家のライヴァルとしてのロダンが惑乱し、散り散りとなり、均衡を失って病んでいく、、、。こうした厳しい現実が次々と覆いかぶさってくる中で、すべてを受け止めて背負いながら、ロダンは人体の彫刻製作に一心不乱に没頭していく。偉大な芸術家としてのオーギュスト・ロダンは、大いなる成功を収めたが、カミーユ・クローデルという彼の人生と芸術に深く関わった人間の人生の製作には、手痛い失敗を喫したからなのだろうか。

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エイフマンの舞台表現はなかなか変化に富んでいる。回転する円形テーブルを巧みに使って彫刻とそのモティーフをみせたり、抽象的な模様を透かし彫りしたパーテーションを建て、そこにダンサーが張り付いてポーズをとったり、ブロンズの塊と飽くなき格闘を繰り広げる芸術をダンスによって描く工夫が、様々になされた表現で観客を飽きさせなかった。
ただ「ロシアの伝統的バレエと現代的心理バレエを融合した」作品、とエイフマンは彼自身の舞台を評しているが、現代の心理バレエというには、複雑な現実がやや一面的にスタテックに捉えられているのではないか、という気もした。ロダンと愛人、ロダンと妻、それぞれに緊張感のある劇的な表現を創るのだが、その心理そのものは一律ではなく、例えば幼児体験だったり、トラウマ化した屈折などが複雑に絡み合って現れてくるはずである。そうした無意識下の深層心理を現すためには象徴的な表現が求められるかもしれない。そんな印象も受けた。
舞台装置とダンステクニックを駆使した舞台表現はおもしろかったが、もうひとつ胸に突き刺すものは、残念ながら感じられなかったというのが、正直な感想である。
ダンサーは素晴らしい。特にカミーユを踊ったリュボーフィ・アンドレーエワは、若々しい活力と瑞々しく活動する心の繊細さを豊かな表現力で表し見事だった。
(2019年7月18日 東京文化会館)

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