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身体が発する「声」を武器に――名作『緑のテーブル』が清新によみがえる

ワールドレポート/東京

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

スターダンサーズ・バレエ団 「Dance Speaks」

『ウェスタン・シンフォニー』ジョージ・バランシン:振付
『緑のテーブル』クルト・ヨース:振付

「ダンスは何を語るのか」をテーマに、スタイルがまったく異なる二作品を上演する公演。第二部のクルト・ヨース振付『緑のテーブル』は、日本ではスターダンサーズ・バレエ団のみがレパートリーとする作品で、14年ぶりの上演である。東京芸術劇場プレイハウスに満席の観客を迎えて、3月31日の公演は始まった。

第一部はバランシンの『ウェスタン・シンフォニー』。カウボーイ・ハットの男たちと、華やかなフリル・スカートの女たちがクラシック・バレエのステップを駆使して踊る、バランシン流のスタイリッシュな西部劇の世界だ。音楽はアメリカのフォークソングをモチーフに「アレグロ」「アダジオ」「スケルツォ」「ロンド」の4楽章で構成され、有名な「赤い川の谷間」などのメロディも聞こえてきて親しみやすい。その一方で、短いフレーズの中にも濃密なテクニックが盛り込まれている。つないだ手の下をくぐってゆくフォークダンスの隊形、カウボーイ・ハットを押さえながらジャンプ、ガン・ベルトをつかみながらの高速ステップなど、ウェスタンらしいニュアンスが随所にちりばめられていて楽しい。腰をひねって体のラインを強調しつつ、黒タイツ・黒いトウシューズで見せる女性の足さばきがなんとも粋だ。楽章ごとに1組ずつソリストのカップルが登場するのだが、とりわけ、2楽章で「恋に報われない伊達男」といったキャラクターを演じた林田翔平の、空中でさらに伸びあがるようなキレのあるジャンプ、4楽章のソリスト・喜入依里の大輪の花のような存在感が印象的だった。4楽章のラストではダンサー全員が連続でピルエットを見せる。できれば指笛でも鳴らしたい、リラックスした高揚感の中で幕が下りた。

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©Kiyonori Hasegawa(すべて)

休憩を挟んで、会場の雰囲気は一変する。第二部『緑のテーブル』。舞台の下に設置された二台のピアノ(小池ちとせ・山内佑太)が、不吉な感じの和音をいくつか鳴らした後、無声映画の伴奏にも似たかろやかな曲を奏で始める。舞台上では、国際会議を象徴する緑色のテーブルを挟んで、ゴム人形のような生々しいマスクをつけた「黒服の紳士たち」が踊り出す。各国を代表する政治家や富豪たちだ。テーブルを叩いて抗議する、頬杖をつく・空を見つめるなど熟考のポーズ、テーブルに手をついていっせいにジャンプ......。フェンシングのように激しくやりあったかと思うと、もったいぶって挨拶を交わしあう。紳士たちの動きは小気味よいほどカウントにぴたりとはまっている。
紳士たちは話し合う振りをしているだけで、実際の段取りは秒刻みで決まっている。にもかかわらず、水面下では無言の駆け引きが行われており、誰の本音も見えない中で、勝手に何かが決まっていく――そんな不気味さを感じさせる振付は今見ても新しい。やがて紳士たちはどこからともなくピストルを取り出し、いっせいに発砲。ここで「死」(池田武志)が登場する。

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『緑のテーブル』は、第一次世界大戦の記憶がまだ新しい1932年、パリ国際舞踊コンクールで1位を受賞した作品で、中世ヨーロッパの絵画や彫刻によく描かれた「死の舞踏」の寓話がモチーフになっている。「死の舞踏」とは、骸骨の姿をした「死」が身分や年齢を問わず、あらゆる人を踊りに誘い、墓場に導いていくというものだ。ヨースはこの作品を現代的な「死の舞踏」として描いており、「死」が無言で見守る中、兵士の出征、戦闘、故郷を追われる難民、戦争利得者の暗躍など、戦争の様々な側面が描かれる。

はじめのうちは、鉄兜をかぶり、骸骨のボディペインティングを施した「死」のいでたちが、少し古めかしく感じた(これは、日本人が「死」というものを足のない幽霊のような「気配」でとらえがちで、西洋の即物的な死神のイメージになじみがないせいかもしれない)。また、複雑な振りが詰め込まれたコンテンポラリー・ダンスを見慣れた目には、兵士の行進をそのままステップにしたような振付は簡素すぎるようにも思えた。しかし、シーンが進むにつれ、テクニックの複雑さや身振りのニュアンスでみせるのではなく、そぎ落とされた動きを通じ、体が発する「声」を信じてつくられた作品であることが実感できた。
たとえば、兵士に別れを告げる女たちのシーン。ダンサーは、ことさらに悲惨さや悲しみを強調するわけではない。しかし、立つ、手を差し伸べる、倒れるといった動きの一つひとつに重みと大きさがある。ダンサー一人ひとりの体が個人を超え、戦場に家族や恋人を送り出さざるをえなかった無数の女たちの声を伝えているように感じた。

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歴戦の「老兵士」(大野大輔)は、泥にまみれた旗をつかんだまま、「死」に捕らえられてゆく。難民たちの先頭に立ってきた気丈な「老母」(佐藤万里絵)は、小刻みな動きでとまどいと恐怖を表現しながら「死」に抱かれる。「戦争利得者」(仲田直樹)は、戦死した「若い兵士」(石川聖人)から指輪を奪ったり、その婚約者であった「若い娘」(荒蒔礼子)を兵士相手の売春宿に売り飛ばしたりする極悪なキャラクターだが、ちょっと斜に構えたかろやかな動きがむしろ魅力的に感じられた。しかし、そんな彼も「死」から逃れることはできない。死を覚悟して反政府運動に身を投じている「女」(フルフォード佳林)の決然とした強さ、「若い娘」(荒蒔礼子)の「死んだほうがまし」という無言の叫びが聞こえてきそうな、心を失ったような動きが特に印象的だった。作品の終盤には、中世の絵画そのままに、登場人物たちが列をなし、「死」に導かれてゆく。
つねにそこにいて、人間たちを見つめている「死」。無駄な動きや力みが少しでも見えれば、作品全体がだいなしになってしまう。かつてはヨース自身が演じたという難しい役柄を、池田武志はゆるぎのない存在感で踊った。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という、1939年に詠まれた渡辺白泉の俳句が思い出された。

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最後は、再び黒服の紳士たちの「会議」のシーンに戻る。終演後、グロテスクなマスクが緑のテーブルの上に並べて置かれ、素顔のダンサーたちが舞台上に登場すると、会場は拍手に包まれた。
この作品では、特定のキャラクターが戦争の元凶として断罪されたり、戦争を防いだ英雄として美化されたりということはない。ただし、ひたすら各々の立場や利権を守ろうとし、自分では戦場に赴かない「紳士」たちへの痛烈な皮肉と、強い抗議の姿勢が貫かれている。「紳士」の意味を、「自分たちの利害のためだけに動くこと」「傍観者であること」まで広げれば、誰もがこのメッセージと無関係とはいえないだろう。
『緑のテーブル』初演の翌年、1933年にはナチス政権が誕生し、ヨースは政治的な理由で国を追われている。今回の公演では「戦争とたたかうバレエ」というキャッチコピーがつけられていたが、「たたかう」ことそのものの意味を考えさせられた。ジャネット・ヴォンデルサールの振付指導のもと、各々の役柄を掘り下げ、歴史的な作品を清新によみがえらせたダンサーたちの挑戦に拍手を送りたい。
(2019年3月31日 東京芸術劇場プレイハウス)

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©Kiyonori Hasegawa(すべて)

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