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「身体の記憶」を掘り起こす、劇場への愛にあふれた舞台

ワールドレポート/東京

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

一柳慧×白井晃 神奈川芸術文化財団芸術監督プロジェクト

『Memory of Zero』一柳慧:音楽、白井晃:構成・演出、遠藤康行:振付

ロビーに入ると、観客は緞帳のおりた舞台の上に通される。機材を吊るバトンやむき出しのダクトなど「舞台裏」を間近から眺めるのが楽しい。舞台上にひな壇状の特設席がつくられ、配られたビラには白井からのこんなメッセージが書かれていた。
「是非とも休憩時間にお席をお移り頂き、別角度からも劇場を鑑賞頂き、作品をお楽しみ下さい。」

やがて、黒い緞帳の内側に現在を現す「2019」の数字が小さく浮かび、ダンサーたちがチョークで床に様々な年号を書きながら登場した。第一部「身体の記憶」。音楽は1975年録音の即興演奏と、『レゾナント・スペース』『タイム・シークエンス』『リカレンス』の3曲。それぞれに鍛え上げられた体が目の前でうごめき、幕の上の数字が巻き戻されていく。ダンサーが激しく動き回るうちに、チョークの年号は薄れ、混ざり合ってゆく。

チラシの紹介文には「ダンスの変遷をたどる旅」とあるが、クラシック・バレエからモダン・ダンス、コンテンポラリーへといった変遷を時系列順に追っていくわけではない。一柳の音楽を手がかりに、「体」という地層から、様々な時代のダンスのかけらが掘り起こされていくようなイメージだ。

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撮影/瀬戸秀美(すべて)

舞台中央に、クラリネットの西澤春代が進み出て、静かに演奏を始める。『レゾナント・スペース』。クラリネットとピアノ(藤原亜美)が絡まり合って、デリケートな「残響の空間」をつくりだす。ダンサーの動きも繊細さを極める。寄せ合った背中や肩に数人が乗り、その上を一人の足がやわらかく踏んで、人の「山」ができる。山が崩れたかと思うと、途切れそうな「線」でつながる。細胞が集散を繰り返して、組織や器官を形づくるところを連想した。

ピアノ独奏による『タイム・シークエンス』。和音が鋭く連打され、幕に巻き戻される秒針が映し出されると、小池ミモザがトウシューズでキリキリと回転を始める。ピアニストの手の位置は見えなかったが、技術的におそろしく難しい曲だということはわかる。鋼の鞭のような小池の長身が、床を突き刺してビシビシと踊る。次々と女性ダンサーが走り込んできて、ポアントワークを駆使して踊りまくり、さらに全員が加わる。音楽とダンスの果たし合いのような、緊迫した時間。「曲の性格からいって、コンピュータに演奏させた方が鮮やかな結果を生むように考えられるが、それをあえて、人間の手によるピアノで演奏するところにこの曲の意味がある」と一柳のコメントがプログラムにある。ここではおそらく、生身の人間が「踊ること」の意義も問われていると感じた。

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『タイム・シークエンス』が「闘争」なら、『リカレンス』は「和」だろうか。風に鳴る竹林のような、ハープや打楽器の響きが印象的だ。東洋医学や武道を思わせる動き。しかし、ただ緩やかなだけではない。武道の達人同士が間合いを詰めたり受け流したりするような、濃密な気配のやりとりがあった。おそらくこの曲では、近代以前の体が意識されていたのだと思う。

第二部『最後の物たちの国で』は、ポール・オースターの小説をモチーフにした作品である。主人公のアンナは、行方不明の兄を探すため、何処とも知れぬ国へやってくる。そこは何もかもが破滅に向かうディストピア的な世界だ。テキストはアンナが故郷の夫に向けて書いた「手紙」の形を取っており、「夫」役の白井が朗読することで物語は進んでいく。
街の人々が地面をはいずり、ゴミを漁る不穏な空気の中、白いドレスにコートを羽織ったアンナ役の小池ミモザが現れる。下りていた緞帳が上げられ、舞台の向こうには広大な客席スペースが広がる。しかし、舞台へりには国境を暗示する柵が設けられ、からっぽの客席が、廃墟の街とアンナの故郷を隔てる「海」にみえてくる。

雨が降れば古新聞を拾って暖を取る、弱い者がいれば略奪する......街の人々を演じるダンサーの動きの質には、そういった行動原理がそのまま現れている。アンナは登場早々に襲われ、コートを奪われる。やがて、アンナは死ぬために全力で走り続ける宗教集団「走者団」に巻き込まれていたイザベル(鳥居かほり)と出会う。人々の「暴力」の表現が鮮烈なだけに、小池と鳥居が互いをかばって抱き合うしぐさの人間らしさが際立つ。アンナはイザベルの家で、その夫のファーディナンド(高岸直樹)と共に三人で暮らすこととなるが、ファーディナンドがアンナを犯そうとし......。

このように、アンナは次々と悲惨な出来事に巻き込まれるのだが、小池ののびやかな動きは、どんなに痛めつけられても立ち上がる生命力と、絶望の街を一歩一歩体で確かめながら歩んでゆく賢さを感じさせる。音楽は『交響曲第8番 リヴェレーション2011』。作曲中に東日本大震災に遭遇し、全曲を書き直したという大作だ。白井が一柳に『最後の物たちの国で』の構成台本を見せたところ、「第8番が合うのではないか。どう切り刻んで使ってもいい」と一柳自身が提案したという。

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アンナはイザベルの最期を看取った後、兄の同僚であった新聞記者のサム(遠藤康行)とめぐり会う。サムはこの街の出来事を、新聞社に送る手だてもないまま記録し続けている。アンナは彼の生きた証である原稿を読みながら恋に落ちてゆく。このシーンには、バッハの『サラバンド』826番が挿入されている。触れあうことの喜びを全身にあふれさせる小池と、静かな包容力を感じさせる遠藤のパ・ド・ドゥに、チェンバロの古雅な響きが解け合って美しい。

とはいえ、安らぎは束の間である。アンナに宿った命の芽は人々によって摘まれ、サムとも引き離されてしまう。アンナは街の慈善施設ウォーバンハウスで手当を受け、そこの主宰者ヴィクトリア(引間文佳)や物資調達係のボリス(高岸直樹)と親しくなる。ハウスは人間の善意の「最後の砦」のような存在。ヴィクトリア役・引間の踊りには、「理想」を体現する凛とした強さが感じられた。二役を演じた高岸は、ファーディナンド役では不安と裏腹の支配欲を、ボリス役では世知に長けた寛容さやユーモアを感じさせ、どちらも魅力的だった。
アンナはついにサムとも再会を果たすが、ハウスが警官たちの目に止まり、解体を迫られる。ハウスの住人たちは保身のため警官の側に寝返って職員を殺し、他の職員が逆上して銃を乱射。やりきれない暴力の連鎖が、音楽との緊迫したやり取りの中、神経に食い込むような迫力のダンスで描かれる。

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廃墟に打ち捨てられた死者たち。ここでベートーヴェンのピアノソナタ12番の「葬送行進曲」が挿入される。生き延びたアンナたちが立ち上がり、重い足取りで踊り始める。嘆くこと以外何もできない。しかし、死者は埋葬しなくてはならない――3.11がいやでも思い起こされる。
やがて、ボリスがちょっとした衣裳を入手してきて皆に手渡す。アンナとヴィクトリアには小さな帽子やケープ、サムと自分にはシルクハット。原作ではボリスが「この街を出られたら、皆でマジックショーの一座をつくろう」と提案するのだが、衣裳は「虚構」を生きること、物語や芸術の意味そのものを表していたと思う。ここで、「読者」としてずっとアンナの手紙を朗読してきた白井が、マイクを小池に手渡す。テキストがはじめてアンナの肉声になるのだ。「私の望みは、とにかくあと一日生き延びること」――。
最後の台詞を語り終えた小池たちが見つめた先、舞台の片隅で、一柳自身がピアノを弾き始める。「厳粛なワルツ」である。まるで光の粒がこぼれているような音楽だった。「衣裳」を身につけた小池たちが踊りながら、舞台を去っていく。その時、からっぽの客席のはるか向こう、ロビーに通じるドアがひとつだけ開いた。
神奈川県民ホールは横浜港に面して建っている。ドアの先にある本物の海を感じさせる、心憎い演出である。会場は温かな拍手に包まれた。

音楽と切り結び、誠実に対話を続けた遠藤の振付と、スリリングな演奏を淡々と導いた板倉康明の指揮、劇場への愛にあふれた白井の演出、すべてがかみ合って生まれた舞台だったと思う。そして、かつてジョン・ケージやマース・カニングハムと共同制作を行ってきた一柳の若々しさが印象的だった。「今夜、ここにいてよかった」と心から思った。
(2019年3月9日 神奈川県民ホール 大ホール)

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撮影/瀬戸秀美(すべて)

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