表現の異なったジャンルがせめぎ合って激しいエネルギーが放たれた、KAAT神奈川芸術劇場『出口なし』

ワールドレポート/東京

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

KAAT神奈川芸術劇場

『出口なし』J.P.サルトル:原作、白井晃:上演台本・演出、首藤康之、中村恩恵、秋山菜津子

20世紀を代表する哲学者であり、小説家、戯曲家としても活動したジャン・ポール・サルトルの戯曲『出口なし』(1944年初演)が、神奈川芸術劇場芸術監督の白井晃の上演台本と演出により上演された。

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首藤康之、白井晃 撮影:大河内 禎

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中村恩恵、首藤康之、秋山菜津子 撮影:大河内 禎

地獄の1室に閉じ込められた3人の男女の密室劇だが、ここにはおどろおどろしい鬼もいなければ、凄絶な鞭打ちの刑が行われているわけでもない。しかし、すべての鏡が撤去されていて、自分で自分自身の姿を見ることができない世界である。そして地獄であるから3人は既に死んでいる。
男/ガルサンは、女性に優しい紳士であり、平和主義者のジャーナリストだったと自身のこと話す。しかし彼と女性2人の会話が交わされていくうちに、祖国を守る戦いに加わるのが恐ろしくなって逃亡兵となり、銃殺されたのだとも言われる。本人の主観と他者の見る目はまったく異なっていた。上品に気取った女2/エステルは、赤ん坊殺した過去を持つ。女1/イネスはレズビアンであり、ガルサンの人となりを暴いて、エステルに言い寄る。3人とも自分の想いと他者の目に引き裂かれて葛藤し、絶望感に侵される。それがダンスと演技による起伏に富んだ表現で表わされている。セリフと演技とダンスが合体し、渾然とした新しい表現が試みられているわけである。秋山が演技的に強く、首藤と中村がダンスとして魅力的に動くのは出自から言って当然で、その「差」はやむを得ないところ。だが、それ以上に異なった表現のジャンルがせめぎ合って、激しいエネルギーが舞台から放たれ、観客の胸に直裁に響いた。ドラマは息つく暇もないほどのテンポで展開し、「永遠の絶望」ともいうべき恐るべき終幕を迎えたのである。

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撮影:大河内 禎

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撮影:大河内 禎

サルトルの戯曲『出口なし』を上演してはどうか、と首藤康之の提案を受けた白井は、学生時代からこの戯曲が気にかかっていたという。そして「自分であろうとする自分」と「他者によって決めつけられる自分」の乖離は、今日では20世紀よりもさらに混迷を極めているのではないか、と思い上演を進めることとした。演劇とダンスの接近により身体表現を強化することを、ひとつの問題意識としていた白井は、ダンサー首藤の提案に乗るのは、あるいは必然だったかもしれない。KAATでは2014年に『出口なし』をDEDICATED 2014 OTHERSのうちの1作品として上演しているが、今回は一夜物としての本格的上演である。
この戯曲は、1957年にモーリス・ベジャールにより『3人のソナタ』と題されたダンスとして上演され、1986年にパリ・オペラ座バレエ団のレパートリーとなっている。また演劇として、パリ・オペラ座のニコラ・ル・リッシュ他が出演し、コメディ・フランセーズのギョーム・ガリエンヌが演出した『出口なし』が、青山の銕仙会能楽研修所の能舞台で2006年に上演されている。
(2019年1月31日 KAAT神奈川芸術劇場)

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撮影:大河内 禎

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