ゲルギエフ、シチェドリン、ラトマンスキー ロシアの魅力の精髄を踊る『イワンと仔馬』

ワールドレポート/東京

関口 紘一
text by Koichi Sekiguchi

The Mariinsky Ballet/Alexei Ratmansky " The Little Humpbacked Horse"

マリインスキー・バレエ/アレクセイ・ラトマンスキー『イワンと仔馬』

ロジオン・シチェドリン音楽、アレクセイ・ラトマンスキー振付の『イワンと仔馬』が世界初演された2009年3月14日の夜。雪に囲まれたサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に終演の幕が下り、喝采がまだ鳴り止まない舞台上で、「まるで昨日作曲されたような新鮮な音楽でした」とシチェドリンに話しかけてみた。
すると「もう50年も前の曲だよ。一心にピュアな気持ちで作曲したから、今でも新鮮に感じられるのかも知れないね」と、マエストロは世界初演終演後の右往左往の興奮ぶりとはまるで縁がない者のように静かに言った。

しかし実際、音楽はじつに活き活きと劇空間を駆けめぐっていた。これはやはり、マリインスキー劇場の総裁・劇場芸術監督・首席指揮者のワレリー・ゲルギエフの指揮の力によるところが大きいのだろう。他の指揮者による演奏とその鮮烈さがまるで異なっている。
意気のいい音楽とともにダンサーも闊達に踊った。
とりわけ、サラファーノフとソーモアは存分に持ち味を発揮した。

物語は『せむしの仔馬』という邦題で知られ、ほとんどのロシア人が子供の頃に親しんだ昔話。
主人公は兄弟から小馬鹿にされている農民の末っ子イワン。

マリインスキー・バレエ「イワンと仔馬」(アレクセイ・ラトマンスキー新演出版) 2009年12月9日 東京文化会館 (C)瀬戸秀美

畠荒らしの犯人の雌馬を捕え、特別の力を持つせむしの仔馬を得る。皇帝に、世界の果ての火の鳥の姫君を連れて来いとか、海底にある宝石の付いた指輪を探して来いといった超困難な命令を受けるが、機敏なせむしの仔馬の知恵に助けられて無事に成功。皇帝はその姫君に一目惚れして結婚しようとするが、姫君は熱湯をくぐってハンサムな若者になった人となら結婚するという条件を出す。するとイワンに試しに熱湯に入れという命令。せむしの仔馬の魔法よって、イワンは熱湯に浸かって立派な若者に変身。それならと、皇帝が熱湯に入ると魔法は掛かっていなかった。そしてイワンは姫君と結婚し、ハンサムな若い皇帝となった、というもの。

機転が利いて知恵のある仔馬が走り、森の果てに火の鳥が美しい姫君と棲み、海底には海の女王が君臨しているといったイメージ。そして皇帝と侍従と農民の象徴的な関係、あるいは若さと老い、男と女の機微などが、ちょうどあたたか〜い<ボルシチ>のように盛り込まれた、いかにもロシア風の物語世界である。
そういった情景が幼い頃から心の襞に刻まれているダンサーたちは、細い演技をごく自然にこなす。素晴らしいバランス感覚でダンスとマイムを巧みにアレンジした南部のキエフ出身の振付家ラトマンスキーと、北のサンクトペテルブルクに集まったダンサーたちの余裕たっぷりの楽し気な踊りが、じつに見事な現代の人々の感受性に応えるバレエを創った、ということだろう。

もちろんダンスと音楽だけではない。舞台のヴィジュアルを構成する装置と衣裳がまたたいへん魅力的。
装置は、シュプレマティズム(絶対主義=純粋な感覚の絶対性)を唱えたロシア・アヴァンギャルトの画家、カジミール・マレーヴィッチの創造した色彩と造型を転用して、マクシム・イサーエフが創った。ⅠシーンⅠシーンがまるで絵本のページを繰るかのように展開していく。小さな赤い家や金色の巨大な月、緑や黄色や赤などのルービックキューブで作られたような宮殿、虹色に輝くの海面などなど、鮮やかな色彩と愛らしい形と奇妙にバランスを保つそれぞれの大きさ・・・・。
過激な思考を重ねたアヴァンギャルド画家の造型と素朴なロシア民話の世界というミスマッチともいえる関係を、このように見事にマッチイングしてしまうとは・・・まったく恐れ入谷の鬼子母神、とでもいいたくなる才能だ。
クレムリンが描かれていたり、水面に映るように自身の顔がプリントされていたり、象徴的な帽子、跳ね回る馬などの衣裳にもさまざまの工夫が施されている。
ともあれどのシーンも、心が温まり、なんだか自然に嬉しくなるような可愛らしい美しさで彩られている。
ちなみに、装置を作ったイサーエフに「どのシーンが一番好きか」と尋ねたら、「海のシーンが一番好きだけど、6分しかないんだ」と言っていた。

マリインスキー・バレエ「イワンと仔馬」(アレクセイ・ラトマンスキー新演出版) 2009年12月9日 東京文化会館 (C)瀬戸秀美

サラファーノフは、久しぶりに故郷の家に帰った子供のように軽やかに元気に溢れ、生命力の漲ったイワンを踊った。ソーモワは若い頃のカトリーヌ・ドヌーブを彷彿させる美貌を、きらめくマレーヴィッチの色彩のなかに輝かせた。皇帝に対してもイワンに対してもきめ細やかな女性らしい表現をみせ、細身の身体にしなやかなエネルギーが潜んでいる魅惑的な姫君だった。
皇帝に扮したアンドレイ・イワーノフのチャップリンばりの熱演、グリゴーリー・ポポフの軽妙な仔馬、陰影のある表現を駆使して侍従という役柄を浮かび上がらせたイスロム・バイムラードフ、蹄を高く舞台を駆けめぐった雌馬と海藻の中で美しくたゆたう海の女王を演じたエカテリーナ・コンダウーロワなどなど、傍役たちも童心に還って水を得た魚のように弾けて見えた。

優れたダンスと音楽と美術を融合した総合芸術としてのバレエ、これがゲルギエフの目指している頂きだろう。『イワンと仔馬』はそう感じさせられた舞台だった。
バレエ・リュス100年だと言って、古い作品ばかり上演していていいのか、ディアギレフのスピリットをこそ受け継いで、新しい総合芸術を創造することが100年目のアーティストの務めではないのか。恐らくゲルギエフはそう信じている。そういえば、ディアギレフ・・・ゲルギエフ=音が似ているではないか。

では最後に、およそ50年前にシチェドリン/ラドゥンスキーの『せむしの仔馬』を踊ったマイヤ・プリセツカヤの初演後の感想をどうぞ。
「完璧だったわ! 天才的よ! 今日のような『せむしの仔馬』は一度も聞いたことがなかった! 私が証人よ。あの曲があんなにも素晴らしく響くなんて。なんて素晴らしい指揮者でしょう! こんな指揮者がいるなんて、なんて幸せな劇場でしょう! こんな指揮者のもとで演奏するなら、どんなオーケストラでも幸せでしょう。音楽がすべてです。人間が創造した中でもっとも偉大なものはオーケストラだと思うわ」蛇足ながら、シチェドリンはマイヤに恋してこの曲を作った。
(2009年12月8日 東京文化会館)

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