コンダウーロワの完璧のプロポーションと圧巻の演技とダンス『ラ・バヤデール』

ワールドレポート/東京

関口 紘一
text by Koichi Sekiguchi

The Mariinsky Ballet マリインスキー・バレエ団

"La Bayadère" by Marius Petipa, Revised choreograpy by Vladimir Ponomarev, Vakhtang Chabukiani
『ラ・バヤデール』マリウス・プチパ:振付、ウラジミール・ポノマリョフ、ワフタング・チャブキアーニ:振付改訂

マリインスキー・バレエが来日した。前回の公演がボリショイ・バレエ団との合同ガラだったから、全幕を上演するのは3年ぶりということになる。そして今回は、『ラ・バヤデール』というスペクタキュラーな大作および『白鳥の湖』『アンナ・カレーニナ』を持って来日した。
マリインスキー・バレエ団のレパートリーとなっている『ラ・バヤデール』は、1877年のプティパ版にポノマリョフとチャブキアーニが改訂を加えたヴァージョンである。
私はエカテリーナ・コンダウーロワのニキヤ、エフゲニー・イワンチェンコのソロル、エレーナ・エフセーエワ(エカテリーナ・オスモールキナが怪我のため来日できなかったので代わって来日)のガムザッテイで観ることができた。

コンダウーロワがダンスと演技で圧倒的な力量を見せた。完璧のプロポーション、くっきりとした顔立ちの美貌で、大僧正の邪な愛を拒絶する毅然とした精神性、ガムザッティの愛を宝石で購おうとする驕りへの怒り、そして現実との戦いを放棄したソロルへの絶望、表情と雄弁な身体そのものが豊かな表現を作り悲劇を奏でている。
演出は、しばしば荒唐無稽と指摘されることが多い部分を丁寧にリアルに感じられるように配慮している。たとえば、ガムザッティの企みにより毒蛇に咬まれて、大僧正の差し出す毒消しで一命を取り留めることができるのに、神に愛を誓ったはずのソロルの裏切りに絶望して死を選ぶ。

『ラ・バヤデール』ガムザッティ/コンダウーロワ 撮影/瀬戸秀美(記事の公演日とは異なります)

撮影/瀬戸秀美

ニキヤがあくまでも気高く崇高な精神性の持ち主であるが故に、裏切った勇者ソロルは立ち直ることができず、阿片に逃れることになる。ここには既に神罰の予兆が現れている。
3幕冒頭は、1幕の最初に踊られたバヤデール(神殿に仕える踊り子)たちのテーマ曲のヴァリエーションにのせて、32人のチュチユに身を固めたコール・ド・バレエがヒマラヤから降りてくる。バヤデールたちは、少なくとも音楽が描くイメージで連想されているのであって、決して突然現れたわけではない。初めて観る観客でそれとは知らなくても理解できるはず。神秘的で壮大な幻想が特別な迫力で観客に向かって迫ってくる。スケールの大きなとても美しいシーンである。ここには、後年、ニジンスキーの『春の祭典』の美術を創ったニコライ・レーリヒなどが唱えていたロシアの神秘思想を思わせる発想が感じられる。
3幕のニキヤを死なせてなすすべがなかった自分に絶望して、すべてに対して気力を失ったソロル。彼を慰めるために蛇遣いが呼ばれるが、これは阿片を吸いながら蛇を見て、毒蛇に咬まれて死んだニキヤの回想に入るメタファーだろう。1幕で布を使ったバヤデールたちの踊りが、最期の幻想のニキヤとソロルのパ・ド・ドゥを予兆している。幻想シーンにはそれなりの根拠がある。『ラ・バヤデール』などもロシア人が空想したインドが現実と異なっているからといって、作品そのものが荒唐無稽の一言で片づけられ、侮蔑されるべきではない。
また、私は台本にあたっていないのでわからないのだが、「インドに肖像画は存在しない。」とプティパが註釈しているそうだが、これには少し驚いた。インドには15、6世紀から優れた細密画の芸術が盛んで、音楽を絵画で表わすなど西洋の絵画には見られない多様性を持っていた。もちろん、王の肖像画など描かれている。それが「ない」とどうして断言できたのだろうか、誠に不思議である。機会があれば調べてみたいものだ。
(2012年11月24日 東京文化会館)

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