マギー・マランが創った凄絶なグロテスクの美が衝撃的だった『Salves』

ワールドレポート/東京

関口 紘一
text by Koichi Sekiguchi

Maguy Marin "Salves"

『サルヴス』マギー・マラン演出・振付 ドゥニ・マリオット共同演出

マギー・マランの2010年秋にリヨン・ビエンナーレ・ド・ラ・ダンスで初演された『Salves』をさいたま芸術劇場が上演した。
マギー・マランといえば、フランスのヌーヴェル・ダンスが盛んだった80、90年代に大いに活躍した舞踊家。初期の良く知られる作品はシューベルトの『少女と死』、ベケット作品を「肉体化」したと彼女自身がいう『メイ・B』、さらにすべてのダンサーに着ぐるみと仮面を着けておどらせ、世界的にヒットした『サンドリヨン』などが著名だ。ベジャールが創設した学校ムードラ(ルードラの前身)出身で、全盛期のベジャール作品『我々のファウスト』『想像のモリエール』『ヘリオガバルス』ほかの舞台に立っている。私が編集した『ベジャールによるベジャール』には彼女がベジャール作品を踊っている写真が掲載されている。彼女は、「花が咲くためには狂気が必要だ」という大野一雄の言葉に共感を寄せており、その作品にはグロテスクの美を表わしているものがみられる。本人はベジャールの影響を受けたということには否定的だったが、ダンスの中身ではなく、その大胆な素材の選択と表現方法にはベジャールの刻印が感じられた。

オープニングは舞台奥から登場した男性ダンサーがゆっくりと目に見えない糸を手繰るように舞台下手まで回り込み、客席に声をかけるともう一人のダンサーが舞台に上がりその糸を受け取って手繰る・・・。といった連鎖的な動きが続く。はじめはパントマイムだと思っていたが、実際にはテグスを使用していた。
舞台上には中に人が潜り込める穴がある長いテーブル状のものが、いくつかランダムに置かれ、舞台の四隅には剥き出しの大型のオープンリールのテープレコーダーが置かれている。舞台の明かりが消えると、恒常的な光はずっとなくなり、常に点滅を繰り返したり、ストロボが焚かれたり、ある部分にだけ光が当たってもすぐ消える世界となる。そして、粉々にされたような日常生活の断片が、舞台のあちこちで、瞬間的に演じられ点滅する光に浮かび上がる。それは突如、襲いかかる震災の発端の瞬間ようであり、人々の狼狽や混乱したトンチンカンな行動が、フラッシュ・バックして映し出される映像をみているようだ。私はそこに、事故が発生した直後の原発のコントロールルームを想起した。ただ、この作品は2010年の初演だから福島の事故が世界に報じられる以前に作られている。だからその衝撃波によって作られたわけではないことは明らかなのだが、それを想い起こさせる衝撃があった。理解をこえた状況のなかでコントロールを失った人々の、無意識の領域が露出した姿がダイレクトに感じられたからである。タイトルとなっているSalves は、一斉射撃とか、いっせいに拍手や笑いが沸き起こる時にも使われるという。そしてまた救済という意味に通じる言葉にだそうだ。つまりこのフラッシュ・バックのように続く日常が破砕された表現に、両義的な意味を込めた作品ということになる。
やがて舞台は日常生活の終焉の場とも言える「最後の晩餐」へ。際限のない混乱の極みに陥り、凄絶な状況を提示して幕を下ろす。マギー・マランの過激なグロテスクの美は健在だった。
4ヶ所に置いたテープレコーダーを音響の多重の音源として使い、よりいっそうの効果を上げていた。
(2013年6月6日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

photo: A.Groeschel

photo: A.Groeschel

ページの先頭へ戻る