勅使川原三郎がシュルツに触発されて創った、独特の"春"を表わす存在感

ワールドレポート/東京

浦野 芳子
text by Yoshiko Urano

KARAS

『春、一夜にして』ブルーノ シュルツ「春」より 勅使川原三郎 佐東利穂子 ジイフ 林誠太郎:出演 

あれっ? いつもとなんだか雰囲気が違う。
―ブルーノ・シュルツの短編『春』の一節が読み上げられ、まるで曙の空にかかる月のように、白い衣裳をまとい登場した佐東利穂子の隣でぎこちない動きを繰り広げはじめた彼は、やっぱり勅使川原三郎その人であった。人形のような、全身の関節がまるでねじ仕掛けか何かで支配されているような不自由で硬い動きは、どこか卑屈さを漂わせる。とりわけ顔の表情が硬く精気を失って見えて、佐東演じる春、女、あるいは月のようなたおやかな存在感や動きと正反対の様を呈している。

詩のように、イメージ的な言語をつないだこの短編は、ある男が、春を待ち望み春を支配しようとしていた刹那の物語のようだ。
途中挟まれるジイフらの表現も、かつらをかぶりしゃちこばっている。
憧れ、あるいは恋というものは時として人間をおろかにする。特別なものに対する思いに素直になれず、いかにも自分が優位に立っているような振りをしたがるという現象は、おろかな人間についてはよくある行動でもある。ゆえに、これは、春と言うやわらかでおおらかなものに対する人間のみじめさの対比なのか、あるいは人間のおろかな支配欲に対する憐みのようなものなのか。

「春、一夜にして」撮影/小川峻毅

撮影/小川峻毅

いずれにしても、いつもに増して心をつかんで離さなかったのは "鍛え上げ、感覚と思考を研ぎ澄ました身体の、ただそこに在るだけで見るに値する存在感" である。踊りと言う表現は、ただ超絶技巧を繰り広げればよいというものではない。身体性の専門家であれば、ただそこに居る、在る、だけで特別な存在感を発するべきものなのだ。
ラストシーン、何度もピストルをわが身に向けて発射するも、息絶えることができなかったその男が、忌々しそうにめりめりと覆面を脱ぎ捨てる。...あ、そうだったのかメイクじゃなかったのかとようやく気付く私はよほど目が悪いのか、いやまんまと騙してくれた勅使川原の存在感に一票。
啓蟄の日にふさわしい、自分の中でも春がもぞもぞと動き出す様な、しかし静かな、一時間だった。
(2013年3月5日 シアターX)

「春、一夜にして」撮影/小川峻毅

撮影/小川峻毅

「春、一夜にして」撮影/小川峻毅

撮影/小川峻毅

「春、一夜にして」撮影/小川峻毅

撮影/小川峻毅

「春、一夜にして」撮影/小川峻毅

撮影/小川峻毅

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