パリ・オペラ座ダンサー・インタビュー:クレール・テセール
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大村 真理子(在パリ・フリーエディター) Text by Mariko OMURA
クレール・テセール Claire Teisseyre (コリフェ)
クレール・テセールは契約団員として1年を過ごした後、2024年に正式入団した。その年のコンクールの結果、2025年1月1日にコリフェに昇格。手足が細長く、顔がとても小さくい彼女は8頭身ならぬ9頭身と言えそうなダンサーで、ステージ上で驚くほどのフェミニニティを発揮する。入団年にエマニュエル・ルグリの『シルヴィア』でディアナ役を託され、入団2シーズン目の昨年末には、ローラン・プティの『ノートル・ダム・ド・パリ』の主役エスメラルダに抜擢された。この公演の配役はカジモドはアントニオ・コンフォルティ(スジェ)、フロロはアレクサンドル・ボカラ(スジェ)、フェビュスはナタン・ブリソン(2026年1月1日よりコリフェ)。コール・ド・バレエのダンサーたちに2公演を託すという、芸術監督ジョゼ・マルティネスの大胆な試みであり、なかなかの心意気といえよう。プロのダンサーとしてすでに10年以上の経験を持ち、ソリストとして踊っていた彼女は、カドリーユから始めたパリ・オペラ座でどのようなバレエ人生を歩んでいるのだろうか。
Q:入団は2024年。その前の2023年に受けた試験では入団できず、契約団員として雇用されたのですね。

© Julien Benhamou/ Onp
A:そうです。それまではフィンランド国立バレエ団のソリストでした。ジョゼ・マルティネズが芸術監督となったので、ここを試してみたいと思って。実はその前にも試したことがあるけれど、上手く行かなかったんです。
Q:入団試験には年齢制限があったと思うのですが、試験を受けた時あなたは30歳に近かったのではないですか。
A:以前は確かに年齢制限がありました。26歳だったかしら。でもオーレリー・デュポンの時代だと思うのですが、制限がなくなったんです。それがもし続いていたら、私は試験を受けられなかったわけですね。実は彼女が芸術監督の時代にも私は試験を受けていて、半年だったかの短期の契約を提案されました。でも、これは先の保証がありません。その時すでにフィンランドでソリストとして無期限契約を得ていたので、フィンランドに留まりました。
Q:契約団員として過ごしたシーズン2023~24年は多数の作品に配役されましたか。
A:パリ・オペラ座では常にバレエ作品が踊られています。怪我をするダンサーが出たら代役の私がステージに立つ、ということを繰り返して1年を過ごしました。最初の公演は『Seasons' Canon』。初めてガルニエのステージを踏んだのです。昔から夢見ていたことだったので、すごい感動がありました。カンパニーの大勢のダンサーたちがグループで踊る作品で、そこに自分が参加したというのは強烈な体験でした。
Q:そのシーズンで印象に残っている作品は他にもありますか。
A:日本のツアーにも参加した『白鳥の湖』。日本には代役として行ったのですけど、踊ることになりました。3日間、身体的にとてもハードでしたね。でもオペラ座では踊らなければ、いる意味がありません。
Q:フィンランドではもっとゆったりしたリズムだったのですか。
A:私はソリストだったので自分のリハーサル、自分の舞台というリズムだったので比べにくいけれど、公演数はパリ・オペラ座に比べるとフィンランドは少ないですね。
Q:ソリストの自分がパリ・オペラ座に行ったらコール・ド・バレエからやり直すということについて、どのように考えましたか。
A:それは分かっていたことです。私にとって何よりもまずパリ・オペラ座バレエ団に入ることが、すごいことなので、だからオペラ座でコール・ド・バレエを踊れるだけで、とても幸せなんです。それに自分の踊りについては、まだまだするべきことはたくさん。改善するべき部分がたくさんあるので・・・。ここは素晴らしいカンパニー。信じられないダンサーばかりで、私はとても満足しています。
Q:パリ・オペラ座のスタイルについてはどのようにみていますか。
A:エレガントなスタイルで、ディテールまで気を配り、腕の仕事にクオリティがあって、すごく職人的な仕事がベースにありますね。そして継承があって・・・・私、オペラ座に関するすべてのドキュメンタリーを見ているんですよ。それを見ては''ああ最高''って! 素晴らしいコーチングで、これを経験したいってつくづく思ってたんです。オペラ座のエトワールだったシャルル・ジュードが芸術監督だったボルドー国立バレエ団にいたことがあるので、来る前からオペラ座のスタイルには少しだけ通じました。
Q:フィンランドでは別のスタイルですね。
A:ヘルシンキはサンクト・ペテルスブルグに近いこともあって、ロシアのスタイルに少し近いですね。ロシアのワガノワ・アカデミーから多くのロシア人教師が来ていました。ボルドーで習ったフレンチ・スタイル、それにフィンランドのインターナショナルなスタイルが私にはミックスされてました。
Q:2023年、パリ・オペラ座に来てからはフレンチスタイルで踊っているわけですね。
A:オペラ座のスタイルは私が習ったものであり、また私が一番目にしていたものなので、戸惑うということはありませんでした。確かに取り戻すべきことはたくさんあったけれど・・・。契約団員で入った時に英語で私に話しかけてきた教師がいたんですね。その人の目には、私の踊りがフランス的ではなかったからでしょうね、それは。
Q:学校を出たての人たちと一緒に2024年に正式入団。他で踊っていたことはアドヴァンテージだと感じられましたか。
A:確かに過去の経験は役に立ちました。『くるみ割り人形』では、結構舞台裏での時間が長かったんです。何度か雪の精、一度だけ花のワルツという程度で。でも代役ならこれが当たり前、これが仕事と受け入れられました。20歳くらいだと、とにかくステージで踊りたい、とやる気満々なので難しいことでしょうけど、私はすでに多くのステージを他で経験していたし、それにこれは学ぶチャンスだと思っていました。また、オペラ座は公演数が多いカンパニーですから、自分の身体を管理できることを知っている必要があります。若くして入団したダンサーたちを崇拝しますけど、私は私。自分のクオリティも欠点も知ってるので、この新しいメゾンで何をするべきかはわかっています。
Q:そのクオリティとはなんでしょうか。
A:(笑)私、身体がとても柔らかいのです。細長い体でとても抒情的に踊る・・・それゆえに欠点は感情で身体が四方に流されがちになることです。それをコントロールする必要があるんです。

カドリーユからコリフェへのコンクール(2024年11月)© Maria Helena Buckley/ OnP
Q:入団した年に参加した最初のコンクールでコリフェに上がりました。自由曲に選んだのはローラン・プティの『ノートル・ダム・ドゥ・パリ』のエスメラルダのソロ。とてもフェミニンな踊りでした。あなたの持ち味と言えますね。
A:自分ではそれはわかりません。私はとても恥ずかしがり屋なのだけど、舞台では・・・変身する? そう言えますね。小さい時から、自分がオペラ座で昇級コンクールに参加するならこれを踊る! というリストを作っていたんです(笑)。絶対にいつか入れるって思っていたので・・・ちょっと時間がかかってしまったけれど。エスメラルダはそのリストの筆頭にありました。これはジャン=ギヨーム・バールにコーチをしてもらいました。彼はローラン・プティの作品に通じていて、厳しいコーチでしたけど、でもそれが私にはとても向いていました。
Q:その一年後、『ノートル・ダム・ドゥ・パリ』の主役を踊れる機会に恵まれました。
A:エスメラルダを踊れることになるとは、信じられないことでした!! ローラン・プティの作品の権利を持つルイジ・ボニノがクラスレッスンを見に来たことがありました。ローラン・ノヴィスのクラスで、私はこのクラスがとても好きなんです。その時におそらくルイジが私を見たのではないでしょうか。あるいはディレクターが私を提案したか・・・。その後、ルイジによるキャスティングがちょうど『眠れる森の美女』の時期、7月に2~3日あってヴァリエーションを踊りました。配役が発表された時に、アマンディーヌ、サエ、ロクサーヌの3名のエトワールがエスメラルダで私は代役。日程にNN(配役未定)が何日かあったので、おそらく! って思いました。代役の場合、リハーサルがないこともあるのだけど、この時、私たちにもきちんとしたリハーサルがあったんですよ。ディレクターたちは私たちがどんな仕事をするかを見てみようと思ったのでしょうね、きっと。2回踊れることになったのは、私たちには素晴らしい贈り物! クリスマ両親、祖父母、友達・・・大勢が見にきてくれました。

「ノートル・ダム・ド・パリ」アレクサンドル・ボカラ(フロロ役)と © Yonathan Kellerman/OnP

「ノートル・ダム・ド・パリ」アントニオ・コンフォルティ(カジモド役)と © Yonathan Kellerman/OnP
Q:カジモドがアントニオ・コンフォルティ(スジェ)、フロロがアレクサンドル・ボカラ(スジェ)、フェビュスはナタン・ビソン(公演時はカドリーユ。2026年1月1日からコリフェ)というコール・ド・バレエだけの配役でした。
A:全員、とにかく稽古熱心なんです。私たち4人の間にはとても良い雰囲気がありました。誰にとっても素晴らしいチャンスで、これを満喫したんです。私たちのコーチはリュドミラ・パリエロ。これは素晴らしい出会いとなりました。彼女をダンサーとしては知っていました・・・と言っても私は海外にいたので遠方からですけど。とても人間的で指導も明快で、すごいコーチでした。みんなを励ましてくれて、彼女と仕事をできたのは幸せなことですね。アントニオとの間にはとても強いコネクションが築けたんですよ。彼はフェビュス役も踊っていたし、ジュニア・バレエ団のマレーシアの公演にも参加していて、一緒に稽古する時間がなかなか取れず。私のカジモドがいない! って、すごいストレスを感じました。稽古の始まりはすごく遅れたけれど、芸術面でお互いが理解しあえて、ステージ上で視線を交わす体験はとても強烈でした。彼とのパ・ド・ドゥはとても美しく、思い出に残っています。実は彼とは10代の頃からの知り合いなんです。私が受けていたアティリオ・ラビスのクラスに彼もオペラ座から受けにきていて・・・。年齢的には私はユーゴ(・マルシャン)、ジェルマン(・ルーヴェ)と同じ。彼らとも15歳の頃の夏、ビアリッツやアンジェといった地方都市での研修で一緒だったんですよ。
Q:フェビュス役のナタン・ビソンとはどうでしたか。
A:彼ともとても気が合って、一緒に笑ってばかり。素晴らしいパートナーで、良い時間が彼と過ごせました。でも彼はエスメラルダはどうでもいいって感じの役柄なので、ステージでは実際ほど私には優しくなくって・・・(笑)。アレクサンドル・ボカラと彼、私のパ・ド・トロワも流れるように踊れて、楽しめました。

「ノートル・ダム・ド・パリ」© Yonathan Kellerman/ OnP

「ノートル・ダム・ド・パリ」© Yonathan Kellerman/ OnP
Q:エスメラルダを踊ったのは12月25日と30日。これ以外の公演ではコール・ド・バレエで踊っていたのですね。
A:はい。たくさん踊る方が良いコンディションを維持できるんです。毎晩その日のエスメラルダを観察して・・・。コール・ド・バレエで踊るのは心肺的にはハードだけど、私には楽しいこと。私はどの作品でもたくさんのことをしています。『白鳥の湖』では小さな白鳥、大きな白鳥、それにオデットの代役というように。体調に良いことなんです。
Q:入団した年の最初のコンクールでコリフェに昇級をしたものの、2025年のコンクールではスジェに昇格ができませんでした。
A:最初のコンクール、これはとても満足のできる結果でした。もしここでうまくゆかなかったら、多くの疑問が生まれて複雑な気持ちになっていただろうと思います。自分はしっかり稽古をして、その報いがあったのだと安心できました。今年上がれなかったという事実、それを受け入れるのは難しかった。なぜって前回同様稽古はたっぷりとしたのに・・・と。それに今回コリフェからスジェへのコンクールに7名が参加していて、私は発表される6名の順位に入れなかったんです。それで、審査員は私のダンスが好きじゃなかったんだわ、って。私というダンサーが嫌い、私のダンスの仕事も嫌いなんだって。幸いにも結果はさておきダンサーとしての私を好きだと言ってくれる一般の人々の大きなサポートがあって・・・。こうした結果となると、全てを改めて考え直すことになりますよね。一緒にコンクールに参加したダンサーはそれぞれタイプが違っていて、誰もが昇級に値する素晴らしい仕事を見せたので審査員はジャッジするのが難しかったのだろうと、思いました。翌日クリストファー・ウィールドンの『コリバンティック・ゲームス』のステージがあって私はソロを踊ることになっていたのですが、あまり稽古の時間もなかった上、人々は私を嫌いなんだからステージに出たくないって! と落ち込んだ気分に。でも、舞台がうまくいったのでそこで気を取り戻すことができました。
Q:入団後、いつ頃自分がオペラ座バレエ団にいることは正当なことである、と思えるようになりましたか。
A:毎日この建物に入るたびに、自分がここにいるということが信じられないんですよ。とにかく入団するまでに長いことかかったので・・・。
Q:何度トライしたのですか。
A:学校時代は2~3度。カンパニーは17歳のときが最初。当時まだまだ私は不安定でした。そのあと25歳、そして30歳・・・ここで契約団員を得て、そして翌年にもう1度受けているので合計4回です。
Q:どのようにダンスを始めたのですか。
A:両親はダンサーではありません。父は医者で母は心理学の教授なのです。彼女はクラシック音楽が好きでよく聞いていて・・・私は音楽がかかると体を動かして踊って、という子供時代でした。その頃はダンスというのが職業だとは知らなかった。私が育ったのは南フランスの地方の小さな村なので、習えたのはジャズダンス。バレエを見る機会がなかったんです。ダンスの学校を変えたら、そこにパリの劇場で踊っていたアニーという私からすると祖母のような感じの女性がいて、私の身体に関心を持ってくれたのか、バレエの写真やビデオなどたくさん見せてくれました。マニュエル・ルグリとオーレリー・デュポンの『ドン・キホーテ』、ジョゼ・マルティネスとアニエス・ルテステュの『パキータ」、レティシア・プジョルとマチュー・ガニオの『ジゼル』とか。それもとても好きでした。これは何? この人たちは何をしてるの? というように、バレエに興味を持つようになったんです。12歳くらいだったから、他のダンサーたちに比べると遅いですよね。ここでクラシックを習うようになり、すごくきつかったけれど大好きでした。これは職業なのだから、試してみよう! と。私はクラシックのベースがなかったので、12~13歳の頃にアニーから毎日レッスンを受けました。オペラ座バレエ学校の試験を受けたけど、私は年齢の割りには初級すぎると・・・。マルセイユ国立バレエ団の学校かパリのコンセルヴァトワールかというチョイスがあり、後者に通うことにしました。

「ノートル・ダム・ド・パリ」© Yonathan Kellerman/ OnP
Q:パリでは寮生活でしたか。
A:はい。私は毎日踊れて大満足してて、すごく嬉しかったのだけれど、両親は寂しいって(笑)。コンセルヴァトワール時代、14~15歳の時にパリ・オペラ座のバレエ学校を試しました。一次はパス。クラスレッスンがあって、その後の面談でエリザベット・プラテル校長から「今回は・・・」とお断りが。今回こそ、と思うのですごく悲しかったですね。でもダンスが職業と知った時から、自分はこれを仕事にする! って決めてましたから。
Q:コンセルヴァトワールを出た後、パリからボルドーに行ったのですね。
A:18歳の時、ボルドー国立オペラ座バレエ団の契約を得ました。小さなカンパニーで最初の2年は臨時団員として。正式入団は2011年。2015年に『眠れる森の美女』を踊ってソリストになりました。これはシャルル・ジュード版ですが、とてもヌレエフにインスパイアーされた振付けで、同じくらいハードなんですよ。
Q:その後、フィンランドにゆく前にプラハでも踊っていますね。
A:はい。シャルルがボルドー・オペラ座を去った後、芸術監督が不在となっていて、私は大きなカンパニーに行きたいと思うものの、どこのオーディションを受けたらいいかわからなかったんです。フィリップ・バランキエヴィッチというボルドーの招待教授がダンサーとしての私をとても気に入ってくれていました。その彼がチェコ国立バレエ団のディレクターになるから来ないか? と。それでソリストとして雇われました。
Q:プラハではどのような作品を踊っていましたか。
A:『くるみ割り人形』のクララ、『ラ・バヤデール』のガムザッティ、その後にニキヤも。イングリッシュ・ナショナル・バレエの『スノー・クイーン』もあったかしら・・・。多くの作品を同時に公演してるバレエ団なんです。以前からのダンサーは既に稽古済みかもしれないけれど、私は振付を学んだ、と思うやすぐに通し稽古、そしてステージへ、という感じで。これではクオリティを保証できる舞台ができない・・・それは私の望むところとは違う、と。私はきちんと踊りたい、と思ってる頃にシャルル・ジュードがフィンランドで『白の組曲』の再演に関わることになって、「数ヶ月滞在するから、君に興味あればバレエ団に話してみるけど」、と提案がありました。それでオーディションを受けて、フィンランド・バレエ団で踊ることになったんです。2017~18年がプラハだったので、これは2019年のことですね。
Q:フィンランドでソリストとして踊っているときに、パリ・オペラ座の入団試験を受けることにしたのですね。
A:ジョゼ・マルティネスが芸術監督に就任と知って、私の頭の中に試してみようという気持ちが湧いたんです。彼と仕事をしてみたい。彼には会ったことがない。だったら会いに行ってみようという感じに・・・。でも実のところは全然信じていませんでした。30歳でオーディションを試すなんて、私は馬鹿げてるわって。若い子に混じってレオタードにゼッケンをつけて・・この雰囲気は受け入れるのが難しいですよね。でも、その結果、契約団員に。彼は私を見出してくれたんです。彼には感謝しています。
Q:言語が異なるプラハやフィンランドに行くことに恐れを感じましたか。
A:バランシンが「ダンスは快適なことではない。もし心地よく感じたら、それは上手くいっていないということです」と言っていて、私はそれを自分に言い聞かせていました。ボルドーでは快調でしたけど、コンフォート・ゾーンを出たという思いがあったんです。フィンランドは大勢が英語を話しますが、プラハではみんながチェコ語。最初のリハーサルは『ラ・バヤデール』3人のオンブルで、チェコ語を話す二人の間に私が配置された時、あ、これは難しくなるぞって感じました。
Q:モラル面ではどうでしたか。
A:仕事がたくさあったので、それはなんとか。でもフィンランドでは冬の夜が大変でした。日中も真っ暗で、とても早くベッドに入ります。疲労を感じるなど身体へインパクトがありました。光がないせいもあって物哀しくて。これは住んでる全員に言えることですけど、私は何しろ南仏出身なので・・・。ダンス面では問題ないのだけれど、さて、ここで暮らし続けるのはどうなのだろうか、と悩みました。

「シルヴィア」© Yonathan Kellerman/OnP

「シルヴィア」© Yonathan Kellerman/OnP

「シルヴィア」© Yonathan Kellerman/OnP
Q:海外の暮らしで食事などすぐに適応できましたか。
A:問題ありませんでした。私の1つのクオリティは適応性の高さ。それに私は好奇心が強いので、新しいことが苦にならないんです。友達と離れることも人によっては難しいのかもしれないけど、私は次の土地で別の人と友達になって・・・と。コンタクトをキープしているので、今世界のあちこちに友達がいます。
Q:友達を作るのがうまいのですね。
A:はい。でも他のカンパニーではあっという間にできたけれど、パリ・オペラ座は難しい場所ですね。みんな学校時代、10歳の頃からの知り合いなので、ここに溶け込むのは簡単ではない。少しづつ少しづつ時間をかけて・・・。ここで踊れるのは幸せですけど、溶け込むのは大変。来た当初、もともと私は恥ずかしがり屋ということもあるし、それに最初はパリ・オペラ座の臨時雇用と呼ばれる契約団員だったので、カンパニーの団員とは別枠という感じの扱いでした。他のカンパニーだと契約団員も同じアーティスト、同じダンサーなんですけど・・・。私に一番最初に話しかけてくれたのは、ロクサーヌ(・ストヤノフ/エトワール)でした。共通の友達がいて、「クララが行くよ。しっかり面倒みてね!」と彼女にメッセージをしてくれたのが、きっかけ。彼女は私の2歳下だけど仕事にしても私生活にしても似た面があるので気があって、すぐに仲良しになりました。彼女が今の私のベスト・フレンドなんです。
Q:今は何のリハーサル中ですか。
A:3月に公演のある『Empreintes』で踊られる、マルコス・モローのクリエーションです。まだ始まったばかりで、インプロをしたりちょっとしたフレーズを学んだりという段階。最終的には30名の作品なのですが、今の所35~40名くらいで進めています。
Q:そのあとは『ロメオとジュリエット』でしょうか、『椿姫』でしょうか。
A:まだキャスティングは出ていませんが、『Empreintes』組は次は『ロメオ』ではなく『椿姫』なんです。ジョン・ノイマイヤーはスジェ以上は過去に既に踊ったダンサーから選んでいます。マノン、オリンピア、プリューダンスといった役のどれかが踊れたら嬉しいので、彼に見てもらえたら! って願いますけど、この作品は素晴らしいのでコール・ド・バレエで踊れるだけで満足です。
Q:パリ・オペラ座で踊りたいと願っているのはどのような作品ですか。
A:ローラン・プティの作品、あらゆるネオ・クラシックが好き。物語のあるバレエが好きなんです。エスメラルダやジュリエットなど喜び、恐怖、悲しみ・・・解釈に大きな幅のある役が興味あります。だから『マノン』『カルメン』『椿姫』など、いつか踊りたいと夢見てます。テクニックというのは私にはアクセサリーにすぎません。ダンスは感じるもの。もしテクニックだけだったら、それでは体操ですよね。最近はソーシャルネットワークなどで、ダンサーたちが技巧満載の映像を見せる傾向がありますが、これがダンスだと思われてしまうのは残念です。

『Thème et variations』左から2番目 © Maria Helena Buckley/ OnP
Q:『Play』では昨夏の来日公演にも参加しましたか。
A:はい。日本には2024年に『白鳥の湖』で行っていて、今回の来日が2度目でした。『Play』の公演の後が夏休みだったので大阪、京都、日光など、一箇所3~4日という感じで2週間滞在しました。『白鳥』の時は、ガルニエでの『リーズの結婚』のグループだったので、公演後すぐにパリに戻らなければならなかったので、これはフラストレーションでした。
Q:日本の何が気に入りましたか。
A:文化、精神性、自然・・・東京は大都市だけど、ちょっと列車に乗れば素晴らしい自然に出会える。お寺は綺麗で、食べ物は美味しい。日本について何も知らなかったので、発見続きでした。とりわけ私が訪問したのは大きな町ばかりだったせいか、どこも人が多くて驚きました。これって結構ストレスになりますね。
Q:自由な時間には何をしますか。
A:映画や劇場・・・ダンスに限らず舞台を見るのが好きなんです。他のアーティストたちから、インスピレーションを得られます。ミュージカルも観に行きますよ。コンセルヴァトワール時代の同級生の多くが踊ってるので。
Q:この冬の休暇は、あなたのインスタグラムによると遠方に行っていたようですね。
A:友達がタヒチに暮らしていて、何年も前から会いにきてと言われてたんです。でもパリからはとても遠くて・・・。でも1月のマルコスのクリエーションの始まりが、1週間延期となり冬休みが長くなったので、これは絶好機とばかりにタヒチに旅立ちました。
Q:今のところ、ソリストだったフィンランドからパリ・オペラ座に移ったことに後悔はないですか。
A:全くありません。とにかく長く待ったことですから。私の頭の中ではパリ・オペラ座というのは終わっていたことなんですよ。思った以上にたくさんのことが待っていました。パリ・オペラ座で主役を踊れるなんて、想像もしていませんでしたから。
Q:入団したからにはエトワールを目指しますか。
A:それには遅すぎるように思います。今回のコンクールはダメだったけれど、もしいつかスジェに上がれることになったら、それだけで素晴らしいです。もし役にアクセスのあるプルミエール・ダンスーズになれたら、それはもう夢以上ですね。
Q:ご自身の年齢については気になることですか。
A:フィンランドにいるときはソリストだったから気になりませんでした。自分で選んだ道を歩んでいるので、年齢についてコンプレックスはありません。それに身体的にも私の頭の中では、まだ20歳。進歩を続けています。ただ、ここでは42歳が定年なので、私に残されてるのは10年。自分がしたいことをしなければ、と思います。『ノートル・ダム・ド・パリ』の再演がもし15年後だとしたら、私はもういないのです。
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