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オペラ座の元エトワール、パトリック・デュポンが61歳で逝去

ワールドレポート/パリ

三光 洋 Text by Hiroshi Sanko

La mort de Patrick Dupond, danseur étoile d'exception

パトリック・デュポンが3月5日病死した。(パートナーのレイラ・ダ・ロシャがフランス国営通信AFPで発表した病因は仏語の「雷に打たれたような病気」で、これは通常は急性の癌を意味する)

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「第9交響曲」© Jacques Moatti/ Opéra national de Paris

61歳という若過ぎる死に多くのダンサー、バレエ関係者たちは衝撃を受けた。パリ・オペラ座舞踊監督のオーレリー・デュポンは「この悲しみを言葉にすることはできません。偉大な芸術家であり友人をこの時期に失ったのはあんまりです。家族の方々に弔意を捧げたいと思います。」とインスタグラムで語り、ローラン・プティ振付の『狼』(1996年)公演中の二人の写真、次いでパトリック・デュポンが『海賊』を踊った動画も掲載した。(なお、オーレリー・デュポンとパトリック・デュポンの家族名は同じ発音だが、末尾の綴りが違う。二人は揃ってパリ生まれだが、別の家系で血縁関係はない)

一方マリー・アニエス・ジロはフランス国営ラジオ局フランスインター(France Inter)のインタビューに答えて、「彼は私がコール・ド・バレエに入った時のオペラ座の舞踊監督で、14歳だった私を支えてくれました。クラシック・バレエのヴァリエーションではパを変えてはいけないのですが、そうした規範から彼はきわめて自由に踊っていました」と舞台袖からデュポンの舞台を毎晩眺めて飽かなかった日々を振り返っていた。

パリ・オペラ座バレエ学校の校長だったクロード・ベッシーも「彼は例外的でした。誰もが思わず席から立ちあがってしまうようなダンサーは彼が最後でした。ともかく跳躍が素晴らしかった。彼は踊っている時は幸せで、見ている観客も幸せな気持ちにしてくれました。」と破格の才能を惜しんだ。(「ル・モンド紙」3月8日付、ロジータ・ボワソー記者による)

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「アルルの女」(ローラン・プティ振付)
© Jacques Moatti/ Opéra national de Paris

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「ドン・キホーテ」
© Jacques Moatti/ Opéra national de Paris

パトリック・デュポンは1959年にパリで生まれ、1969年に10歳でパリ・オペラ座バレエ学校に入学。1975年にコール・ド・バレエの一員となり、1976年にヴァルナ国際コンクールで優勝。1980年ジョン・ノイマイヤーがニジンスキーの人物像に焦点を当て、デュポンのために振付けた『ヴァスラフ』(Vaslaw)を踊って21歳でエトワールとなった。1980年代にジークフリートやバジルといったクラシック・バレエの主役だけでなく、ローラン・プティやモーリス・ベジャール、ロバート・ウイルソン、アルヴィン・エイリーといった多様な振付家の作品を踊って、一躍、オペラ座のスターとなった。また、マニュエル・ルグリ、モニク・ルディエール、シルヴィ・ギエム、ファニー・ガイダらと共にダンスグループ「パトリック・デュポンとスターたち」を結成し、世界中を回った。

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「グラン・パ」(トワイラ・サープ振付)イザベル・ゲランと © Jacques Moatti/ Opéra national de Paris

パトリック・デュポンを当時から取材していたバレエ評論家たちは、ノイマイヤー振付『真夏の夜の夢』の妖精パックやベジャールが彼のために振付けた『サロメ』『第9交響曲』、ヌレエフ振付の『ロメオとジュリエット』初演(ジュリエットはモニク・ルディエール)、ローラン・プティ振付の『カメラ・オプスキュラ』といった舞台がいまだに脳裏から去らないと訃報に記している。

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© Jacques Moatti/ Opéra national de Paris

1988年からの三年間はバレエ・フランセ・ド・ナンシーの芸術監督として、当代の有力振付家を招聘し、現在のロレーヌ・バレエ団の礎を築いた。(この経緯についてはジャックリーヌ・チュイユー著『デュポン時代のバレエ・フランセ・ド・ナンシー』、ナンシー大学出版局、1990年出版に詳述されている)
1990年にはルドルフ・ヌレエフの後任としてパリ・オペラ座舞踊監督に就任した。1995年に辞任するまでの五年間に、オディール・デュボック、ダニエル・ラリュー、ジョエル・ブーヴィエ、レジス・オバディアというフランスの若手振付家を招聘するとともに、『ロメオとジュリエット』『ラ・バヤデール』『ドン・キホーテ』といったヌレエフ振付作品を再演した。また、マッツ・エック『ジゼル』やジョン・ノイマイヤー『くるみ割り人形』といった作品で、ネオクラシックの振付家をガルニエ宮に招いた。
2000年には自伝『エトワール』(ファイヤール社刊)を出版している。(邦訳『パリのエトワール パトリック・デュポン自伝』)「レゼコー紙」の有力バレエ評論家フィリップ・ノワゼットは「『羽が生える』という表現は私にぴったりだ。幕が上がった途端に、最早床から離れるのだ。普通の人間がするようなすべての動きを自分は越え、その彼方にある。」という文章を記事に引用している。

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「プッシュ・カムズ・トウ・ショーヴ」(トワイラ・サープ振付)カルロ・アルボと © Jacques Moatti/ Opéra national de Paris

パトリック・デュポンはオペラ座の舞踊監督辞任後も、招待エトワールとして出演していたが、1997年のカンヌ映画祭にイザベル・アジャーニからの依頼で審査員として参加し、ピナ・バウシュ振付の『春の祭典』のリハーサルを三日間休んだためにオペラ座から解雇された。「自分が生まれた家のように思っていたガルニエ宮からペスト患者のように追い出されて、泣いた」ともらしている。
オペラ座から追放されてからは棘の道が待っていた。慢性の喉の結節腫、階段から転落、ベジャールから借りた山荘の火災、挙句の果てには2000年には自動車事故で重傷を負った。一時は四肢麻痺から鬱病、アルコール中毒患者となっていた。しかし、ここに救い主が現れた。幼い頃のパトリック・デュポンをバレエの道へと導いた名教師マックス・ボゾーニ(1917・2003、元オペラ座エトワール)が、再度、彼を立ち直らせた。「身体が壊れても、いつかはまた踊る」という信念をもっていたパトリック・デュポンは、事故の翌年2001年にはミュージカル『パリの空気』に出演し、舞台復帰を果たした。
2004年にはトゥアレグ族(アフリカの遊牧民)出身のレイラ・ダ・ロシャ(オリエントの宗教舞踊を学んでから、マーサ・グレアムの指導を受けたダンサー)と出会い、2010年にオリエントと西欧という異なる文化を重ねたスペクタクル『フュージョン』を発表した。その後も二人は協力してホワイト・イーグル・ダンス・アカデミーを主宰していた。
20世紀後半にヌレエフが築き上げたパリ・オペラ座バレエ団黄金時代の立役者で、生涯をダンスに捧げた、かけがえのない名バレエダンサーだったパトリック・デュポンの冥福を祈りたい。

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「眠れる森の美女」© Michel Lidvac

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© Michel Lidvac

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