ステファン・ビュリョン、カール・パケットのアルマンが素晴らしかった『椿姫』

ワールドレポート/パリ

秀 まなか
text by Manaka Shu

Ballet de l'Opera national de Paris パリ国立オペラ座バレエ団

Jhon Neumeier:La Dame aux Camélias  ジョン・ノイマイヤー振付『椿姫』

パリ・オペラ座バレエ団『椿姫』の続報では、アニエス・ルテステュ、ステファン・ビュリョン組、イザベル・シャラヴォラ、カール・パケット組、デルフィーヌ・ムッサン、パケット組による、3カップルのマルグリット・ゴーティエとアルマン・デュヴァルを中心にお伝えする。
ビュリョンが、ルテステュと組むのは2008年に続き2回目。前回は、ルテステュと組むはずだったエルヴェ・モローが初日に怪我をして降板したために、残り3公演を急遽ビュリョンと組んだ経緯がある。ぎこちなさが残った初回から、回数を追うにつれ段々とリラックスしてアルマンと同化していく様子が手に取るように分かったものの、リフトでは観ているこちらの気が休まることはなかった。バレエ団随一の長身、ルテステュをリフトするというベテランでも手こずる至難の業を、次々と繰り出さなければならない『椿姫』の過酷なパ・ド・ドゥは、プルミエ・ダンスールに昇格して半年の、当時のビュリョンには荷が重過ぎた。
ところが、今回は、プルミエ・ダンスールでありながら初日を飾ったのも頷ける、堂々たる踊り振りを披露した。リフトの不安定感は微塵もなく、難儀な2幕のパ・ド・ドゥでさえもルテステュの体重を全く感じさせない完璧さ。ビュリョンの、格段のリフト技術の向上に目を疑い、思わず当時の記録を見返してしまったほどだ。

ルフェーヴル舞踊監督がビュリョンのアルマンを絶賛するように、そもそも、彼にとって、アルマン役は当たり役なのだ。2年前、1幕で舞踏会を梯子するマルグリットの帰りを待つアルマンの献身さと代役を全力で努める彼自身の必死さの相乗効果で、健気で一途なアルマン像を掘り下げたように、ビュリョンの内面とアルマンはぴったりと重なる。
今回も、物静かにマルグリットへの愛を語っていたが、最も素晴らしかったのは、3幕の大舞踏会の場面。自分自身を失って錯乱状態に陥り、マルグリットを詰る。過去と現在の世界をフラフラと彷徨い、現実の父に飛び込んだ彼は、手渡されたマルグリットの紫のドレスをじっと見つめ、頭を垂れる。この瞬間が泣かせるのだ。マルグリットを責め立てたことへの後悔、死んでしまった彼女への懺悔と悲しみ...。早すぎず、遅すぎず、ちょうどいい按配で項垂れるビュリョンの仕草はアルマンの混沌とした感情をそのまま吐露し、アルマンに肩入れせずにはいられなくなってしまうのである。演劇的才能が際立つニコラ・ル・リッシュと同じ類の勘の良さを持つ、ビュリョンがエトワールに昇格するのも時間の問題だろう。

前回、ビュリョンを巧みにリードしていた相手役のルテステュも今回は対等だ。『ライモンダ』でも深めたパートナーシップを生かしてアルマンとの一体感を醸し出しながら、彼女自身も新たなマルグリット像を構築した。過去に強調していた高級娼婦特有の気位の高さは身を潜め、全てを受け入れる懐の広さを持つゆえに、自ら悲哀に苦しむ。ラスト、生前にはアルマンに真実を隠し通すという確固たる意志を秘めながらも葛藤し、救いを求めて日記に真実を綴る。そして静寂の中、たった一人で死んでいく。その姿は、ぞっとするほどの孤独を纏う。隣には現在のアルマンがいるが、彼女が作り出す孤独の空間は、時空を超え、アルマンを呑み込んでしまうのだ。卓抜した技術を持ち、豊富な経験を積んだルテステュは、今、技術を超えた霊感をも備えている。ノイマイヤーの『椿姫』のテーマである孤独を、ここまで明確に表現したマルグリットは彼女ただ一人だった。

新エトワールのカール・パケットは、プルミエ・ダンスール時代、ビュリョンの好敵手とされていた。2人ともレパートリーの幅が広く、『パキータ』ではリュシアンとイニゴ、『ライモンダ』ではジャン・ド・ブリエンヌとアブデラムといった具合に、王子と敵役の両方をこなしてしまう。だが、意外にも『椿姫』で、ビュリョンとアルマン役を分け合うのはこれが初めて。ずっとガストン役を踊っていたパケットの、満を持しての、アルマン役での登場となった。
これが、絶品なのだ。アルマン役を踊るにふさわしいオペラ座随一の容姿と、ここ2年の間に急速に伸び、更に進化し続ける演技力がアルマン役で集結し、一気に炸裂したと言っていい。マチュー・ガニオのアルマンのことを原作から抜け出たようなアルマンと評したが、パケットのアルマンも原作に限りなく近く、誠実さにかけては究極の域に突入している。とにかく実直で真面目。2幕の最後、アルマンの父の忠告に従い心ならずも姿を消したマルグリットに、他のアルマンたちは悲しみを憎しみに豹変させて想いの丈を吐露するが、彼のアルマンは深い悲しみに包まれたまま。3幕冒頭でも、偶然再会した彼女の目の前でオランピアを見せつける仕打ちを自ら仕掛けておきながら、自分もマルグリットと共に苦しんでしまう。どんな状況にあってもマルグリットを愛している自分よりも、マルグリットを優先して考える自己犠牲の強いアルマンなのだ。

パリ国立オペラ座バレエ団『椿姫』 アルマン役のカール・パケット Photo Sébastien Mathé

もちろん、この演技を表現できるだけの高い技術も備えているが、それは努力の賜物。彼は天性の身体能力がずば抜けているわけではなく、完璧でない身体能力の見せ方を心得ているのである。古典作品の王子を踊るのがぴったりの稀有な容貌を持ちながらも、膝から下にかけての彼の脚はO脚ぎみで、完璧なパを踏んでいてもそのパを踏んでいるようには見えないという損なところがある。だが、今シーズンに入ってからの彼は違う。身体を更に引き締め、脚の筋肉のつき方を目に見える形で変化させる。そして、錯覚を利用して、完璧なパを見せているのだ。プルミエ・ダンスールに昇格したばかりのパケットからは現在の姿は想像もつかず、アルマン役を易々とこなす舞台上の彼から、アルマンと彼自身の、献身と忍耐が重なって見えた。

このパケットに愛を注がれるのは専らシャラヴォラのマルグリットの予定だったが、怪我のために幻の1回の組み合わせになってしまった。彼女は、2008年にも全幕を通してビュリョンと1回踊っているが、当時は輪郭のはっきりしないマルグリットで印象が薄く、シャラヴォラはマノン役という図式が出来上がっていた。だから、今回の情感溢れるマルグリットには驚いたが、よくよく考えてみれば『天井桟敷の人々』『オネーギン』といった感情を吐露するドラマティック・バレエ、『ラ・シルフィード』『ジゼル』のようなロマンティック・バレエは彼女の十八番の役どころだから、両者が合わさったマルグリット役が嵌らないわけがない。妖艶さを漂わせるヴァリエテ座の登場のシーンは圧巻。アルマンばかりでなく、観客全員が固唾を呑んで彼女の一挙一動を見守っていた。
素直なパケットのアルマンとの対比もいい。原作の通り(実年齢はアルマンの方が上だが、マルグリットの方が精神的にかなり成熟している設定)、常にマルグリットがリードする構図が、他のどのカップルよりも強く描かれていて、原作を知らない観客でも、設定を理解できる。ただ彼女の場合、感情が高ぶるあまりに所作を変えたり、音の取り方を変えたりして、時折パケットをどぎまぎさせることもあるが、あの素晴らしい脚のラインと高い足の甲が醸し出すフォルムは何物にも代え難く、全く問題にならない。それどころか、話の流れに彼女独自のニュアンスをつける効果を生み出してしまうのである。

それでは、シャラヴォラの代役を務めたムッサンとパケットのカップルは、といえば、このカップルも良いのである。ムッサンのマルグリットはシャラヴォラとは正反対。華やかさには欠けるが、堅実で思慮深いムッサンのマルグリットは、全てを見通した聖母のような慈愛に満ちている。アルマンとの愛を諦めた嘆きを通り越し、無我の境地に達しているのだ。慈愛に満ちたマルグリットと実直なアルマン。お互いがお互いを思いやったまま、マルグリットの死で幕を閉じる結末も、また『椿姫』の物語である。
ムッサンにとって、パートナーとしての相性も、ペッシュよりもパケットの方がいい。長身でリフトの技術も優れているパケットの手にかかれば、リフトも万全。何度も組んでいる信頼感にも助けられ、ペッシュと組んだ時とはまるで別人のムッサンのマルグリットが空中にいた。彼女からは技術の足りない面が、時折顔を出すことは否めないのだが、パケットとの一連のパ・ド・ドゥの最中には全く気にならなかった。

この2カップルの名演では、シャラヴォラとムッサンという正反対の2人のマルグリットを相手にできるパケットの芸域の広さを改めて、思い知るとともに、マルグリットが変わっただけで物語が変わる『椿姫』の醍醐味を味わった。パケットとシャラヴォラ組、パケットとムッサン組に優劣はつけられず、これはもう好みの問題。現地では、シャラヴォラのマルグリットがもてはやされていたが、日本人ならば、ムッサンのマルグリットに共感する人も多いのではないだろうか。
さて、マルグリットとアルマンの心の機微を表す人物として、劇中劇に登場するマノンとデ・グリューがいる。
シャラヴォラはマルグリット役と掛け持ちで、初演者の貫禄たっぷりの迫力満点のマノン役を披露していたが、4回踊ったところでこちらの役からも降板。若手の2人、リュドミラ・パリエロとエヴ・グリンシュタインがその穴を埋め、各々の出演回数が増えることになった。パリエロは初日が明けて間もない時期には硬さが取れず、グリンシュタインは柔らかすぎる身体の抑制が効かず、転んだり、滑ったりしていたが、2人とも舞台を踏むたびに向上していき、千秋楽間際には堂々とした妖艶振りを見せつけるまでになっていた。

その相手役、デ・グリュー役では、4年振りに取り組んだジェレミー・ベランガールの新解釈に目を見張った。2006年の初演時、再演時に踊っていた解釈とはまるで違う。当時はジョゼ・マルティネスの解釈にそっくりのコミカルな演技で、劇中劇であることを強調していたが、今回は繊細で、古典的。野性的、男性的な魅力が前面に出がちなベランガールが、身のこなしからマイム、踊りの全てがプリンスのような控えめな品の良さに包まれているのだ。異色の『椿姫』のデ・グリューは光を放ち、出番のたびに、場をさらっていたことは言うまでもない。
2008年から同役を踊っているマティアス・エイマンもまた、素晴らしい。フォルムの美しさ、高いジュテ、柔らかい足の裏から生み出される全く音のしない着地は、更に洗練され、1幕でアルマンを惑わす影として踊る場面では、主役のアルマンを差し置いてエイマンを目で追わずにはいられなくなってしまう。彼のマイムは独特だ。ダンサーによって多少違うが、デ・グリューは「私はマノンを愛している」「泣くほどに愛している」「いなくなってしまったら悲しくて仕方がない」と、自分がいかにマノンを愛しているかをマイムで述べることで、アルマンも同様にマルグリットを愛していることを匂わせる。

パリ国立オペラ座バレエ団『椿姫』 デ・グリュー役のマティアス・エイマン Photo Sébastien Mathé

だが、エイマンはデ・グリュー自身のマノンへの愛を語った上で、「マルグリットを愛しているのでしょう。愛されなかったら悲しいですよね?」とアルマンに直接問いかけ、アルマンの心境をも単刀直入にマイムで語ってしまうのである。デ・グリュー自身の心境、アルマンの心境、そして、アルマンとデ・グリューは表裏一体の関係であることを簡潔に説明する、エイマンのひねりは最年少エトワールの知性を伺わせた。
前回の公演まではプリュダンス役に溶け込んでいなかったメラニー・ユレルも、今回はコケティッシュな魅力を振り撒き、初回の出番では振付家らしく独特の解釈をしていたものの、技術的な破綻が見え隠れしたガストン役のニコラ・ポールも、3回目の舞台ではすっかりと立て直していた。コリフェながらも初演時からオランピアを踊り、今回は第1キャストに選ばれたジュリエット・ジュルネは、ますます刺激的になった目で悩殺して、アルマンが落ちてくるのを待ち、逆にマティルド・フルステは「私を見て」と自らアルマンに大胆なモーションをかける。

最近のパリ・オペラ座バレエは、1つの作品を2、3年おきに繰り返す傾向にあり、年間150回を超える公演回数は世界でも稀に見る多さだ。『椿姫』も例に漏れず、2006年6月に15回公演、9月に9回公演、2008年に17回公演を行い、2年振りとなる今回も、15回公演だった。1か月に亘る公演期間中、ダンサーたちは試行錯誤しながら、役を吸収し、成長していく。
選び抜かれた原石はその才能を生かす場を存分に与えられてこそ、磨かれるのだ、と、千秋楽の3月4日に、いつもにも増して強く思った。
(2010年2月16日イザベル・シャラヴォラ、カール・パケット。2月25日、3月3日アニエス・ルテステュ、ステファン・ビュリョン。3月1日、4日デルフィーヌ・ムッサン、カール・パケット。すべてパリ・オペラ座ガルニエ宮)

アレクサンドル・デュマ・フィスの小説を基にした、プロローグつき3幕
Ballet en un prologue et trois actes d'après le roman d'Alexandre Dumas Fils

音楽/フレデリック・ショパン 
演出、振付 :/ジョン・ノイマイヤー 
装置、衣装/ユルゲン・ローゼ 
照明/ロルフ・ワルター
リハーサル/ヴィクトール・ヒューズ、クロード・ド・ヴルピアン
オーケストラ/パリ・オペラ座管弦楽団
指揮/ミヒャエル・シュミッツドルフ
ピアノ:エマニュエル・ストロッセル、フレデリック・ヴァイセ=クニッテル

Photo:Sébastien Mathé

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